宗教家伝
第一次世界大戦以前の人物といたします。
アブラハムの宗教[編集 | ソースを編集]
イエス[編集 | ソースを編集]
- キリスト教の教祖。
- ただし、イエスが「キリスト教」という宗教を始めたわけではない。イエスの死後、弟子たちが「あれ?イエス様ってキリスト(救世主)だったんじゃね?」と考えて始めたのがキリスト教。
- 救世主って飯屋じゃなかったっけ?
- ヘブライ語でメシヤね。キリストはギリシャ語→ラテン語。
- なおクリスマスを「Xmas」と書くのは、キリストのギリシャ語綴りの頭文字がXになるため。エックスではなくカイである。また、「X'mas」と書くのは誤り。
- ヘブライ語でメシヤね。キリストはギリシャ語→ラテン語。
- 救世主って飯屋じゃなかったっけ?
- しかも「キリスト教」の骨格を作ったのは、生前のイエスに会ったこともないパウロ。この男がユダヤ人ではなくローマ人であったことで、母体のユダヤ教とはガラッと変わった宗教になってしまった。
- ただし、イエスが「キリスト教」という宗教を始めたわけではない。イエスの死後、弟子たちが「あれ?イエス様ってキリスト(救世主)だったんじゃね?」と考えて始めたのがキリスト教。
- お母さんはマリア。お父さんは神様らしい。
- 義理の(?)お父さんの大工ヨセフは、たいていどの絵を見ても陰気な顔をしている。嫁が知らない間に神様の子をはらんでたんだから、そりゃそうだ。
- 実際に聖書の記述でも、神様から真相を教えてもらうまではこっそり離縁しようと本気で考えていた。
- マリアが処女懐胎というのは、誤訳から生まれた大誤解という噂も。
- ヘブライ語で単に「未婚の女」を意味していた言葉を、ラテン語に訳す時に「処女」としてしまったらしい。訂正しようにも、今さらひっこみがつかなくなっている。
- 同腹の兄弟が存在している時点でおかしいだろうというツッコミはかなり古い時代からあった。そもそもラテン語への翻訳間違いが原因で聖書がおかしな内容になった例は他にもある。
- 「罪の果実」が林檎になったのもそれが理由。元々、創世記の舞台と推定される地域は林檎が生育できる環境でない。
- ラテン語では「罪」と「林檎」が、同じスペルで違う読みという非常に紛らわしい関係にある。
- 義理の(?)お父さんの大工ヨセフは、たいていどの絵を見ても陰気な顔をしている。嫁が知らない間に神様の子をはらんでたんだから、そりゃそうだ。
- ユダヤ教の改革者というのが、生前のイエスについてのいちばん妥当な評価かと。
- ユダヤ教側もその意味では認めている。
- またイスラム教では、「ムハンマド以前の最大の預言者」と規定している。
- イスラム教でも公式に「預言者・イーザー」として認められている。そのため、イスラム教徒であっても新約聖書を『イーザーの預言書』という名目で持っている人もいる。
- が、「神の子」とは認めていないために、キリスト教はこの2宗派と共存できないと考えている。
- 公式には一生童貞だったことになっている。でも妻子が居たという噂もある。
- 妻はたぶんマグダラのマリアで、子は新約聖書がなぜか絶対名前を書いていない「13人目の弟子」と見られる。
- 名前が書いてないだけで、「もっとも愛された弟子」とか書かれており、この人物の存在は確実。奇妙なほどに名前を避けているのには、それなりの理由があるのだろう。
- その「最も愛された弟子」の正体はイエスの子でも何でもなく使徒の一人であるヨハネだと聞いたことがある(「最も愛された弟子」もそのヨハネが書いた福音書から来てる)。単に自分の名前書くのが恥ずかしかっただけ?
- イエスに子供が居てはまずいのでそんな解釈になったような気がする。この弟子、あとで登場した時、「この人は最後の晩餐の時にイエスに向かって『主よ、それは誰のことですか』と訊ねた人である」なんてまだるっこしい説明付きだったりする。自分の名前を書くのが恥ずかしいだけでここまで面倒くさいことをするだろうか。
- またイエスが十字架にかけられる時、この弟子に母のマリアを指して「見よ、あなたの母である」次いでマリアに向かってこの弟子を「見よ、あなたの子である」と言っている。自分が死ぬので急遽養子縁組をしたわけだが、実のおばあちゃんと孫だったのであれば不自然ではない。
- さらに復活後、ペテロがこの弟子のことを「この人はどうしましょうか」とイエスに訊ねている。イエスの実子だったからこそ、教団としては扱いに困ったのではないだろうか。
- その「最も愛された弟子」の正体はイエスの子でも何でもなく使徒の一人であるヨハネだと聞いたことがある(「最も愛された弟子」もそのヨハネが書いた福音書から来てる)。単に自分の名前書くのが恥ずかしかっただけ?
- 名前が書いてないだけで、「もっとも愛された弟子」とか書かれており、この人物の存在は確実。奇妙なほどに名前を避けているのには、それなりの理由があるのだろう。
- 日本人からすると、別にイエスに妻子が居たっていいじゃん、と思うが、キリスト教の立場としては、イエスの妻子の存在を認めてしまうと、数多くの修道士や神父に童貞を要求してきた根拠が根本から崩れてしまうので、これも「今さら」認められないらしい。
- 妻はたぶんマグダラのマリアで、子は新約聖書がなぜか絶対名前を書いていない「13人目の弟子」と見られる。
- 誕生日は7月頃。クリスマスではない。
- ついでに言えば誕生年は紀元前5年頃。西暦1年ではない。
- 戦国時代の日本にキリスト教が伝わってきた当初は、デウス様と呼ばれていたらしい。
- デウスは神様のこと。イエスのことはイエズス様と呼んだ。
- ザビエルが最初に考案した日本語での呼称は「ダイニチ」だった。しかし密教の大日如来と混同されてしまったために慌てて変更している。
- 英語ではジーザスと発音する。
- Oh...Jesus...(/ω`)
- アイアムジーザスクライストゥ!!
- 対義語はノー。
- 日本語訳ははい。
- 黙示録にはイエスが「もうすぐ」この世界に帰ってくると書かれてる。因みに黙示録が書かれたのは西暦95年。
- 実は既にお釈迦様と共に現世に舞い戻って立川に住んでるらしい。
- 高○クリニック
- プログレッシブロックのバンドを結成している。
パウロ[編集 | ソースを編集]
- イエスの死後の弟子。キリスト教の骨格を作り上げたのは、実はイエスではなくこの男。
- 新約聖書の半分はパウロが書いた。
- 最初はイエスの弟子たちを迫害していたが、途中で転向。転向者ならではのヒートアップぶりで、本来ユダヤ人だけのための宗教だったものを、当時知られていたありとあらゆる民族に布教しまくる。
- 本人もユダヤ人ではなく、ローマ市民だった。
- ローマ市民権があったため、ユダヤ国内で宗教裁判にかけられることを忌避できた。
- 転向に至るエピソードは「目からうろこ」の語源になっている。
- 本人もユダヤ人ではなく、ローマ市民だった。
- 異民族に布教するために、戒律などを大胆に省略もしくは改変してしまった。ほとんど換骨奪胎と言ってよいほど。
- 当然、イエスの直弟子だったペテロたちにすれば面白くなかったろうが、パウロの異様なエネルギーと布教実績を前に、改変を認めざるを得なかった。
- つーかここで認めたからキリスト教は世界宗教となることができたと言える。誰でも簡単に入信できるようになったので。
- ペテロたち直弟子はいわば植民地住民だったので、本国市民であるパウロに逆らえなかったのかもしれない。
- ペ「あの~パウロさん、これちょっと違うみたいなんすけど~」
パ「いいのいいの。こうしないとガラテアやテサロニケの連中にはよくわかんないんだからさ。ペテロさんは教皇なんだから、細かいこと気にしないで、俺に任せてど~んと構えててくださいよ。それに字ィ書くのとか苦手でしょ?」
ペ「え~、そ、そう?それじゃまあ、任せるけど……(いいのかなあ)」
- ペ「あの~パウロさん、これちょっと違うみたいなんすけど~」
- 当然、イエスの直弟子だったペテロたちにすれば面白くなかったろうが、パウロの異様なエネルギーと布教実績を前に、改変を認めざるを得なかった。
- テント職人として別に仕事を持っており、宗教活動そのものによる報酬は受けていなかった。
- そのため布教活動の初期には「どうせお前プロじゃねーし」と逆に軽蔑されていたようだ。
- かなり理屈っぽい性格で、布教活動に出かける相方とのケンカ別れも度々経験している。
- 新約聖書中にある「頭にかぶり物をして祈る」ことに関する記述は、自身の頭髪の薄さをもとにした自虐ネタのジョークとする説がある。
ペテロ[編集 | ソースを編集]
- イエスの一番弟子。後の初代ローマ教皇。
- 一番目の弟子入りにあたる人だが惣領弟子とは異なる(十二弟子に「序列」は無い)。しかし、「俺たちの中で最も偉いのは誰か」という内輪での議論を煽ることも多かった。
- もともとは漁師として生計を立てていた。
- 不漁で困っていたところにイエスが現れて「あなたは魚でなく人間を集めるべき者」と言われ、弟と共に弟子入りする。
- 出生名はシモン。ペテロとは弟子入りの際にイエスから与えられた名である。
- 直訳では岩のこと。日本人ふうの名にするなら「岩男」または「巌」。
- 性格を簡潔に言い表すなら、お調子者・天然・ドジっ子。以下の話は全て新約聖書に載っている内容である。
- 水上歩行するイエスの後を追おうとし、一瞬成功するが、高波に気を取られた途端にドボン。
- 直後に「君の信仰心はどっちを向いているんだ」とイエスに怒られている。
- お互いの足を洗うことで互助的な愛を教えようとしているシーンにおいて、「頭もお願いします」
- 「私が祈っている間は寝ないように」とイエスに言われたそばから堂々と居眠り。
- イエスがローマ兵に捕らえられるシーンでは、イの一番に剣を振り回して応戦するも、結局はイの一番に逃走。
- 逃走中も、「お前、イエスの関係者だな?」→「そんな人、知りませぇぇん!」と3回ウソをついて逃げ回る。
- そこまでして逃げ回ることはイエスも織り込み済みで、夜明けの鶏の声をきっかけにペテロ本人もそれを悟り、自分の醜態を思い知って大泣きした。
- 水上歩行するイエスの後を追おうとし、一瞬成功するが、高波に気を取られた途端にドボン。
レオ1世[編集 | ソースを編集]
- 長い教会史において二人しかいない「大教皇」と呼ばれる人物。
- レオ1世の代で教皇(ローマ司教)が教会組織のトップだと明確になった。
- 一応、コンスタンティノープル総主教も同格。
- ローマ皇帝の称号の一つポンティフェクス・マクシムスを名乗った最初の教皇。
- 教皇の権威が皇帝並みに高まったのはこのとき。
- というか西ローマ帝国が完全に末期。
- 教皇の権威が皇帝並みに高まったのはこのとき。
- 三位一体という何とも難しい教義が正統とされたのもこの人の役割が大きい。
- そもそも議論の根っこにある神性とか人性とか位格とかからして難しい。
- カトリックだけでなく正教会でも聖人。
- レオ1世の代で教皇(ローマ司教)が教会組織のトップだと明確になった。
- 史上屈指のネゴシエーター。
- フンの王・アッティラをローマから撤退させる。
- ヴァンダル王・ガイセリックのローマ侵攻に対しても交渉している。
- でも、結局、略奪されてる。
- 建物で破壊されたのは水道橋と神殿ぐらいだし、人身売買はあっても殺人はなかったので、交渉で一定の効果はあったという説もある。
- この時期にも異教の神殿があったというのが意外。
- アッティラ撤退もレオ1世の交渉と関係ないという話もあるので、交渉力より宣伝力が高いのかもしれない。
- 東ローマ皇帝のレオ1世もほぼ同時代人でややこしい。
ムハンマド[編集 | ソースを編集]
- イスラム教の教祖。モハメッドとも呼ばれる。
- マホメットとも。
- 宗教家というより、教育者という雰囲気がある。
- 日常のことこまかなことまで懇切丁寧に教えている。当時のアラビアに、そういう日常規範みたいなものがほとんど無かったのだろう。
- 一方、ムハンマドの発言がことこまかすぎて、後世の教徒が身動きとれなくなっているというデメリットもあるようで。
- イエスはすべてを捨てて神に祈ったが、ムハンマドは女房の愚痴を聞きながら神に近づこうとした。どちらがより困難で尊いかは……考えるまでもありませんね。
- 武将としても一流。彼は信徒たちを上手く組織して、後のイスラム帝国の基礎を作り上げた。ハンパねぇ統率力。
- そのため、イスラム教にはユダヤ教やキリスト教のような迫害の歴史はない。
- ユダヤ教におけるエジプトやバビロニア、キリスト教におけるローマなどの強大な勢力と隣接していなかったせいかも。アラビア半島を席巻したムハンマドの力量は確かだが、その時点で、すでに迫害するほどの力を持った敵対勢力は存在しなかった。
- だが他の宗教同様、内ゲバ(内部抗争と分派の発生)をなくすことはできなかった。
- 暗殺専門の分派が発生したり、内ゲバは他の宗教より先鋭化して……ゲフンゲフン。
- そのため、イスラム教にはユダヤ教やキリスト教のような迫害の歴史はない。
- その教えは、漢字圏では『回教』と呼ばれている。なぜ『回』なんだろう?
- 「回族」という中央アジア系の民族が信仰していたため。日本でもイスラムのことを「フイフイ教」と呼ぶ人が居た(「回」の現地語発音が「フェ」で、それがなまって「フイ」)。
- 絵では顔を描いてもらえない。
- と言うか描いたら描いた人の命が危ない。
- 一夫多妻が流行していた当時のアラブで、妻を持つのは4人までにしておけと戒告。
- しかし自分は同時に10人も妻を娶った。
- 嫁の一人は結婚時に9歳。
- その影響で、イスラームでは女子の結婚の最低年齢は9歳とみなされるようになった。
- なお、アラブでは性交しなければ結婚は成立しない。つまり結婚年齢=処女喪失の年齢。
- いくら何でも「9歳の幼女を犯した預言者は間違っていた」と公言するのは憚られるので、後世のアラブのフェミニストは、「実はムハンマドの幼な妻は9歳じゃなかった。(だから9歳の娘と結婚するのは違法)」という苦しい説を唱えている。
- アラブのロリコンの中には、「愛さえあれば年齢は関係ないということを預言者は実証してみせた」と唱える人もいる。
- シーア派では、父親のこともあってアーイシャは嫌われている。
- ロリコンというよりマザコンなのでは・・・
- 9歳で嫁に行ったアーイシャは幸せだったかというと、死んだ15歳年上の前妻(ハディージャ)の昔話を側室の前でするムハンマドの傍で、大変嫉妬深く攻撃的な女性に成長しましたとさ。
- 今でこそ世界中で人気のある人物だが、当時は怪しげなカルトの教祖としかみなされていなかった。
- そしてその先例ともいえるキリストはカルトとかそんなレベルじゃない程の超危険人物だった
- イエスって危険人物かな?ローマ帝国への武装蜂起・テロも辞さないような団体がある中で、かなり穏健なほうだったと思うけど
- 今ではキリスト教の勢力が強いので、日本の一般人にもイエス=穏健な善人のイメージがあるが、新約聖書を読むと、神殿で商売人している人々相手に暴力を振るったり、「家族は敵である。私を家族よりも愛さないものは私の弟子では無い。」と発言したり、豚を集団自殺させたりと、過激な面もある。
- イエスって危険人物かな?ローマ帝国への武装蜂起・テロも辞さないような団体がある中で、かなり穏健なほうだったと思うけど
- そしてその先例ともいえるキリストはカルトとかそんなレベルじゃない程の超危険人物だった
- 大の猫好きだった。
- 弟子にアブー・フライラという人がいた。アラビア語で「子猫大好きオヤジ」という意味である。
- でも犬はちょっと。
- 洞窟にこもって瞑想していたら神の啓示を受けたらしい。
グリゴリー・ラスプーチン[編集 | ソースを編集]
- ロマノフ朝というと歴代皇帝よりこの人物の方が有名だったりする。
- 妖術でアレクセイ皇太子の血友病を治したとされている。
- ラスプーチンがデカ○ンであったことは有名。
- 後年ラスプーチンのムスコとされるものがホルマリン漬けで発見されたが、ナマコを糸で縛ったものだったらしい。
- そのため、周辺の女性には人気があったらしい。
- 青酸カリ入りのケーキを食べても死なず、銃で4発撃っても死なず、タコ殴りにしても死なず、凍った川に投げ込んでやっと溺死したという。
- この人の本名はラスプーチン。イメージが悪いので改名したらしい。
- 改名したのはその人のお爺さんね。ちなみにスターリンの専属のコックだった人です。
- フィクションでは大人気。不思議な力や卓越した才能で時の権力者の信頼を勝ち取り裏で操る、所謂「影の支配者」的な悪役はこの人物をモデルにしてるパターンが多い。
その他[編集 | ソースを編集]
ツァラトゥストラ[編集 | ソースを編集]
- ゾロアスター、ザラストロなどとも呼ばれる。ゾロアスター教の教祖。
- 時代が古すぎて(紀元前11世紀頃)、どんな人だったのかさっぱりわからない。
- ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」という本を書いたが、別にツァラトゥストラの教えを祖述したわけではなく、自分の意見を述べただけだったらしい。
- でもその本を読んでリヒアルト・シュトラウスが作曲した同名の交響詩は、のちに「2001年宇宙の旅」のテーマ曲に使われて大ブレイク。
- 最近「ツァラトゥストラはこう語った」という表現をする人もいるが、どうも迫力に欠ける。
- でもその本を読んでリヒアルト・シュトラウスが作曲した同名の交響詩は、のちに「2001年宇宙の旅」のテーマ曲に使われて大ブレイク。
ゴータマ・シッダルタ[編集 | ソースを編集]
- つまりはお釈迦様。ただし「シャカ」というのは彼の属していた部族の名前。
- 6年間苦行を重ねて悟りを開く。
- そんなに苦しんだのは王族として贅沢していた酬いだろう、その証拠にナザレの大工の子は40日しか苦しまなかったようである……と芥川龍之介が指摘していた(「侏儒の言葉」)。
- マイケル・釈尊ではない。
- ヒョウタンツギによる食中毒で命を落とした。
- 現在キリスト様と一緒に立川に在住。
- ものすごい天然パーマだったと想像される。仏像の頭みたいな感じ。
- 仏像の頭そのものだろ。
- 世界で最も像が作られた人物。
- 2位以下にはスターリンやレーニン、毛沢東など世界各国の権力者が並ぶことになる。
マニ[編集 | ソースを編集]
- マニ教の教祖。
- 現存していないのでわかりづらい宗旨だが、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教などを統合した内容を持っていたらしい。仏教や道教の影響も見られるとか。
- 徹底した善悪二元論(もしくは光と闇の二元論)で、それらは永遠に交わることがないとする。
- この点で、光明神アフラ・マズダが最終的には暗黒神アンリ・マンユに勝利すると考えるゾロアスター教とは峻別されるし、ユダヤ教やキリスト教などの一神論とも異なっている。道教の陰陽二元論からの発想かもしれない。
- この頃は道教自体がまだそこまで出来上がってない。マニの出自を考えたら、まず確実にグノーシス主義からだろう。
- この点で、光明神アフラ・マズダが最終的には暗黒神アンリ・マンユに勝利すると考えるゾロアスター教とは峻別されるし、ユダヤ教やキリスト教などの一神論とも異なっている。道教の陰陽二元論からの発想かもしれない。
- 反面、基本的にマニという卓越した個人が一から十まで頭の中で創り上げた宗教なので、マニ教独自の宗旨や特色がやや乏しい。
- そのためどこの地域でも、カウンターカルチャーにはなれてもメインカルチャーにはなれず、一時的に流行はしても、結局既存の宗教勢力から異端と看做され撲滅させられてしまった。
- マニが作った神話の構造はそのままに、その登場人物をアフラ・マズダやキリストなど他の宗教の神や人物に置き換えて布教した。やられた側からすれば、腹が立って当然。
- マニは生前に自分で宗教書を書き、どれが聖典かまでキッチリ決めてから死んだため、発展する余地が乏しかった。
- 普通、何が聖典かは数十年・数百年の激しい内ゲバの後に決まる事を考えると、いかにマニが用意周到だったかわかる。
- かわりに教義の議論や深化が進まず、他の宗教との争論に弱いという弱点も産んでしまった。
- そのためどこの地域でも、カウンターカルチャーにはなれてもメインカルチャーにはなれず、一時的に流行はしても、結局既存の宗教勢力から異端と看做され撲滅させられてしまった。
- 「最終預言者」を名乗り自分の後に同じ事を言い出す者が出ないよう教義に練りこんだが、結局その称号は後世のムハンマドに取られてしまった。
- ゾロアスター教を国教としていたササン朝に迫害され、最後は虐殺される。
- 生きたまま全身の皮膚をはぎ取られて殺されたそうな。ガクガクブルブル……
- ただ史料によってまちまちで(マニ教にはよくあること)、どれが正しいか決めがたい。
- 牢屋に囚われたマニを高弟が見舞っていることから、そこまで酷い扱いではなかった気もする。死因は獄中の辛い生活に老齢のマニが耐えられなかったからだろう。
- 唐の長安にマニ教の寺院があったことは確実。だが武宗の廃仏令の時に迫害されて地下に潜り、その後どうなったのかわからない。
- 「マニの教え」という名前を捨て、「まことの教え」と称して既成宗教に浸透し、それぞれの中で改革を試みたという説もある。陳舜臣の小説「桃源郷」を参照。
- 北宋末に叛乱を起こした方臘(「水滸伝」後半の敵役)は「喫菜事魔」と呼ばれた。これが実はマニ教だったという説が有力。
- というのは一昔前の説。単に徽宗の重税に対する反乱だったのが、中国の反体制運動は宗教がつきものというパターンからの逆算して、明教(中国のマニ教)と結び付けられてしまった。
- 現在でも福建省にだいぶ変質したとはいえ、マニ教の中国分派・明教を信仰する村があり、ぱっと見仏像にしか見えないマニの像がある。
- 20世紀、マニ教研究が進んだせいでこれを信仰しようとする人も表れた。ただ、マニ教研究はまだまだわからないことが多く、一つの遺物発見や文献の解釈次第で通説が一変しかねない。そんな教えをよく信仰する気になるよなあ。
- 国鉄の荷物車。
- 現金輸送車としてのそれは、その存在を秘匿されていた。マニ車とも。
- 42.5t以上47.5t未満の荷物客車。
- かつて某アイドルグループの1ユニットとして存在していたことがある。マニモニだけに。
- マニが頭の中で一人で組み上げた教えなため、時々意味不明な教義がある。
- マニの個性が強すぎるため、弟子たちは基本影が薄いが、父親のパティークはマジフリーダム。
- 身重の妻(inマニ)を捨てて、女人禁制のユダヤ・キリスト教系の新興宗派エルカサイ教団に入る。仏陀にも苦悩して妻子を捨てる話があるけど、この人の場合その場の思いつきでやってるようにしか見えない。
- 成長したマニが、エルカサイ教団を抜けてマニ教を広めようとすると、その教団を捨ててマニに付いてくる。我が子が可愛かったんだろうが、妻を捨ててまで入った教団をまたあっさり捨てるのはどうなんだ・・・。
- マニ教を各地に布教するが、わずか5年間でメソポタミア、イラン、インド、イランに戻って直ぐまたインド、メソポタミアに戻ってシリアで伝道、他の弟子に任せてメソポタミアに帰ると、落ち着きが無さ過ぎる。
- 教団内での功績はともかく、マニの父ということで「長老」という特殊な地位を与えられて、マニより長生きした。この人生きてて楽しそうだよね・・・。
- 写本と賛美歌を好み、布教に大いに利用した。
- 19世紀頃までのイスラム圏でマニと言えば。宗教家ではなく、画家として有名だったほど。田中芳樹の小説『アルスラーン戦記』で軍師ナルサスが「画聖マニの再来
(笑)」と自称する元ネタは、多分これ。
- 19世紀頃までのイスラム圏でマニと言えば。宗教家ではなく、画家として有名だったほど。田中芳樹の小説『アルスラーン戦記』で軍師ナルサスが「画聖マニの再来