天皇伝/平安時代
< 天皇伝
- 王朝文化きらめく平安時代を宰った帝達の噂を集める。
前期[編集 | ソースを編集]
桓武天皇(第50代)[編集 | ソースを編集]
- 平安京を建設。
- その前に長岡京も建設しているが、怨霊騒ぎがあって中断。
- 奈良の仏教勢力がうざ過ぎたから遷都したかったらしく、平安京には奈良仏教の寺院はほとんど建てさせなかった。
- その代わり、最澄を寵愛して、当時の新仏教である天台宗や密教を保護。
- 長岡京は桂川の反乱でしばしば被害を受けており、また平城京からの遷都を充分な周知なく行って世間の反発を買ったため、平安遷都に伴っては治水を考慮し、更に詔を出してから実行した。
- ともあれ、今日の京都の基礎を築いた人として功績は大きい。右京は荒廃して左京ばっかり栄えることになってしまったけれど。
- 母・高野新笠は百済人の血を引いていたらしい。
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
- 桓武天皇が生まれた時点で、百済が亡びてからすでに70年以上経過している。百済人の血などどれだけ薄まっていたか。しかも百済は韓国とは関係ねーだろ!
- 高野新笠は「百済王(くだらのこにしき)」氏という貴族の出身。
- 当時の三流貴族の中には自身の血統にハクをつけるために「百済王の子孫」という意味でもある「百済王(くだらのこにしき)」氏の一員と名乗ることは多かった。
- 高野新笠が本当に百済王の血筋を受け継いでいた可能性は低い。
- 「百済王」の読みは「くだらのこにきし」ね。
- 当時の三流貴族の中には自身の血統にハクをつけるために「百済王の子孫」という意味でもある「百済王(くだらのこにしき)」氏の一員と名乗ることは多かった。
- 百済王の血筋を引いていると主張した桓武天皇の時代、日本は新羅と国交断絶状態にあった。
- そもそも、自分が百済王の血筋を引いていると主張したのも、新羅と対抗する目的のため。
- ただ桓武天皇が、長身の偉丈夫であったという記録がある。
- 桓武天皇は、征夷大将軍の坂上田村麻呂など多くの渡来人を登用している。
- 田村麻呂本人が渡来人だったのではなく、漢人の渡来系の家柄。半島とは関係ないよ。
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
- 平安京も建造途中で工事中止。民の負担が大きくなるのを懸念したためとか。
- 平安京建設と蝦夷討伐を止めたのは、藤原緒嗣による意見を聞いたから。いわゆる徳政論争。
- 平氏のご先祖様。
- ただし、実際に平姓が子孫に与えられたのは3代後の淳和天皇の御代である。
- 祟りにやたら遭っている。
- 父の代に幽閉されて亡くなった、井上廃后と息子の他戸廃太子の怨霊を恐れた。
- 井上廃后に皇后号を送ったうえに、二人を慰霊するための霊安寺と御霊神社を作る。
- 長岡京へ遣都したら、天災や身内の不幸が起きた。
- 自分に天子の資格がないと言われるのを嫌って、10年後に平安京へ再び遣都。
- 弟の早良廃太子を結果的に死なせてしまったら、息子の安殿親王(平城天皇)が病気になったり、身内が次々と死んだり、洪水が起きたり、病が流行ったりと、ろくでもない出来事が頻発。
- 崇道天皇の追称を送るわ、埋葬先の淡路国へ陰陽師と僧侶を派遣して鎮魂の儀式をさせるわ、挙げ句に墓を掘り返して大和国に改葬するわと、あからさまに恐れていた。
- 石上神宮から歴代天皇の神宝を山城国へ運び出したら病気になった。
- 自分の歳と同じ人数の僧侶を集めてお経を読ませて、神宝を元に戻したものの、結局病気で崩御してしまった。
- 父の代に幽閉されて亡くなった、井上廃后と息子の他戸廃太子の怨霊を恐れた。
平城天皇(第51代)[編集 | ソースを編集]
- 平城京にひきずられて「へいじょうてんのう」と読みたくなるが、正しくは「へいぜいてんのう」。
- 最近は「平城京」も「へいぜいきょう」とルビを振られる場合がある。ひょっとするとそのうち「へいぜい」に一本化されるかもしれない。
- 漢音統一で読むなら「へいぜい」が正しいらしいが、平城京の「きょう」は呉音。
- と言って呉音統一で読むなら「びょうじょう」・・・一本化こだわらなくていい気がする。
- 最近は「平城京」も「へいぜいきょう」とルビを振られる場合がある。ひょっとするとそのうち「へいぜい」に一本化されるかもしれない。
- 重度のオバコン。
- 皇太子時代、皇太子妃として召された女性を引見した際に、当の女性ではなく付き添ってきていた母親のほうに一目惚れしてしまい、ただならぬ仲に。
- この女(母親のほう)が藤原薬子。のちに「薬子の乱」というのが起きる。
- 皇太子時代、皇太子妃として召された女性を引見した際に、当の女性ではなく付き添ってきていた母親のほうに一目惚れしてしまい、ただならぬ仲に。
- 感情の起伏が激しい人だった。
- 薬子に熱中したのもそうだが、父の桓武天皇が崩御した時、ころげまわって絶叫したそうな。
- 躁鬱病だったのではないかと診断している史家も居る。
- 「病気」を理由に3年で退位したのは、そのせいなのだろうか?
- 当初は、桓武時代の放漫財政を建て直そうと努力したが、なかなか成果が上がらないので飽きてしまい、皇位をさっさと弟(嵯峨天皇)に譲ってしまう。
- が、しばらくすると皇位を譲ったのが惜しくなり、いろいろ口出しをし始めるが、思い通りにならないのでぶち切れ、薬子とその兄・藤原仲成と共に旧都・奈良にこもり、勝手な勅令を出しまくる。
- ついに武力衝突となったが、嵯峨天皇側に機先を制され、あっさり敗北。
- 嵯峨天皇としては兄の罪を問いづらかったようで、一切を薬子と仲成のせいにして二人を斬る。それゆえ薬子の乱と呼ばれるようになったが、薬子がどの程度政治的策謀をめぐらしていたかは微妙。案外ただの色っぽいおばちゃんに過ぎなかったかも。
- でも、平城天皇の息子の高岳親王は、皇太子を廃されてしまい、このせいで承和の変が起こることになる。
- 嵯峨天皇としては兄の罪を問いづらかったようで、一切を薬子と仲成のせいにして二人を斬る。それゆえ薬子の乱と呼ばれるようになったが、薬子がどの程度政治的策謀をめぐらしていたかは微妙。案外ただの色っぽいおばちゃんに過ぎなかったかも。
- 結局、早々と嵯峨天皇へ譲位して上皇になっても、いい感じの待遇を受けていたせいで、朝廷の財政を圧迫していたのだった。
- そのおかげで嵯峨天皇は譲位する時に、藤原冬嗣から平城天皇の事例を挙げられて「上皇になると財政圧迫するから譲位するな」と意見されてしまった。
- 在原氏のご先祖様。
- 歌人・在原業平を輩出したことで有名。また松平氏及び徳川氏は在原氏の末裔という説もある。
- 松平氏や徳川氏は一般的には清和源氏の末裔と言われているが仮冒で、実は在原氏か藤原氏か賀茂氏の末裔という説が有力。
- 在原業平は、平城天皇の孫。血は争えないというか、祖父と同じくすごくモテた。
- 歌人・在原業平を輩出したことで有名。また松平氏及び徳川氏は在原氏の末裔という説もある。
- 大江氏のご先祖様でもある。
- 大江広元、毛利氏など。
- 大江千里(貴族の方)も。
- 大江広元、毛利氏など。
- 平城京が好きだったから「平城天皇」と追号されたって…安直過ぎぃ!
- そんなもん。
嵯峨天皇(第52代)[編集 | ソースを編集]
- 兄・平城天皇から皇位を譲られた。
- しばらく兄からの差し出口に悩まされたが、薬子の乱を契機に兄の発言を封じ込める。なかなか果断な人。
- 空海のマブダチになった。
- 薬子の乱平定の祈祷を空海のほうから申し出たのがきっかけ。
- 書道や詩作を空海から指導されたらしい。のちに嵯峨天皇自身、「日本三筆」のひとりに数えられる書家となる。
- 父・桓武帝が築いた平安京を安定させ、発展の礎を据えた功績は大きい。なおかつ一流の文化人であり、その後の王朝文化の祖となったと言える。
- 源氏のご先祖様。
- 武家源氏になった清和源氏より前に、嵯峨源氏というのがあり、嵯峨天皇の皇子が臣籍降下し源姓を賜ったのが源氏の興り。
- 嵯峨源氏は名前が一文字なのが特徴。「源信」(みなもと の まこと)や「源融」(みなもと の とおる)等が代表的。
- 平安京にエイリアンが出没するようになったので、検非違使を設置した。
- 適当に書いた子子子子子子子子子子子子が読めるかと嫌がらせな謎々を側近に出したら見事に答えられてしまった。
淳和天皇(第53代)[編集 | ソースを編集]
- 「じゅんな」と読む。「純名」とは書かない。
- 実は桓武平氏を誕生させたのはこの人である。桓武天皇の孫・高棟王に平姓を賜って臣籍降下させた。
- 上総、常陸、上野の3国を親王任国とした。織田上総守ではなく織田上総介、木村常陸守ではなく木村常陸介、吉良上野守ではなく吉良上野介なのはこのせい。
- 親王任国を作った理由は、皇族が増えすぎたせい。なので坂東の3大国(畿内など近国だと反対勢力が多い)を直接統治できるようにして朝廷財政基盤の強化を狙った。
- 名前を大伴というので、以後、大伴氏ははばかって伴氏になった。伴善男など。
仁明天皇(第54代)[編集 | ソースを編集]
- 「にんみょう」と呉音で読む。深草の帝という別名もある。
- 在位中に承和の変が起こり、皇太子を取り換えた。
- 最後の遣唐使を派遣した。
- 子供たちに源姓を与えているが、その中に源光という人物がいる。光源氏か?
文徳天皇(第55代)[編集 | ソースを編集]
- 承和の変により皇太子となり、そのまま即位。
- 藤原良房を人臣初の太政大臣に任じた。
- 病弱で、32歳で崩御した。
- 藤原良房が人臣最初の太政大臣になったのは、この前の年。
清和天皇(第56代)[編集 | ソースを編集]
- 清和源氏の祖。大変失礼ながら、生前と崩御後の名声の差は歴代随一と思われる。
- 数え9歳で即位、27歳で譲位、30歳で出家、32歳で崩御。その短い生涯はだいたい「意外!」と言われる。
- 生後8か月で皇太子になった。というか、ならされた。藤原良房の外孫だったため。
- 兄が3人いたが、藤原氏に無視された。
- 生後8か月で皇太子になった。というか、ならされた。藤原良房の外孫だったため。
- 数え9歳で即位、27歳で譲位、30歳で出家、32歳で崩御。その短い生涯はだいたい「意外!」と言われる。
- 源姓は子にではなく、孫の経基に与えられた。もちろん、崩御後のこと。
- 清和天皇の皇子でも源姓を与えられた者が4名いる。ただ清和源氏の中で栄えたのが源経基の子孫のみというだけ。なお経基以外にも源姓を与えられた清和天皇の孫は11人もいる。
- 在位中は、藤原良房を人臣初の摂政とするも、富士山が噴火し、応天門炎上事件が起こり、貞観地震が起こり、貞観の韓寇が起こり、と波乱の御代。
- 貞観地震は東日本大震災の前例として有名になった。
- 母(藤原明子)の従妹(藤原高子)との間に出来たのが陽成天皇である。
- 出家後は、修行の一環として山籠もりや登山をした。
- 江戸時代には、源義経が大陸に渡り清朝の先祖になったという説に関連して、清の国号は清和天皇に由来するという説が流布された。
- 清朝で発行された百科事典である『古今図書集成』収録の『図書輯勘』130巻に当時の清朝皇帝による序文としてそのような文章があったとされた。実際には『古今図書集成』に『図書輯勘』という書物は収録されておらず捏造とされている。
陽成天皇(第57代)[編集 | ソースを編集]
- 9歳で即位。
- 暴君説があるが、さて???
- そのせいか、17才で譲位。その若さで何を悪行しろというのかわからん。
- 悪行というよりは、異常なようすだったらしい。
- 退位後、なんと65年間も生きた。平将門の乱のときももちろん存命していて、甥の源経基が関東でいざこざに巻き込まれているのも知っていた。
- 源経基はこの人の孫という説もある。
光孝天皇(第58代)[編集 | ソースを編集]
- 即位した年齢は55歳。
- 実在が確実な天皇の中でも、三本の指に入る高齢での即位らしい。
宇多天皇(第59代)[編集 | ソースを編集]
- 最初は臣籍降下して「源定省」と名乗っていた。
- そもそも父の光孝天皇が50過ぎまで貧乏皇族に過ぎなかったのに、陽成天皇がメンヘラになって退位した後いきなり擁立された人。光孝天皇は陽成天皇から見ると大叔父にあたり、本来かなり皇統から遠かった。
- 光孝天皇は中継ぎの自覚があって、自分の子供に皇位を継がせない旨を明らかにしており、嫡子を臣籍降下させ「源定省」にしたのもそのためだったが、それでは誰に継がせるかということをはっきりさせないうちに崩御。
- 光孝天皇の片腕だった藤原基経は、自分の既得権を保持するため、光孝天皇の遺志を曲げて定省を擁立。
- 上記の事情から、藤原基経には頭が上がらなかった。
- 即位早々、「阿衡の議」なるしょーもない騒ぎが勃発。
- 基経に対し「阿衡の佐をもって卿の任となす」という勅書を出したのが発端。
- 「阿衡」は殷の建国の元老・伊尹のこと。伊尹が湯王を助けたように朕を助けるように、という意味だったのだが、基経がこれを曲解してヘソを曲げてしまった。
- 「阿衡」という言葉は当時としては少々古色を帯びていて、やや実権のない名誉職に近いニュアンスがあったらしい。実権を捨てて引っ込んでおれという意味か、と曲解したわけ。
- 基経がサボタージュを始めたので宇多天皇は困り果てる。一方、阿衡は名誉職か補佐職かという議論が朝廷で蜿蜒と繰り広げられる。
- この時讃岐から上書して宇多天皇と藤原基経の間を取り持ったのが菅原道真。
- この一件で、天皇には権威がないことが露呈してしまった。
- 権威というより権力だね。
- 即位早々、「阿衡の議」なるしょーもない騒ぎが勃発。
- 阿衡の議以来、宇多天皇は菅原道真を重用するようになる。
- 基経が死ぬと公然と寵愛し、基経の子の時平とリンクさせるように次々と昇進させる。藤原氏に対抗できるだけの手駒を育てようとしたらしい。
- しかし頼みの道真は失脚。当時上皇となっていた宇多は、道真を救おうとしたが、かつて自分が陽成上皇の徘徊に辟易して作った「上皇は天皇の許可無く内裏に入ることはできない」という決まりを盾にとられ、どうすることもできなかったとか。
- 個人的には失意のうちに崩御したと考えられるが、次の醍醐天皇・村上天皇の華やかな治世の下ごしらえをした英明な天皇であったと言える。
- 日本最古の猫ブロガーである。
醍醐天皇(第60代)[編集 | ソースを編集]
- 天皇がもっとも理想的な政治を行えた時代らしい。
- なので後醍醐天皇が憧れていた。
- 自分の追号を「ゴダイゴ」にしたのはそのため。
- この御代を「延喜の治」という。
- なので後醍醐天皇が憧れていた。
- しかし当の本人は、菅原道真を追い出して後にはその怨霊を恐れた。
- 宇多天皇が源定省だった頃に、生まれた。
- 930年6月28日(太陽暦だと7月)の清涼殿落雷に居合わせ、大納言の即死を間近に目撃した。
- このショックで病床に就き、9月22日に譲位し、9月29日に崩御した。
中期[編集 | ソースを編集]
朱雀天皇(第61代)[編集 | ソースを編集]
- 承平・天慶の乱勃発。「新皇」と並立状態に。
村上天皇(第62代)[編集 | ソースを編集]
- 摂政関白を置かずに親政を行った。
- なので後醍醐天皇があこがれていた。
- 自分の跡継ぎの追号を「後村上」にしたのはそのため。
- この御代を「天暦の治」という。
- なので後醍醐天皇があこがれていた。
- この方の日記は重要資料として現存している。
- 940年4月、(まだ親王時代)藤原の娘と結婚したとき伝統を破って宮中で結婚式を挙げてしまった。生母の藤原穏子(基経の娘)がやらせた。
- 954年に生母の穏子が亡くなったのち親政したようにみえるが、実際は女御の藤原安子(師輔の娘)に宮中を支配されていた。
- 960年9月、平安遷都以来の内裏が焼失した。
冷泉天皇(第63代)[編集 | ソースを編集]
- 安和の変により、左大臣源高明が更迭。藤原氏の朝廷中枢独占が確立。
- 在位2年で譲位。
- 数々の奇行が当時の書物に記されているらしい・・・。
円融天皇(第64代)[編集 | ソースを編集]
- 在位中の改元が4回もあった。ちなみに天禄→天延→貞元→天安→永観。
花山天皇(第65代)[編集 | ソースを編集]
- 即位式で女官を高御座に無理矢理連れ込み×××したというクレイジーな御方。
- これ以外にも、女性問題に関するエピソードが多数残されている。
- かなりの男前だったようだが、女性問題を起こしまくったおかげで、「内劣りの外めでた」と低評価を受けてしまった。現代の言葉で表すと「残念なイケメン」。
- これ以外にも、女性問題に関するエピソードが多数残されている。
- 不意打ちのような形で出家・退位を強いられた話は古文の教材になるくらい有名。
- 270年ほど途絶えていた西国三十三所巡礼を復興させたと言われている。
- だが、第20番札所の善峯寺は、花山院没後の創建なので、この話は無理がある。
一条天皇(第66代)[編集 | ソースを編集]
- 藤原摂関時代が最盛期を迎えた。
- 奥様はかの有名な中宮定子と中宮彰子。
- バックにはそれぞれ清少納言と紫式部がいた。
三条天皇(第67代)[編集 | ソースを編集]
- 藤原道長の最盛期にもかかわらず反抗したため、在位5年で譲位。
後一条天皇(第68代)[編集 | ソースを編集]
- 藤原道長、一首詠ませていただきます。この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
後朱雀天皇(第69代)[編集 | ソースを編集]
- 摂政関白藤原頼通の最盛期。
後冷泉天皇(第70代)[編集 | ソースを編集]
- 摂政関白藤原頼通の黄金期。
- 宇治に平等院建立。建てたのはこの方ではなく藤原頼通。この方は建立後に行幸した。
- そして曰く「名は君臣なれど義は父子のごとし」。
後期[編集 | ソースを編集]
後三条天皇(第71代)[編集 | ソースを編集]
- 長く続いた摂関政治に衰退をもたらした天皇。
- 荘園整理も実施し、この辺りから藤原氏の名前は歴史上で重要な地位を占めなくなる。
- 母親が藤原氏の出でなかったため、藤原摂関家に遠慮することなく政治改革に着手できた。
白河天皇(第72代)[編集 | ソースを編集]
- 天皇時代よりも上皇・法皇になってからの方が有名。
- いわゆる「院政」。日本における「影の権力者」的構造を生んだ人にも見える(まあ摂関政治時代も同じようなものだが)。
- 初めの方から摂関政治の全否定はしていなかった模様。そりゃ反発も買うからジワジワ高めていくのが妥当な戦略だろうが。
- 鴨川の治水と双六賭博の抑制と僧兵の暴挙の抑制「だけ」ができなかった人。
- 双六のさい(の出方)が思うようにならないという話だった気がする。
- 双六に関してはその両方の解釈がある。
- 双六のさい(の出方)が思うようにならないという話だった気がする。
- 院政期の皇族らしく両刀遣い。男色相手は、2歳年下で乳兄弟の藤原顕季、夜伽のせいで「夜の関白」とあだ名をつけられた藤原顕隆、摂関家傍流の藤原宗通など。
- 自分の愛人を孫の后にした。
堀河天皇(第73代)[編集 | ソースを編集]
- 白河院政のため実権がなかったが、和歌や笙の名手だった。
鳥羽天皇(第74代)[編集 | ソースを編集]
- 白河法皇没後、院政の実権を握る。崇徳・近衛・後白河の三代28年に及んだ。
- 息子の崇徳天皇との争いが保元の乱の原因となり、平氏をはじめとする武士台頭のきっかけとなった。
- 詳しくは崇徳天皇の条をどうぞ。
崇徳天皇(第75代)[編集 | ソースを編集]
- 保元の乱で追い出された人。
- 父の鳥羽上皇が嫌っていた模様。
- 崇徳天皇を産んだ璋子(待賢門院)が、鳥羽天皇の妃になる前に白河法皇に寵愛されていた。崇徳も白河の子ではないかと言われている。
- 鳥羽天皇自身も、「ヤツは『叔父子』だ」と言ったそうな。自分の子であるはずだが、実際には自分の祖父(白河法皇)の子なので叔父に当たるではないか、という意味。そりゃ嫌うわな。
- 鳥羽上皇は崇徳に命じ、正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させる。崇徳は上皇となったが、院政期の慣習に反して、全然実権は持たせて貰えなかった。
- 近衛天皇の死後も崇徳の子に皇位は廻らず、近衛の弟の後白河が天皇に。崇徳上皇はついにキレて挙兵。これが保元の乱。
- たまたま失脚中だった藤原頼長と組み、源為義、平忠正など有力な武将を配下にして意気軒昂だったが、後白河側は名うての切れ者藤原信西を参謀長にし、源義朝、平清盛など若手武将を揃えて応戦。結果は崇徳側の大崩れ。
- 父の鳥羽上皇が嫌っていた模様。
- 讃岐に流され、そこで日本国を呪いながら死ぬ。
- 写経したものを京都の寺に奉納してくれという頼みすら拒絶されて、壊れてしまったらしい。
- そして日本国の大魔縁となる。間違いなく史上最強の怨霊。
- 「皇をとって民となし、民を皇となさん」の呪いの言葉は、鎌倉幕府樹立を経て承久の乱の結果上皇二人と天皇が武士(北条氏)から処罰(遠島)を受けることで見事実現した。
- 生きながらにして金ピカの天狗になったとも言われている。
- しかし、実際は流刑地では讃岐の人々からは「天皇さん」と呼ばれ親しまれ、物々交換などをしたり和歌を楽しみながら穏やかに過ごしたとも言われている。
- 明治維新後京都に白峯神宮として招聘され、現在はサッカーの神様になっている。
- 上方落語ファンには「瀬をはや~み」のフレーズでおなじみ。
- 京都市の安井金比羅宮に祀られている。
近衛天皇(第76代)[編集 | ソースを編集]
- 3歳で即位し、17歳で崩御。花の命は短くて。
後白河天皇(第77代)[編集 | ソースを編集]
- 平家と源氏を争わせてバランスを取ろうとしたが、結局は鎌倉に武家政権を作らせてしまった皮肉な人。
- 最終的な落とし所としては妥当だが、下記のgdgdっぷりを見ると、単に場当たり的な対応を繰り返してただけだろう。
- 腹黒さと強かさでは白河天皇に負けず劣らずだっただろうか……
- 頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた策謀家。
- 平氏が調子に乗ってウザイ→鹿ケ谷の陰謀→失敗→全然知らなかったと白を切る
- 以仁王の平氏追討令→平氏を追い落とし源義仲入京→義仲を旭将軍に任命
- 義仲も調子に乗ってウザイ→義仲追討令
- 平氏滅亡。頼朝と義経の対立(上皇があおった?)→義経の要請で頼朝追討令
- 義経逃亡→頼朝が文句を言ってきたので「義経に脅迫されていた」と言い訳→義経追討令
- 義経、奥州藤原氏滅亡→頼朝「東北平定したんだから征夷大将軍に任じてよ」上皇「嫌だ」→頼朝の征夷大将軍就任は上皇崩御後
- 頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた策謀家。
- もともとは、崇徳上皇の子に皇位を継がせたくない鳥羽法皇などの意思で、中継ぎとして即位した。
- 本命は後白河の子の守仁親王(二条天皇)だった。後白河自身はな~んにも期待されていなかった。
- よほど愚物と思われていたフシがある。それがあんな腹黒い策謀家になるとは。
- 本命は後白河の子の守仁親王(二条天皇)だった。後白河自身はな~んにも期待されていなかった。
- 「今様」が大好き。今様の歌い手を厚遇し、今様の歌集も作った。
- 「今様」は当時の流行歌、というか今で言えばパンクロックみたいなハジケた歌。
- 「今様」の名手であれば、ホームレスだろうと娼婦だろうと構わずに招待して一緒に酒を飲んだらしい。
- 当然、良識ある人々からは白い目で見られるが、法皇が編集した歌集「梁塵秘抄」は当時の民衆の実態や心情を伝える非常に貴重な資料になっており、評価が逆転している。
- 絵巻物も大好き。現在評価が高い絵巻物の大半は、後白河の時代に描かれたもの。
- アジテーションでもプロパガンダ であるよりも、何よりもまずエンターテイメントを重視して制作している。だから現代の我々が見ても楽しいのだろう。
- やっぱり、同時代人からは道楽が過ぎると思われていたが、今では平安末期の風俗をビジュアルで理解することが出来る貴重な資料であり、大胆で独創的な表現技法を駆使した絵画技術は高く評価されている。こうした価値の逆転が起こるから歴史は面白い。
- 今で言えば漫画ファンですな。国のトップに居る人が漫画に熱中するなんて……あれ?
- 「小柴垣草子」というポルノ絵巻まで描かせる。
- なんとなく津川雅彦がはまり役?
- 平氏打倒の謀議の席で瓶子(へいじ、徳利みたいなもの)が倒れたのを見て「平氏が倒れた」とか言って気炎をあげたのは上皇だっけ?公卿のだれかだっけ?
- 鹿ヶ谷事件のことなら、酒盛りの上での話だから・・・実際のところはわからない。で良いと思うけど。
二条天皇(第78代)[編集 | ソースを編集]
- 天皇親政を目指し、父の後白河天皇と対立した。
- 平治の乱では藤原信西・源義朝に包囲されるが、女装して脱出。
六条天皇(第79代)[編集 | ソースを編集]
- 何と2歳で即位した。
- 何と5歳で上皇になった。
- そして13歳で崩御。涙。
高倉天皇(第80代)[編集 | ソースを編集]
- 平氏全盛期の天皇。お嫁さんは平徳子。
安徳天皇(第81代)[編集 | ソースを編集]
- 壇ノ浦。
- 歴代帝の中で一番、哀れみを誘うお方だ。
- 後の時代の四条天皇も別の意味で哀れみを誘うお方。
- 入水前に祖母の二位尼が「波の下にも都がございます」と慰めたというエピソードは泣かせる。
- 大人の身勝手さに振り回されて犠牲となった子供の話は本当に悲惨過ぎる。
- どこまで事実かわからないが、安徳生存伝説が各地にある。
- 母や祖母と共に水天宮の祭神となる。
- 入水現場の近くにある赤間神宮(旧名・阿弥陀寺)にも祀られている。
- 義経が命を救えなかったことで頼朝からの評価を悪くする。
- 入水と同時に三種の神器も流されたがなんとか見つかったと言うが…
関連項目[編集 | ソースを編集]
- 平安時代
- 天皇伝/上代(初代~25代)
- 天皇伝/飛鳥・奈良時代(26代~49代)
- 天皇伝/鎌倉時代以降(82代~)