天皇伝/鎌倉時代以降

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  • 大正天皇までの記載といたします。

鎌倉時代[編集 | ソースを編集]

後鳥羽天皇(第82代)[編集 | ソースを編集]

  1. 上皇になってから将軍関係のゴタゴタの隙に鎌倉幕府を倒そうと自ら兵を挙げた。
    • 京での緒戦は快勝したが、関東武士が言うことをきかず、幕府についたので最終的にはボロ負け。
      • 上皇は上級武士を家臣化すれば、その下の武士たちも自然とついてくると思っていたが、実際は上皇が直接恩顧を与えた武士しか味方にならず、たいした兵力にならなかった。
      • 転じて頼朝は小身の御家人でも手ずから「お前だけが頼りだ」と語りかけ、武士ひとりひとりの掌握に努めた。こうした姿勢の違いが、もろに味方の数に現れる結果になる。
        • 頼朝はすでに亡い。掌握したのは尼将軍北条政子。
      • 鎌倉からは「上皇ご謀反」と言われた。謀反の意味が逆転しているような・・・。
    • 後に北畠親房曰く「義時はちゃんとした人間だった。陪臣の義時が天下を取ったからという理由だけで討伐とかいいだした後鳥羽が悪い」
  2. 歌人としてはかなりのものだった。
  3. 刀鍛冶としてもかなりのものだったらしい。世に言う菊一文字の元祖だとか。
    • とにかく、自作の刀に菊の紋を入れたのが、のちの皇室の紋の一つになった。もう一つは桐ね。
  4. 崩御後、安徳天皇に続いて諡号(顕徳院)が贈られた。だからもともと「顕徳天皇」となるはずだった。
    • ところが、天変地異等不幸が続いたためまさかの諡号取り下げ、追号「後鳥羽院」となった。
      • 諡号と追号の違いはうぃきってね。

土御門天皇(第83代)[編集 | ソースを編集]

  1. 父の後鳥羽上皇の挙兵に賛成しなかったため、弟に譲位させられた。
  2. というわけで乱後当然処分はなかったが、道義的責任を感じたのか自分から阿波へ配流となり、そこで崩御した。
    • 最初土佐で、それから阿波に流しなおされてるの方が正しいか。
  3. 土佐弁混じりの変な言葉で喋るわけでもないし、シスコン・メイド好きというわけでもない。

順徳天皇(第84代)[編集 | ソースを編集]

  1. こちらは積極的に父・後鳥羽上皇に協力。ただし途中で天皇の立場ではまずいと思ったのか、息子に譲位。
  2. 結局鎌倉に負けて佐渡に流され、そのまま崩御。
  3. 徳に順うだから、怨霊になりそうと言うことで警戒されたのかも。
  4. 百人一首の百人目。

仲恭天皇(第85代)[編集 | ソースを編集]

  1. 父・順徳天皇の思惑によりわずか数え4歳で践祚。しかし承久の乱後在位4ヶ月で退位させられる。
  2. 即位していないため「半帝」または「九条廃帝」と呼ばれ、歴代天皇に入っていなかった。「仲恭」の諡号を贈って歴代天皇に加えたのは明治天皇。

後堀河天皇(第86代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後鳥羽上皇の兄の子。鎌倉幕府の推しにより仲恭天皇に代わって即位。

四条天皇(第87代)[編集 | ソースを編集]

  1. 2才で天皇に。
  2. 12才のとき、廊下で女官を転ばせようと細工をしたら自分がこけて頭打ってそのまま崩御。
    • 自分が仕掛けたイタズラに自ら引っ掛かって崩御した事実が、後世に永遠と語り継がれるとか、色んな意味で不憫すぎる。
    • この事件がなかったら南北朝に分かれることはなかったかもしれない。転んだだけで歴史を動かした人。

後嵯峨天皇(第88代)[編集 | ソースを編集]

  1. 日本国が南北朝に分裂する根本原因を作った方。
    • 長子の後深草天皇と確執があり弟の亀山天皇を寵愛したらしい。お家騒動の典型的な例である。

後深草天皇(第89代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「深草」天皇とは、54代仁明天皇の別名。
  2. この方の血統が持明院統と呼ばれ、のちに北朝となり、現在の皇室に続く。

亀山天皇(第90代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後深草天皇の弟。この方の血統が大覚寺統と呼ばれ、のちに南朝となる。
  2. 後深草天皇の子ではなく亀山天皇が即位し、さらに後嵯峨上皇により亀山天皇の子が皇太子にされたことが、すべての発端になった。
  3. 元寇の時に、「我が身をもって国難に代わらん」、と各地の寺社に祈願した。おそらく心底ガチで祈りを捧げたものと思われる。
    • 特に筥崎宮へ奉納した「敵國降伏」の宸筆が知られ、神門の扁額としても掲げられている。
      • 向こうの項目にもあるが、扁額自体は後年になって、宸筆を拡大して作られたもの。

後宇多天皇(第91代)[編集 | ソースを編集]

  1. 亀山天皇から大覚寺統が2代続いたため争いとなり、いわゆる両統迭立が約束された。
  2. よってこのあと2代持明院統が続くこととなったため、つぎに大覚寺統となったときに院政をおこなった。

伏見天皇(第92代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後深草天皇の息子。すなわち持明院統。

後伏見天皇(第93代)[編集 | ソースを編集]

  1. 伏見天皇の息子。すなわち持明院統。
  2. 自分の追号が父の追号に「後」をつけたもので、父のすぐあとを継いだのはこの方のみである。ある意味わかりやすい。

後二条天皇(第94代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後宇多天皇の息子。すなわち大覚寺統。
  2. この天皇の御代では、上皇が5人もいてそれぞれ院政をとっていた。
    • 社長よりも広い部屋をもらっている代表取締役が5人いるようなもん。

花園天皇(第95代)[編集 | ソースを編集]

  1. 伏見天皇の息子。すなわち持明院統。
    • あ~面毒斎。
  2. 皇太子はあのゴダイゴだが、皇太子の方が9歳も年上だったらしい。

光厳天皇(北朝初代)[編集 | ソースを編集]

  1. 正確には北朝成立前に退位しているが、諸々の経緯から初代とされる。
  2. 後醍醐天皇が隠岐に流されたことで擁立。だが、執念で帰ってきた後醍醐から「特別に上皇として認めるけど即位した事実はないから」としてなかったことにされてしまう。なので現在の即位代数には含まれず。(一応明治までは第96代だった)
  3. 歴代天皇の中でも一二を争う波乱の生涯を送っている。だいたい後醍醐の(ry
    • 六波羅探題が陥落し東国に逃れようとするも、道中で野伏やら婆娑羅大名やらに襲われ護衛は全滅。自らも肘に矢を受けて負傷し、三種の神器もろとも京都に送還。
    • 酔っ払った土岐頼遠に「院?犬?知るかヒャッハー!!」と矢を射掛けられる。
    • 足利義詮がディフェンスを忘れた結果南朝に誘拐され、5年間虜囚の身。その間に北朝では勝手に後光厳天皇を立てられ、父子仲まで微妙なことに。

南北朝・室町・戦国時代[編集 | ソースを編集]

  • 南北朝は正閏関係なく即位順といたします(光厳天皇は後醍醐天皇の後ですがフライングといたします)。

後醍醐天皇(第96代)[編集 | ソースを編集]

  1. 髭が濃いイメージが強い。
    • キャラも髭に負けず劣らず濃すぎ。
    • 皇室の血が入ってるのか?と思えるほど(戦前なら○○罪ですかね)、この人の性格は突然変異。
      • おそらく母親から。後醍醐の母は息子を天皇にするため、なんと夫の父であり大覚寺統主であった亀山天皇の后になった。
      • 天皇の号は諡なので退位してから名付けられのだがこの人は醍醐天皇に憧れているということで自分で在位中から後醍醐を名乗った。
        • この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
          • 「後醍醐」の号を選んだのは、父の後宇多天皇の次というのを強調するため(元になった醍醐天皇の前は宇多天皇)。討幕派の後醍醐と親幕派の後宇多は、先述の母親のこともあって仲が悪かったが、だからこそ、自分は廷臣たちに人気の高かった後宇多の息子だとアピールし、彼らの支持を得る必要があったと思う。
        • 延喜・天暦の治にあこがれていたので後醍醐を名乗った。ついでに息子の天皇の諡号まで自分が決めた(後村上)。
      • 普通の百科事典にも「個性が強い」と書かれていたりする。
  2. 「七転び八起き」とはこの人のためにあるような言葉。
    • 倒幕計画が一度失敗に終わってもめげずに再び立ち上がったり、隠岐に流された後監視の目をかいくぐって脱出したり、足利軍に京都を落とされた後に失踪して吉野に行ったり…ととにかく執念深い。
      • しかし、どれだけ逆境に遭おうとも最期まで諦めなかった生き様に、敬意を感じる人はそれなりにいるのでは?
  3. 足利尊氏が天竜寺を建てたのはこの人の怨念を恐れたかららしい。
    • 実際にその傑物(良くも悪くも)ぶりを目の当たりにしたから、余計怨念が怖かったんだろう。
    • その後南朝の末裔(自称)が昭和になっても出てくる辺り、この人はガチで祟っている。
  4. 実は部下や配下武将を平気で使い捨てにしてる(倒幕計画を日野一族の責任にしたり、義貞に無断で尊氏と講和したり)結構ひどい上司なのだが、それでもついて行ってる奴がいるのはやはりカリスマ性があったからだろうか。
    • たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
      • その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
        • 当時の常識から考えて、楠木正成などが天皇にお目見えするなど、本来あり得ない栄誉だから感激してしまったんだろう。反面、軽率・慣例無視とも言え、これをカリスマと言っていいか微妙のような・・・。
        • 佐々木道誉「せやな」
    • いくら不仲だったとはいえ、息子の護良親王を見捨てたのはなぁ…。
  5. 日本全国の領地の分配(論功行賞とか)を自分一人で管理しようとしていたらしい。そりゃ無理だよ。
    • 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
      • 「後の三房」を見出し機会を与えたのは、後宇多天皇。しかも、後醍醐は彼らに諫められる一方。
    • 綸旨ですべてを動かそうとしたので、綸旨がハイパーインフレーションを起こした。近頃都に流行るもの、夜討強盗、ニセ綸旨・・・。
  6. ♪ガンダ~ラ ガンダ~ラ
    • そのゴダイゴのバンド名の由来のひとつ。
  7. 能力自体は高いのだが、そのせいかとにかく全てにおいて詰めが甘い。どこか一点でもきちんと最後まで仕切っていればあるいは・・・・
    • 正直、その場の勢いで行動してる感がする。
  8. 何故か「いらすとや」にイラスト化(フリー素材)される。

光明天皇(北朝第2代)[編集 | ソースを編集]

  1. 光厳天皇の弟。大楠公が湊川で討死したことにより、後醍醐天皇に代わり即位。
  2. しかし後醍醐天皇が吉野へ逃亡し、「お前に渡した三種の神器はニセモノだ」と言い出して大騒ぎとなり、その後半世紀以上日本は真っ二つになる。
    • どれが本物なのかは天皇にしかわからないため、令和の今に至るまで南朝正統論の根拠の一つとなっている。
    • ちなみに北朝皇族が拉致された時に「まあ一応回収しとくわ。偽物だけど」といってちゃっかり接収しているため、やっぱり本物だった感が濃厚。
  3. 名前は豊仁(ゆたひと)と読む。
  4. 5年間南朝の捕虜となる。

後村上天皇(第97代)[編集 | ソースを編集]

  1. 逃亡先の吉野で即位。
  2. 父親に自分の崩御後の諡を決められてしまった。(後醍醐天皇参照)
  3. 母親は例の立川流などといろいろ噂のある新待賢門院・阿野廉子。
  4. 観応の擾乱による正平一統で、奇跡の京都・鎌倉奪還を果たす。ただし天皇自身は入京できず。
  5. 光厳、光明の両上皇、崇光天皇と東宮を大和国・賀名生へ拉致。
  6. 足利義詮の反撃により賀名生へ再避難。
    • 最終的に足利尊氏死亡後のゴタゴタに乗じて住吉大社の近くまで進出。最終的にそこで崩御した。
  7. 歴代天皇でも屈指の波乱の人生を送っている。北畠顕家の高速移動について行ったり、船で遭難したり。

崇光天皇(北朝第3代)[編集 | ソースを編集]

  1. 光明天皇の譲位により即位。
  2. ところが観応の擾乱によって南朝に拉致され、廃位となってしまった。
  3. 京に戻ったのは5年後。弟がすでに即位しており時すでに遅し。

後光厳天皇(北朝第4代)[編集 | ソースを編集]

  1. 崇光天皇の弟。
  2. もともと坊さんになる予定が、拉致による北朝の皇位空白を防ぐため、親王でもないのに急遽擁立。
  3. しかも任命権者である「治天の君」も不在のため、93代後伏見上皇の奥さんに治天の君になってもらうという泥縄手続き。
  4. 在位中も南朝の攻撃により美濃や近江へ逃れることしばしば。苦難の在位。

長慶天皇(第98代)[編集 | ソースを編集]

  1. 在位記録が乏しいため、大正年間まで即位が確定できなかった。
  2. 南朝内では主戦派として伝わっている。
  3. 青森県・岩手県名物の「南部煎餅」を創始した人物という説がある。
    • 名久井岳の長谷寺を訪れた時、食事に困窮した長慶天皇を見た家臣の赤松助左衛門が、近所の農家にそば粉と胡麻を譲って貰い、それを自分の鉄兜を使って焼き上げたものを食事として出した。
      • それを長慶天皇が気に入り、それ以後赤松に度々作らせるようになったのが、南部煎餅の始まりとされる。

後円融天皇(北朝第5代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後光厳天皇の皇子。譲位を受け即位。
  2. 即位時は崇光系から異議が出され、在位中は足利義満のモラハラに悩まされる。
    • 寵妃をNTRれたという俗説も。。。

後亀山天皇(第99代)[編集 | ソースを編集]

  1. 本当は後小松天皇(北朝第6代)より後の即位。
  2. 両朝合一により入京し、三種の神器を後小松天皇に渡した。
  3. ところが18年後、突如吉野へ逃亡。6年後に帰還。南朝への待遇の約束が守られなかったから、という説あり。

後小松天皇(第100代)[編集 | ソースを編集]

  1. 南北朝を統一した。
    • まあ、後小松天皇がそのために何をしたのかと言えば微妙だが。
  2. 一休さんの父親とされている。
    • 母親(伊予の局)が南朝遺臣の娘だったため、後小松天皇の長子ながら皇位は継げず、僧籍に入れられたらしい。
  3. 「小松」天皇とは、58代光孝天皇の別名。
  4. 「足利義満の子」説がある。後円融天皇の妃である母親と足利義満との密通疑惑があり、後円融天皇がブチ切れて妃を殴打する事件が起きている。

称光天皇(第101代)[編集 | ソースを編集]

  1. 病弱により後継ぎが作れず、皇統は崇光天皇系へ戻ることとなった。

後花園天皇(第102代)[編集 | ソースを編集]

  1. 崇光天皇の直系曽孫で伏見宮彦仁王と言った。
  2. 称光天皇崩御により後小松上皇の猶子を経て即位。8親等以上離れた皇位継承は天武系から天智系への継承以来、約650年ぶり。
  3. 後南朝勢力に内裏を襲撃され、三種の神器のうち勾玉を持ち去られる事件が発生(禁闕の変)。
  4. 飢饉にも関わらず遊び惚けていた足利義政を漢詩で説教した。
  5. 永享の乱では、足利義満の治世以来出せなかった朝敵綸旨を発した。
  6. しかし、応仁の乱では朝敵指定を拒否。いたずらに朝敵をつくることは乱のモト、と反省したらしい。

後土御門天皇(第103代)[編集 | ソースを編集]

  1. 即位後すぐに応仁の乱勃発。足利義政の家で10年間も避難生活を送る。
    • その間に日野富子の侍女に手を出してしまった。
  2. その後の室町幕府のgdgdぶりに嫌気がさしたのか、「譲位する!」と5回も表明しそのたびに幕府に止められた。

後柏原天皇(第104代)[編集 | ソースを編集]

  1. 朝廷は超財政難だった。
    • 即位の礼を執り行うお金がなく、実現したのは即位してから22年後。
      • その間にも11代将軍の足利義澄は、即位の礼の費用を援助しようとしていたが、管領・細川政元に反対されて実現せず。
        • 結局、朝廷の儀式を中止することで経費を浮かし、ちびちびと挙行費用を貯めるはめに…。
      • 苦難を乗り越えてようやく実現可能になった即位の礼も、挙行数日前に10代将軍(復職)・足利義稙がいきなり京都を脱出して、敵対していた管領・細川高国を討つ準備に入ったので、挙行を危ぶまれる事態に陥った。
        • 義稙の行動にぶちギレた天皇は、高国に即位の礼の準備をさせたうえで強引に挙行し、高国による義稙放逐と次期将軍として足利義晴の擁立を認めたのだった。
    • 父帝である後土御門天皇の即位からほどなくして勃発した応仁の乱のせい。このせいで葬儀を執り行う費用すらなく、後土御門天皇は崩御してから実に40日もの間、遺体が御所に安置されていたという嫌な逸話も残っている。
      • その父帝と同じく、朝廷の困窮は自らの罪障のせいだと思い悩み、阿弥陀如来に慈悲を乞いていた。
    • 自分の即位の礼すら出来ない状態なのに、伊勢神宮の内宮・外宮からは、遷宮させて欲しいとそれぞれ要望されていた。
      • 遷宮するのにもお金がかかるので、紆余曲折を経て、仮殿遷宮という形でしのがせた。
  2. 「柏原」天皇とは、50代桓武天皇の別名。

後奈良天皇(第105代)[編集 | ソースを編集]

  1. 宸筆を書きまくって諸国大名に売りつけ、皇室費を稼いだ苦労人。
    • よって、この方のご宸筆は、歴代天皇中最安値だとか。
    • 写した般若心経も26ヶ所に送ったうち、7ヶ所分が現存
    • だが官位欲しさの献金は断る。
  2. 先代の「奈良」は、51代平城天皇。
    • 後奈良天皇自身は、奈良と全然関係ない。生粋の京都人。
  3. 戦国の世にあって文化人として面白い事績を残している。
    • 日本最古のなぞなぞ集、「後奈良院御撰何曾」をまとめる。
    • 本将棋を完成させた人物とされる。
      • 将棋盤から酔象を追放した。

正親町天皇(第106代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「おうぎまち」ではなく「おおぎまち」である。
  2. 信長の野望によく出てくることで有名。
  3. 本能寺の変の黒幕説がある。信長のおかげでステータスが上がったと思うのだが。。。

後陽成天皇(第107代)[編集 | ソースを編集]

  1. 思えば、この方が聚楽第に行幸した時が、秀吉の人生の最高点だった。
  2. 先代の正親町天皇の孫である。

江戸時代[編集 | ソースを編集]

後水尾天皇(第108代)[編集 | ソースを編集]

  1. 幕府によって統制をうけることになった天皇。
    • 幕府の横暴には嫌気が差したらしく、娘に皇位を譲る。
      • むしろ幕府は、風紀が乱れきった朝廷の威厳をなんとか取り戻そうと頑張っていた、というのが最近の見解。
    • 中宮が徳川秀忠の娘・和子(入内前は「かずこ」、入内後は「まさこ」)。明正天皇は後水尾帝と和子の間に生まれた皇女。
  2. 花と炎の帝。
  3. とにかく長寿な上、子沢山。
    • 直の子女の中から女帝を含め、4人の天皇を輩出している。
      • 出家した58歳で、のちの霊元天皇を側室に産ませる。
    • 遊郭へお忍びで遊びに行ったり、宮中へ遊女を招き入れて乱パを開催したりと、相当性が乱れていた。
      • そりゃ幕府も禁中並公家諸法度を制定しますわ。
  4. 昭和天皇がお隠れになったとき、『明確な歴史としてはっきりしている長寿』の後水尾天皇以来の長寿だったと言ってた。
  5. 「水尾」天皇とは、56代清和天皇の別名。
    • 父親である後陽成天皇は、清和天皇の息子の陽成天皇から採って追号し、自分は後水尾を遺諡にする。
      • 父親嫌いだったので、わざと父子逆の追号をするという。めちゃくちゃ大人げない行為。
    • 本来は「ごみずのお」ではなく「ごみのお」と読むのが正しいらしい。

明正天皇(第109代)[編集 | ソースを編集]

  1. 久しぶりの女性天皇。実に859年ぶり。
    • そのため、一生独身な上、男に関心持たせないために、ほぼ隔離状態だったとか。
  2. 幕府と確執した前天皇から突然皇位を譲られた。
    • そのため践祚した年齢は、なんと7歳。
      • 初めから中継ぎで即位させるつもりだったので、女性であることと年齢が幼いことは不問とされた。
  3. 母は狸の孫。
    • 曽祖父母に浅井長政・お市の方が居り、織田信秀も先祖である。
  4. 明正は、同じ女性天皇の43代「元明」と44代「元正」から一字ずつとられた。

後光明天皇(第110代)[編集 | ソースを編集]

  1. 姉の明正天皇から譲位されて即位。古来のしきたりが廃れた朝廷の再興に努めた。
    • 朝廷衰退の原因として、和歌や源氏物語などの古典を嫌っていた。
      • ある日、禁中へ臨幸した父の後水尾院から和歌を詠むよう促されたら、供御人が来るまでの間に即行で10首も作り、後水尾院を唸らせた逸話もある。
  2. 天然痘を患って22歳の若さで崩御。
    • 幕府の意向に反する態度をとっていたことから、幕府側による毒殺説が当時飛び出していた。
  3. 儒学や漢学に傾倒する一方、アンチ仏教だった。
    • 三種の神器が入った唐櫃を無理矢理開けて、中に仏舎利があるのを見つけると、庭に捨てさせた。
    • 崩御後は過去の天皇と同様、泉涌寺にて仏式で葬られることになったが、禁中に出入りしてた魚屋の進言で、火葬(荼毘)ではなく土葬となった。
      • 以降の歴代天皇は、土葬されるのが常になっている。
  4. 幕府の手先である京都所司代・板倉重宗とのやりとりは痛快。
  5. 追号は、北朝第2代の光明天皇に由来。
    • しかし、光明天皇のどの辺りに共通点があったのだろうか?

後西天皇(第111代)[編集 | ソースを編集]

  1. もとの追号は「後西院」。院号を天皇号に置き換えたらこのお名前になった。
    • 機械的な置き換えのおかげで、何となく座りが悪い。
      • 明治時代は「後西院天皇」と呼ばれてたが、大正時代に院の字を無くすことが決められて「後西天皇」になった。
    • ちなみに「西院」とは53代淳和天皇の別名。
      • 淳和天皇と境遇が似ていたことから、淳和天皇の別称「西院帝」から採って、「後西院」と追号された。
        • 「西院」は院号ではなく淳和天皇の離宮の名前なので、「後西院帝」を意味する「後西院院」と追号しないとおかしいのだが、院の字が重複するのでひとつ減らされた。
          • なので、天皇号も「後西院天皇」と称するのが本来望ましいとされる。
  2. 仙台藩主・伊達綱宗は従兄弟(お互いの母親同士が姉妹)。そのため、外様大名と朝廷の結びつきを警戒した幕府に睨まれた説がある。
  3. 当時赤ん坊だった弟・識仁親王(のちの霊元天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位し、8年後に譲位した。
    • 在位中に天変地異や火事がたくさん起こり、天皇の不徳のせいだと周りから責められたので、仕方がなく譲位するはめになった、という風評が当時存在していた。
  4. 地味な印象の天皇だが、父親の後水尾院と同じく子沢山だったりする。
  5. 学問好きであり、兄の後光明天皇とは違って和歌や古典も嗜んだ。
    • だが即位直後は字を書くのがヘタクソで、指導を担当していた白川雅喬から「末代の恥」とボロクソに言われていた。
      • しかし、年月を重ねるごとに上達していき、天皇の書を見た雅喬は感激の涙を流したとか。

霊元天皇(第112代)[編集 | ソースを編集]

  1. 歴代最後の太上法皇
  2. その立ち振舞いは、父親の後水尾院そっくり。
    • 幕府と色々渡り合いました。
    • 東山天皇へ譲位後、その次代の中御門天皇まで太上天皇(上皇)として院政を長く敷き、それゆえ付いた別称が「仙洞様」。
      • 上皇の御所は仙洞御所と言われるため。ちなみに仙洞御所は令和になってから復活した(予定)。
    • 子供もぎょうさんおりますねん。
  3. 朝廷の復興に尽力。
    • 息子の朝仁親王(のちの東山天皇)に立太子の礼を行わせて、「皇太子」の称号を復活。
    • 東山天皇即位の際、長年途絶えていた大嘗祭を自らの意向で復活させた。
  4. 和歌や書道が大の得意だった。
    • 幕府側用人の柳沢吉保の和歌を添削している。
    • その書風は、有栖川流書道の基になった。

東山天皇(第113代)[編集 | ソースを編集]

  1. この方から立太子の儀、大嘗祭などの旧来の朝廷儀礼が復活した。

中御門天皇(第114代)[編集 | ソースを編集]

  1. 元服の儀が復活した。

桜町天皇(第115代)[編集 | ソースを編集]

  1. 聖徳太子の再来ではないか、と噂されるほど共通点があったらしい。

桃園天皇(第116代)[編集 | ソースを編集]

  1. 2代続けて乙女チックな追号であるが、双方れっきとした男子である。

後桜町天皇(第117代)[編集 | ソースを編集]

  1. 最後の女帝
    • これが取り沙汰される中、ひそかに注目を浴びてる。
    • クイズではベタ問の一つでもある。
  2. 先代の桃園天皇は、彼女の異母弟である。

後桃園天皇(第118代)[編集 | ソースを編集]

  1. 桃園天皇の息子。わかりやすい。

光格天皇(第119代)[編集 | ソースを編集]

  1. 約1000年間途絶えていた漢風諡号を復活させた。
  2. 約900年間途絶えていた天皇号を復活させた。
  3. 現在の皇室の直接の祖にあたる。
  4. 実父は天皇になったことのない親王で摂関家より席次が下なので上皇を贈りたかったが時の老中松平定信に反対された。いわゆる尊号一件である。
  5. 幕府に困民救済を要請したり国境のトラブル報告を受けたりと、朝廷の権威を取り戻す切っ掛けを作り、幕末に繋がっていく種を植えた人である

仁孝天皇(第120代)[編集 | ソースを編集]

  1. 皇族や公家の子弟の教育機関の設立を命じた。これが現在の学習院である。

孝明天皇(第121代)[編集 | ソースを編集]

  1. 幕末の動乱の最中急死。一説では殺されたとも。
    • 幕府に肩入れしていたから邪魔になって殺されたという説がある。
    • 加山雄三が歴史番組(特に幕末関連)に出演できないのは…曽祖父が○○○○だから。。
  2. この方の思想を「尊皇攘夷」だと説明する人がいるが、大きな間違い。正しくは「佐幕攘夷」である。
    • 長生きしていたら慶喜の幕政改革が間に合って日本は大統領制になっていたかもしれない。その程度には徳川シンパ。
  3. 孝明天皇の意思に反して幕府を倒して出来上がった明治時代には孝明天皇について語ることはタブーであった。
  4. 色んな出来事があったので、在位中に6回も改元されている。
  5. 崩御後に、いくつも肖像画が制作されてるが、どれもコレジャナイ感が…。
    • とりあえず、ツリ上がった糸目に面長で鼻が高かったのは確かのよう。
  6. 生涯に渡って平安京で暮らした最後の天皇。
    • という事で、1940年に平安神宮の祭神に加わった。

近代以降[編集 | ソースを編集]

明治天皇(第122代)[編集 | ソースを編集]

  1. この人から、近代的(西洋的とも言える)な皇室制度が始まった。
    • 伊藤博文などは、英国的でフランクな皇室をイメージしていたようだが、ロシア皇帝(アレクサンドル2世)の戴冠式に出席して感動した山県有朋が猛反対。いささか時代錯誤な、ロシア・清国式の神聖装飾を推し進める。
      • おかげで「天皇=現人神」というイメージが出来上がり、後継の天皇は色々苦労することに。
      • ちなみに天皇が直接政治に関与できないよう立憲君主として神格化したのも伊藤。「神様なんだから普段は一個人として勝手に動いちゃダメですよ」としたわけ。
  2. 列強に対抗すべく文人から武人に早変わりした人。青年期、西郷隆盛に指導されたという。
    • だから西南戦争中は塞ぎがちだった。
  3. 主な仕事は現代風に言うと、リスクマネージメント。
    • 対外戦争や国会の紛糾など明治国家が重大な危機に直面すると、勅書を出して反対派を黙らせた。強権的なやり方であるが、これで国内がまとまり国難を乗り越えられたのも事実である。
      • 昔は後醍醐天皇のように、自ら親政を執ることも考えていたが、のちに自省して思い止まった。
  4. 一部人間によると出自が謎なんだとさ。まあ、こういうことはChakuwiki内でいろいろなページに書かないよう。
  5. イギリスからガーター勲章をもらうときに、烈火の如く怒った人。
    • 日英『同盟』なのに、その相手を下に見るとか何とかいったんだとか。
  6. 生涯に10万首ほどの和歌を詠む。
    • 贅沢嫌いの明治天皇はちびた鉛筆で裏紙に詠んだ和歌を書き留めていた。
  7. 戦争は嫌いであり日露戦争中戦死者の名簿を見ては涙を流し、字の読み方が分からなければ側近に聞いていたという。
    • 日露戦争開戦ギリギリまで、「なんとか開戦を回避できないのか?」と臣下に問いかけていた。
  8. 誰がなんと言おうがイケメンである。
    • しかも当時の日本人としては長身なうえに、体重も一般人の2倍ほどはあったとか。
      • お召しになった御服は、ご本人を身体測定するわけにいかなかったので、目測で制作されていたのだが、サイズは大体170㎝前後だった。
  9. 過去の皇族や武士の名誉回復と地位向上を積極的に行った。
    • 特に初代南朝の後醍醐天皇に対しては、鎌倉幕府を倒して親政を開いた逸話を、明治維新で新政府を樹立した自分と重ね合わせて、相当思い入れがあった。
      • 既に奈良の吉野には、後醍醐天皇を祀る吉水神社が存在していたのに、わざわざ吉野神宮を作らせた。
        • 他にも鎌倉宮など、南朝側の皇族を祀る神社をいくつも作っている。
    • 色々あって天皇と認められていなかった大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号を追諡した。
    • 織田信長のことを「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指した信長のおかげ」と評価して、京都に建勲神社を作った。
  10. 今のところ、神として祀られている最後の天皇。
    • ご本人は、明治神宮を作られたことに困惑していそうなイメージ。
    • 日本の植民地内の神社では、天照大御神と一緒に祀られることが多かった。
  11. 写真を撮られるのが大嫌いだった。
    • 公式に撮影されたのは、明治5年の断髪前のお姿と明治6年の断髪後のお姿の2枚だけ。
      • 臣下に「欧米各国と交渉するには君主の肖像写真が必要」と迫られて渋々撮ったが、それゆえか表情が仏頂面。
        • 以後、肖像写真を公式に撮らせることは一切なかった。
        • この2枚の写真のお姿は、劇的ビフォーアフター並に変貌しているので、色々とネタにされているが、ここでは触れないことにする。
    • こっそり盗撮された写真がいくつか存在する。
      • 2017年には、44歳の時に水戸徳川邸を訪れた写真が見つかる。
    • イタリアのお雇い外国人だったエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画が有名。
      • 明治天皇のお姿を盗み見して制作されたもので、宮内大臣から初めてこの絵を見せられた明治天皇は黙り込んでしまったとか。
        • しかし、その後は使用許可が出され、この絵を写真撮影したものを御真影として使われた。
      • 座っているポージングは、キヨッソーネが明治天皇の御正装を宮内省から借りて、自ら着用した写真を参考にしている。
      • 今は明治神宮ミュージアムに展示されている。
        • 昔、お参りした時に間近で拝観したことがあるけど、「うわ~教科書に載ってたのとそのまんまだ!これ本当に絵だったんだ~すげぇ!」と感動した。
  12. 大の刀剣ファン。
    • 明治維新後、各方面から刀剣が多数献上されたので、数多くの名刀が失われずに済んだ。
      • そうして集まった名刀達を自らが試し斬りして、傷を付けていたりもする…。
    • お気に入りは水龍剣(奈良時代制作)で、正倉院の宝物修理時に、これを鑑賞した明治天皇はそのまま自分のものにしてしまった。
  13. 日露戦争で日本がロシアに勝った時に、イスラム圏の一部の人達から、自分達を列強の支配から解放してくれると一方的に希望を持たれていた。

大正天皇(第123代)[編集 | ソースを編集]

  1. 皇太子のときは元気があって、日本全国飛び回っていたのに、いざ即位したら病弱に・・・。
    • 昭和天皇がのちに回想して曰く、「天皇になったのが間違いだった、その重圧に耐えきれなかったのであろう」と言う趣旨の発言をしている。
      • フランクでリベラルな人だったゆえに軍部から嫌われアホ扱いされた気の毒な人
        • 現代からすれば、お生まれになった時代が悪かったとしか言いようがない。
  2. 原宿に宮廷ホームが造られる要因となった天皇。普通は東京駅から堂々と乗るものだった。
    • お召し列車嫌いで、一般客と同じ普通列車に乗ったりもしていた。
  3. 実は側室を置かなかったはじめての天皇
  4. 鯛背負ってた天皇。だから…(以下ry)
  5. 明治天皇の5人の息子の中で唯一成人した。
    • 明治天皇の子供のほとんどは、死産か早死にしているが、これは母親に起因する脳膜炎(鉛・水銀中毒)を患っていたから。
      • 大正天皇も同じ病を患っていて、生涯に渡って後遺症に苦しんだ。
  6. 実は詩人としても有名
  7. 崩御した場所は宮中ではなく葉山御用邸である。
  8. 漢詩御製が多数ある。
    • 歴代天皇の中では、ずば抜けた質と量の漢詩を遺している。

関連項目[編集 | ソースを編集]