女子伝/戦国

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戦国の女子[編集 | ソースを編集]

大祝鶴姫[編集 | ソースを編集]

  1. 伊予の河野氏の支族で、大三島神官家である大祝家の姫君。
  2. リアル美少女戦士。
    • 戦死した兄に代わって水軍を率い、大内氏の侵攻軍を何度も撃退する。なんと16歳。
    • そのうち婚約者まで戦死したので、世をはかなんで自殺したという。まだ18歳。
    • 大名なみの政治力を見せた女性や、武芸に優れた女性は何人も居るが、本来の意味で「女武将」と言えるのは彼女くらいかもしれない。
      • しかも正真正銘ハイティーンの「美少女武将」であり、恋人の後を追って自殺するようなけなげなおにゃのこでもあり、もっとこいつらの餌食になっても良さそうな気がするのだが。
        • ここではなってるぞ。
      • 妹属性、さらに神官家の姫君なのだから巫女属性もある。究極的萌えキャラだと思う。
  3. 大山祇神社には、鎧をまとった鶴姫の銅像がある。
    • というか、大山祇神社には鶴姫着用とされる胴丸がある。
      • 女性用にしてはサイズが少し大きい、胸部が開いているのは体と鎧の間にある程度の隙間があった方が余裕ができて防御力が増すため、腰が細めなのは腰部を紐で縛って鎧の重量を分散させるため、など女性用とするにはやや苦しい点もある。
        • 長身巨乳美少女だった、または先祖伝来の鎧を少し改造して無理して着てたと解釈すれば問題ない。
          • 上記の属性+ロリ巨乳だと…!? やれば出来るじゃないか、3次元!
  4. 鶴姫の存在を裏付ける良質な一次史料は乏しく、その生涯は18世紀後半に大山祇神社宮司の三島家が編纂した家記(という名の物語)に初めて現れる。いわば「作られた人物」。
    • 更に言うと、昭和41年に三島家の子孫が彼女を主人公にした小説を出すまで、地元の大三島島民すら鶴姫を知らなかった。その後は町おこしのアイドルとして引っ張りだこに。
      • 「鶴姫の鎧」とされる胴丸も小説の作者が同時期に言い始めた。鎧の研究家は、室町末期の鎧の胴は腰細の形が一般的と言い、女性用の作りという説を否定する。

寿桂尼[編集 | ソースを編集]

  1. 今川氏親の奥さん。氏輝・義元のママ。
  2. 氏親の死後、若年の氏輝を助けて今川家を支える。
  3. 氏輝と、そのすぐ下の弟・彦五郎がほぼ同時に謎の死をとげると、末っ子の義元を擁立して「花倉の乱」をしのぎきる。
    • 玄広恵探の側(福島氏側)へ走る者が最小限にとどまったのは「尼御台様には逆らえん」と思った家臣が多かったためらしい。
  4. 本人の出身は中御門家。公家のお姫様のわりには肝っ玉が据わっていて権謀術数にすぐれ、「女戦国大名」とも呼ばれた。
    • 人を見る目も確か。義元に軍師の太原雪斎をつけたのも寿桂尼のはからいだったらしい。

お市[編集 | ソースを編集]

  1. 織田信長の妹で、浅井長政に嫁ぐ。
    • 絶世の美女で「四方(よも)様」と呼ばれた、と言われる。が、美しいには美しいがやたら背が高くてなかなか貰い手がなかった、という説もある。
      • 妹のお犬に嫁入りで先を越されたのは事実。
    • 長政の容貌はイケメン説とブサメン説があるので、「美男美女カップル」であったか「美女と野獣」カップルであったかわからない。
    • スパイとして、長政を騙していた可能性も高い。
  2. 朝倉攻めに行った信長の背後を長政が衝こうとした時、小豆袋を送って信長に警告した……というエピソードが有名だが、真偽のほどは不明。
    • 小豆袋の上下を縫って、挟み撃ちにされることを暗示したというのだが、いかにも講談的であまり信憑性が無い。
  3. 長政の死後はしばらく信長の元に戻っていたが、信長の死後、柴田勝家と再婚。
    • 勝家を味方につけようとした織田信孝の政略だったらしい。
      • 秀吉もお市に惚れていたので、地団駄踏んだと言われる。
    • 勝家が秀吉に敗死した際には夫に殉ずる。
  4. 豊臣秀頼、徳川家光のお祖母ちゃん。
    • 明正天皇は曾孫である。

北政所[編集 | ソースを編集]

  1. 豊臣秀吉の奥さん。
  2. 名前は「ねね」だか「おね」だか。
    • 「お」は「おまつ」「おきぬ」とか言う時の「お」と同じで接頭辞なので、「おね」だとすると名前が「ね」だけになってしまう。それはさすがにないような気がする。
      • 手紙の署名に「寧」とだけ書かれているのが根拠らしい(「ねね」という名前の他の人は「寧ゝ」という書き方をしていることが多いそうな)。しかし信長の娘も「五」とだけ署名した手紙を書いているし(それで「五徳」という珍妙な名前で呼ばれることも)、イニシャルみたいなものであった可能性が高い。
    • 長らく「ねね」とされ、一時期「おね」が流行り、最近また「ねね」が復権している模様。
    • 「おねい」説もある。
  3. 足軽の頃の秀吉がさんざんアタックして結婚。
    • 当時は奥さんの家のほうがちょっと上で、まあ平社員が係長の娘をめとった感じ。結婚してすぐ秀吉はちょっとだけ出世して主任クラスになった。
      • まあまあ、アゲマンと言ってよろしいかと。
        • 主任クラスからさして時間かからず課長級の足軽大将→その後部長級の大将→取締役級の総大将に出世したからアゲマンだね。
    • 前田利家の奥さんのおまつさんとは仲良しだったとか。
      • 山内一豊の奥さん、お千代さんとも仲良し。お千代さんは晩年を高台寺近隣で過ごしたとか。
  4. 自分に子供ができなかったせいもあり、秀吉配下の若者たちを大変かわいがった。
    • 加藤清正や福島正則などの尾張系の若者をひいきして、石田三成などの近江系とは疎遠だったと思われているが、そんなことはない。近江系の連中が淀殿のほうに集まったというのも事実ではないようだ。
      • 配下に当たる若者たちがバカをやれば叱るなどシメるところはシメたので尊敬されてた。
  5. 秀吉の死後、豊臣家を護ろうとしたか、亡びるに任せようとしたか、解釈が分かれる。
    • 淀殿とその子に乗っ取られた豊臣家には未練がなかったという考え方。
    • 徳川体制下の一大名として残れるように尽力したが、淀殿がすべての助力をはねのけたのだという考え方。
    • 最近では、今まで考えられていたほど大きな器の女性ではなかったのではないかという説も出ている。
      • 最後まで庶民のオカミサン感覚で、政治力を働かせようという意思そのものが無かったのかもしれないというわけ。
  6. 「北政所」の呼称は本来、関白の正妻という意味でしかなかったが、いつの間にか彼女個人のことを指すようになった。
    • 旦那の前の時代にも関白の正妻はいたにはいた。けど、家柄は良いが存在が「アンタいたの?」くらいにマイナーだった、あるいは公的に北政所を称さなかった(諸文書内でのみ北政所を称した)。
  7. 旦那の秀吉は嫁・姑問題で頭を痛めたんだろうと思いきや…秀吉実母・なか(大政所)とは実の母娘並みに仲がよかったとか。
    • 旦那を心置きなく仕事させるためには姑と仲良くなければならない。という考えがあったのかも。でなければ旦那は遠征に次ぐ遠征でも武功立てられたわけで、まさに良妻賢母だ。
  8. ルイス・フロイスに「キリスト教徒じゃないけどすごい人格者」と書かせた人。基本的にはめっちゃいい人だったと思われる。
    • 三河狸とは良好な関係で、諸大名も「難事は北政所様にお頼みいたせば通る」と信頼置いた。意外にも豪快な性格でもあったようで、関白就任後に諸大名の居る真ん前で旦那と尾張弁丸出しの夫婦喧嘩したり、聚楽第初訪問の大名のもとに酒肴をたくさん届けさせたりしたそうな。

芳春院[編集 | ソースを編集]

  1. 前田利家の奥さん。名前はおまつ。
    • 利家に嫁いだのは数え12歳のとき。最初の子供を生んだのはその翌年……。
      • そして最終的には11人産んでいる。
  2. 北政所と仲良しだった。
    • 安土城下で屋敷がお隣同士。いわば社宅のお隣さん。奥さん同士、お互いの家を訪問してはおしゃべりしていたらしい。
    • 秀吉の母、大政所とも仲良し。
  3. けっこう気の強い女性で、「鑓の又三」と呼ばれた利家も尻に敷かれていたっぽい。
    • 佐々成政の軍勢に攻められて利家がびびっていると、
      「だから常日頃、ええ家臣を集めときゃーせてゆーとったがね。それをゼニ惜しんでケチケチしとるから肝心の時に困りゃーが。いっそここのゼニ袋に槍持たせりゃええて」と痛烈な説教。利家はべそをかきながら奮闘してなんとか成政を撃退したそうな。
  4. 利家の死後、息子の利長が家康暗殺計画の嫌疑をかけられた際に、進んで人質になるべく江戸へ行ってしまった。
    • 大名が家族を江戸に置く先例となった。ある意味、徳川家にとって恩人とも言える。
    • もっとも、前田家が早々に腰砕けになったのを見てがっかりした連中も多かったらしい。「あの婆さん、余計なことを……」と思われたかも。

山内千代[編集 | ソースを編集]

  1. 友人のアイデアと内助の功で出世したという事実でお馴染みの山内一豊の妻。
  2. 考えてみれば、平成のドケチな奥様方もドン引きするレベルの超ドケチ。
    • ドケチ過ぎて、自分の家の旗印も余り物の布切れで縫って作るレベル。嘸かし恥ずかしかったろうが、これで旦那も家臣も文句を言わないのは、相当なかかあ天下だったからなんだろう。
      山内家旗印
    • そんなドケチ妻に馬代を所望した一豊。どういう心境だったのだろうか……
  3. 大東亜戦争前は内助の功の鑑として、教育現場で持て囃されていたが、戦後は山内千代を称えることはタブー同然とされていた。
    • 戦後まともに高く評価して、色々書いてたのは、ぶっちゃけ司馬遼太郎くらい。功名が辻なんか、完全に千代の掌の中で一豊が転がされている感さえする。
  4. 子供は女児一人をもうけただけ。しかも、その娘君は長浜城内で大地震の時に死亡。
    • 一部歴史系トンデモ本では一豊が、千代の肝っ玉ぶりにビビって床入りしても萎えたから出来なかったという珍説まである。
  5. 湘南和尚は千代にとっては義理の息子。だけど旦那にとってはどうだったかが、割と不明。
  6. 出自が不明。ある説では近江の地侍の娘、ある説では郡上八幡の小大名の娘など、諸説入り乱れている。
    • その割に母親の名前は法秀尼とされ、きちんといつ死んだかまでわかっていたりする。普通逆じゃね?

明智たま(細川ガラシヤ)[編集 | ソースを編集]

  1. 明智光秀の三女。細川忠興の奥さんになる。
  2. 評判の美人で、忠興もぞっこんだった。
    • 奥さんの姿を見たってんで逆上し、出入りの植木屋を叩き斬ったことも。
      • この話、忠興のヤンデレっぷりが強調されがちだが、たまがキリシタンであることを知られたのではないかと怖れたからではないかという説もある。植木屋が隠密だと思ったんですな。
    • 義父・明智光秀が謀反を起こしたときも、離縁せず幽閉にとどめていた。
      • 幽閉されていたのは雪深い山里だったが、忠興はものともせず通い、子供まで作った。
  3. キリスト教の信仰を貫き通した。
    • 本能寺の変ののち、謀反人の娘として幽閉される。この時期からキリシタンになったらしい。
    • 世の無常をはかなんでのことと思われているが、幽閉中に忠興が側室を持ったことにショックを受けたからかもしれない。
      • そもそも、この頃の常識として、離縁すれば済んだ話で、幽閉する必要は無かった。幽閉してでも別れたくなかったくらい忠興が執心していたということらしいが、そのくせ側室を持ったりしているいい加減さに腹が立ったことだろう。
      • 父の光秀は、戦国時代の武将には珍しく側室を置かず、最後まで正妻ひとりだけだった人なので、余計潔癖性だったかも。
    • ちなみにガラシヤという洗礼名はラテン語のGratia(グラツィア、恩寵)のこと。英語名にするとグレイス。日本名に訳すとめぐみさん。
      • なので、「ガラシャ」と拗音で呼ぶのは誤り。
    • 忠興がどんなに説得しても信仰を捨てなかった。そりゃあんたが原因なんだからそうだろうて。
      • しかしそのため、忠興のヤンデレっぷりにさらに磨きがかかってしまう。
  4. 関ヶ原の戦いの前、壮絶な最期を遂げる。
    • 大坂方に人質として取られないよう、死を選ぶ。
    • しかしキリシタンの教えで自殺はできないので、家臣に刺殺させた。
      • しかも主君の奥方と同じ部屋に居てはいけないと、家臣は隣の部屋から刺殺。でも、それは家臣としての立場なのか、忠興の嫉妬を恐れてなのかと勘ぐってしまう。
    • もっとも、東軍武将の妻の中で、こんな過激な行動をとった人は他に居ないところを見ると、本当に死が必要であったのかどうかは微妙。
      • 忠興が家臣に「万一の時は奥を殺せ」と命じていたという噂もある。
      • たまのほうも、いい加減ヤンデレな夫についてゆくのが疲れたのかもしれない。
      • ガラシヤが壮絶な死に方をした故に西軍はそれ以上 人質を集めるのをやめたわけで、他の東軍武将の妻はそういうことをする必要がなくなった。
  5. 玉子ともいう。
    • のび太のかあちゃんと名前がいっしょ

淀殿[編集 | ソースを編集]

  1. 豊臣秀吉の愛妾。名前は茶々。
    • しかし夫は淀殿の父親(浅井長政、柴田勝家)を立て続けに自害に追い込んでいる。更に母親のお市をも自害に追い込んでいる。本当に良かったのか?
  2. お市の長女。お市に似ていたので、お市に憧れていた秀吉が自分の物にしたと言われるが、さほどの美女でもなかったという説もある。
    • 身長170センチという記録がある。当時の女としては超のつく長身。それで美人だとしたら、現代のスーパーモデルみたいなものか?
  3. 秀吉の子を二人(鶴松と拾)も産む。鶴松は夭折したが、拾は成長して秀頼となる。
    • 父親は別に居たのだという噂も根強い。石田三成とか、大野治長とか、いろんな名前がささやかれる。
    • 秀吉が他の妻妾に子供を産ませられなかった、つまり秀吉が種無しだったからというわけだが、初期の側室である南殿には子ができているので、あまり信用できない。
      • 南殿も秀吉の側室になった時すでに妊娠していたor子連れであった説があるが、種なし説から逆に敷衍された話のようでもある。
  4. 過保護ママで、秀頼をすっかりダメにしてしまったらしい。
    • 大坂の陣の時も、諸将が秀頼の出陣を熱望したのに、淀殿の反対で実現しなかったとか。
    • 一方、大坂の陣の時期には、秀頼はそれなりの見識を持つ武将となっていたのに、母親と意見が合わず、城内が「淀殿派」と「秀頼派」に分かれてしまっていたという説もある。
    • 千姫を逃がさないように着物の裾を踏んづけていた、という話は濡れ衣のようだ。
  5. かつては『淀君』と呼ばれていた。『君』とは遊女とかにつける名前なので、相当に蔑視されていたようだ。
    • でも徳川家の人も君付で呼ばれたりしているので、それだけで蔑視かというと分からない。そもそも「君」自体はいい意味で、遊女の方もそれにあやかって付けるのだから、揶揄して呼べは蔑称だし、素直に呼べば敬称だろう。
  6. ドラマではヒステリックに描かれることが多いが、実際は結構インドア気質らしい。

お江[編集 | ソースを編集]

  1. お市の三女で淀殿の妹、徳川秀忠の奥さん。
    • 名前は「お江与」「小督」などの説もある。ただし「小督」は「お江」をちょっとカッコ良く表記しただけと見られる。
    • 秀忠と結婚するまでに、佐治一成、豊臣秀勝(3代目……秀次の弟)と結婚している。一成とは離婚、秀勝とは死別。
  2. 嫉妬深くて激しい性格とされることが多いが、永井路子氏は穏やかで順応性の高いタイプだったと推理している。ただしやや冷淡なところはあったようだ。
    • やきもち焼き説の根拠は、秀忠がお江の生前側室を置かなかったとか、一度だけ浮気したがその時できた子(保科正之)と対面しなかったとかによる。
      • 単に秀忠が淡泊だった(あるいは、お江だけを本心から愛していた)だけかもしれず、ここからやきもち説を導くのは強引な気がする。
    • 手元で育てた次男の国松(忠長)を偏愛し、春日局のもとで育った長男竹千代(家光)を疎んじたという話もあるが、これも大した根拠は無い。
      • 国松がお江の手元で育てられたこと自体が事実ではないらしい。国松には土井利勝の妹が乳母としてついており、春日局と同じような立場だった。
  3. 最近の国営放送では、幼女の頃に黒衣装の組織によって南蛮渡来の毒薬を飲まされ、精神は子供のまま体だけ大人になってしまったと言う設定が追加された。
    • この薬はお市や姉たちも少量だが飲んでしまい、実年齢よりも10歳~15歳年長に見えている事が視聴者によって確認されている。

春日局[編集 | ソースを編集]

  1. 明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘で、本名はお福。
    • 母方の祖父は稲葉一鉄だったりする。戦国キャラとしては渋いところで固めた感じ。
  2. 三代将軍家光の乳母で、大河ドラマの主人公にもなった。
    • 文字通り舐めるように可愛がったらしい。家光が疱瘡にかかると、薬断ちをして快癒を祈り、その誓い通りに生涯薬を服まなかったという。
      • 家光がホモに走り、なかなか女を愛せなかったのは、春日局が過保護すぎたからという噂も。血はつながっていなくても、一種のマザコンですな。
      • 家光が春日局に「私からよく言っておくから薬を飲んでくれ」と頼むが、春日局は飲んだふりをして布団に垂らしたとも言われる。
    • 春日局自身も疱瘡の後遺症であばた面だったが、ドラマではもちろんすべすべお肌になっていた。
  3. 家康の愛人説もあるが、本当かどうか。
  4. 春日という地名にある、郵便局のことではない。
    • 徳川家の使者として朝廷に赴いた際、無位無官では天皇に拝謁できないので、特別に局(つぼね)号を賜った。だかられっきとした正式の名乗りである。
  5. 家光を疎んじて忠長ばかり愛した秀忠夫妻と仲が悪かったというのはどうも俗説らしい。
    • 春日局のほうが一方的に対抗意識を燃やしていたということはあり得るが。

千姫[編集 | ソースを編集]

  1. 豊臣秀頼の奥さん。徳川秀忠&お江の娘。
    • さらに言えば、徳川家康と浅井長政はお祖父ちゃん、お市の方はお祖母ちゃん、織田信長は大伯父さん、柴田勝家は義理のお祖父ちゃん、豊臣秀吉は義父にして義理の伯父さん、淀殿は伯母さん。そして亭主の秀頼は母方の従兄になる。実にもって絢爛たる系譜である。
      • ついでに言うと、3代将軍家光は同母弟。
  2. 秀頼とは不仲だったという説と、ラブラブだったという説がある。
    • 不仲説は子供が生まれていないため。しかし、立花宗茂と誾千代なんかでもそうだが、子供が生まれていない夫婦をすぐ不仲と切り捨てる歴史学者の態度ってどうなんだろう。
    • 大坂城落城前に、亭主と運命を共にせず脱出していることも、不仲説の根拠とされる。
      • しかし、嫁が敵の一族の娘であった場合、落城前に相手に返すのは戦国時代の普通の作法である。祖母のお市も、小谷城落城に際して浅井家から織田家に返されている。夫婦仲とは全く無関係な話。
      • もちろん、淀殿が千姫の返還に反対して着物の裾を踏んづけていたなどというのも、あり得ない話である。
      • そして、秀頼と淀殿の命乞いのために徳川方に派遣されたというわけでもない。要するに、あくまで通常の作法に則っただけと思われる。
      • 従って、坂崎直盛が炎上する大坂城から千姫を救出したというのも作り話。
        • ただし直盛が、千姫の再婚先を捜すよう家康から頼まれたのは本当らしい。ところが熊姫(家康の孫娘)の横槍で、彼女と本多忠政(忠勝の息子)の間の息子である忠刻と結婚することになってしまい、メンツを潰された直盛は荒れまくって狂態をさらし、お家断絶となる。
  3. 二度目の亭主の本多忠刻は、徳川四天王・本多忠勝の孫にしてはえらく病弱で、すぐ死んでしまう。
    • その後、吉田御殿なるところに住んで若い男をあさり、情事が済むと殺してしまった……という淫乱伝説が語られるようになるが、フィクションである。
      • ♪吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が♪ という歌が千姫のことだという説があるが、これは「吉田御殿」ではなく吉田宿(今の豊橋)の遊女のこと。

片倉喜多[編集 | ソースを編集]

  1. 出自は伊達家臣・鬼庭良直の娘だが…いろいろあって片倉景綱の異母姉になる。
  2. 文武両道に通じて兵書も好む。「小十郎殿の姉上」というより「小十郎殿の姐御」と呼びたくなる女性。
    • こう書くと豪放磊落な「ゴッド姉ちゃん」のようだが弟と20も年が違うので姉弟というより半分親子みたいなもの。
  3. 片倉氏旗指物(黒釣鐘)をデザインした。現在の白石市市章である。
  4. 没後は「喜多ほどの者の血筋絶やすにはあまりにも惜しい!」と仙台藩2代目・伊達忠宗が片倉家分家として田村家から養子出させて片倉姓を継がせた。