室町時代
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室町時代の噂[編集 | ソースを編集]
- 海驢(あしか)が天下を取った。
- 明に対する貿易黒字でバブル到来。
- 儲けたついでにバブル資金で南朝と北朝を買収・合併。
- モノ(金属)を提供してカネ(明銭)を貰ってたからな… 黒字にならないはずがない
- それでも流通上では明の銭よりもっと古い宋などのものの方が有難がられた。
- 金閣寺と銀閣寺ができる。(銅閣寺は構造計算書の偽造がばれて、建設中止)
- 税金の無駄遣いという世論を受けて、銅閣寺の建設計画は取り消される。
- それ以前に銀閣寺に銀が貼れなかった。
- いや、このネタの場合は建設中止だから貼れないんだろ
- 「銀閣寺建設は内外装の完成を待たずに中断、以後放置」ってとこですかね。
- 銀閣には元々銀を貼る予定はなかった。金閣に対応して、「銀閣」と呼ぶようになったとさ。
- もともとは銀を貼りたかったそうな。だが、何らかの事情で貼れなくなって漆か何かだけ塗っておいたんだそうな。
- 銀閣には元々銀を貼る予定はなかった。金閣に対応して、「銀閣」と呼ぶようになったとさ。
- ×金閣寺、銀閣寺 ○(鹿苑寺)金閣、(慈照寺)銀閣
- 銅閣寺はないのか?
- 正式名称は(鹿苑寺)金閣(慈照寺)銀閣なのに、旅行行った時もらったパンフレットにはしっかりと「金閣寺」と書いてあったのはアレはいいのか?
- 銅閣は平等院鳳凰堂。
- 大雲院祇園閣。大倉喜八郎により昭和2年に建築。
- 西山(嵐山)に建築計画があった。
- 銅閣寺はないのか?
- 金隠しもこの時代には成立していた可能性が高いと思われる。
- ちなみに現存最古のものは一乗谷から出土しているので広義の室町時代には含まれるはず。
- 浦島太郎が竜宮城へ行く。
- 丹後あたりで行方不明になったのに木曽で目覚める。
- 時の政治家が政治そっちのけで茶道にのめりこみ、戦国時代に突入。
- お坊さんが無駄に強い。
- ファンタジーRPGでもプリースト職は何気に強く、定番の人気職業。
- 一休さん活躍。
- お墓は宮内庁の管轄(本当)
- 新衛門さんの顎が割れる。当時としては珍しかった。
- 桔梗屋さんは実在した。
- 弥生さんももちろん実在した。
- さよちゃんも当然のごとく実在した。
- 母上様は若いころ峰不二子と名乗り、世の男性をメロメロにしていた。
- バカボンのママでもあった。
- キューティハニーでもあった。
- 成長したのち、美人三姉妹怪盗団の長女として活躍…
- 現在の由美かおるである。
- ギャグに箔を付けるために、父は天皇だという噂を流した。
- 当時苦しい生活を強いられた農民たちが始めた遊びがセクシーコマンドーの原形。
- ↑が従来の説だが、近年、「せくし~斎」なる人物が創り上げたという記述のある文献が出てきた。
- 京の都に多いもの、それは金貸し屋。
- 寺院が金貸しをしていたから。
- 興福寺とかが有名。
- 興福寺は奈良やん。
- 興福寺とかが有名。
- 酒屋、油屋、米屋など、比較的裕福な商人はみんな金貸しをしてた。
- 御台所も金貸しをして、甲斐性無しの夫のために銀閣寺建設費用をひねり出す。
- 平成時代になっても全国的に金貸しが大量発生し、首をくくる者が後を絶たない。
- 徳政令を求めて暴動が起きるかもね。
- 寺院が金貸しをしていたから。
- 室町が京都のどこにあるかは21世紀では誰も知らない。
- くじ引きで決まった将軍、足利よしのりがごーまんかましすぎて家臣に殺される。
- あれ、あれってよしのりって読むっけ?
- 義満が本気で天皇になろうとした。
- 息子はそんなオヤジが大嫌いだった。
- なぜならオヤジの血を引いてたれ目だったから。
- たぶん室町時代が衰退した原因。
- 将軍なのに、寺の小坊主には頭が上がらなかった。
- 一休さんの時代の将軍様は確か義政だろう。
- 一休さんはかなり長命だったので。生年の応永元年は義満時代、没年の文明13年は義尚時代ですな。
- 嫌、義教のあたりだろう。
- 一休さんの時代の将軍様は確か義政だろう。
- 息子はそんなオヤジが大嫌いだった。
- 将軍になる条件は「たれ目」。
- そして「色白」。そして「小太り」。
- ところで山名と細川以外で有名な大名知ってるか?
- 富樫を忘れないで。百姓如きに倒された情けない守護大名だ!
- え、あの載るほうが稀な漫画家?
- いつの間にか消え去った弟の方じゃなくて?
- 弟健在だよ!
- いつの間にか消え去った弟の方じゃなくて?
- え、あの載るほうが稀な漫画家?
- 京の山は赤松一色だ!
- 斯波っていたような。
- 一色を忘れてもらっては困る。
- 大内と大友はこの時代から有力大名だ。
- 甲斐の武田氏や遠江駿河の今川氏も有力な守護大名だった。
- 関東管領の上杉氏もかつては有力だった。末期の落ち目っぷりは涙を誘うが。
- 薩摩の島津もいてはりましたよ。
- 滋賀には京極と六角もおりましたがな。
- 佐々木同士の醜い争いですね。
- 河内には畠山もいるでよ。
- えーと・・・誰だっけ?たしか美濃にものすごく影の薄くて、気がついたら滅んでいた守護だいみょうだったが・・・・確か土から始まったていたな。土田だっけ?いやそもそもあそこに守護大名っていたっけ?
- 土岐なら立派な守護大名。
- そうそう。船田合戦まではね。お公家さんから将軍候補まで沢山頼ってきてたんだから。
- ちなみにかの有名な明智光秀は土岐の支流だったりする。後の天下人だ!(ただし三日間)
- そうそう。船田合戦まではね。お公家さんから将軍候補まで沢山頼ってきてたんだから。
- 土岐頼遠は数々の戦いで勇戦し、恐れ多くも治天の君の車に「院と犬って似てね?マジウケルwww」と等と意味不明の供述をしつつ弓を打ち込んだバサラの猛将。
- でも酔っ払った勢いでやってしまったがシラフに戻って怖くなって逃げたという田舎のヤンキー並のヘタレ。
- 土岐なら立派な守護大名。
- 富樫を忘れないで。百姓如きに倒された情けない守護大名だ!
- 茶道が大成されたのはこの時代の末期。決して韓国から伝わったのではない。
- サドにも目覚めた。
- シシ神殺害。
- 蕎麦屋多数創業。
- 大陸への親書に「これからは臣道義と呼んでネ」と書いた問題で、足利義満首相は「決して媚中外交ではない」と釈明。
- 京都三大祭の一つ時代祭では近年までなかったことにされていた。
- 少年期の雪舟が足でネズミの絵を描いたにもかかわらず足を使う絵画は発達しなかった。
- 將軍の空位期間が結構存在するが、そんなの誰も気にしていない。
- 味噌や醤油のような日本食の重要な調味料が次々と誕生した。
- 米は新米より古米の方が水を吸って嵩が増えやすかったため高値で売られた。
- 海では倭寇が大暴れ。
- それでもカリブの海賊とは異なり後世のエンタメ作品ではほぼ取り上げられず。
- 中国製の原始的な鉄砲が倭寇により持ち込まれたという説もある。
- 現在のソマリアがこの時代の日本とかなり似ているらしい。
- 支配者と民衆でそれぞれ別の秩序があって決まりが矛盾することもあるのになぜか社会がそれなりにうまく回っている。
- 大乱により首都が武装集団(足軽/民兵)に荒らされた。
- ただし研究者としてはあまりカオスに描きすぎると論文のまとまりも失われるので秩序を強調しがちだという。
室町幕府の将軍[編集 | ソースを編集]
- 初代の尊氏以外、すべて名前に「義」がつく。
- 「義」は、武家源氏宗家の嫡子につけられる通字。八幡太郎義家が親父の頼義から義の字を貰って以来、たいていつけられている。
- 頼朝は義朝の三男だったので義の字はついていない。この系統は「頼」か「朝」を受け継いでいる。
- 頼朝の代の本来の嫡子は悪源太と呼ばれた義平。イトコの義仲や弟の義経は自分で名をつけたようで、頼朝が彼らを目の敵にしたのは「嫡子でもないくせに、俺についてない義の字を名乗りやがって~~」と憤慨したからかも。
- 平治の乱の時点で、頼朝は従五位下・右兵衛佐、義平は無位無冠なことから、頼朝が嫡子扱いされていたことはほぼ確実。それに「義」の字がそんなに重要なら、後に改名していたはず。巧くできた話だが、正直成り立たないと思う。
- 系図から見てこの頃の源氏の通字は「義」と「頼」の二つ。父親は長男にはこのどちらかを名前に入れ、次男以下には通字でない方の字を与える事が多い。庶子の長男は自分の通字を入れて「義平」、正妻の子のの三男にはもう一つの通字と自分の諱を合わせて「頼朝」だったんだろう。この辺のバランス感覚は難しい。
- 平治の乱の時点で、頼朝は従五位下・右兵衛佐、義平は無位無冠なことから、頼朝が嫡子扱いされていたことはほぼ確実。それに「義」の字がそんなに重要なら、後に改名していたはず。巧くできた話だが、正直成り立たないと思う。
- 頼朝の代の本来の嫡子は悪源太と呼ばれた義平。イトコの義仲や弟の義経は自分で名をつけたようで、頼朝が彼らを目の敵にしたのは「嫡子でもないくせに、俺についてない義の字を名乗りやがって~~」と憤慨したからかも。
- ちなみに、尊氏までの足利家の通字は「氏」。
- 正確には尊氏の夭逝した兄の時点で高義。義を持ってきたのは、北条が源氏嫡流を継がせたんじゃね?という説もある。
- 代々日野氏から正室を娶っているため、ものすごい近親婚。
足利尊氏[編集 | ソースを編集]
- 気前の良さで天下をとったが、気前が良すぎて自分の領地が減ってしまい、後難を招いた。
- 中国・漢の高祖は打算ありきで気前良く振舞ったが、こちらは正真正銘のお人よし。でも誠実さがウケて何度失脚しても復活。
- けっこう情緒不安定かつ優柔不断な人。
- それでいて戦いは強いというのが不思議だ。
- よく見るザンバラ髪の肖像は、後醍醐天皇に朝敵扱いされてショックを受け、自暴自棄になって、出家すると言い張って寺で髪を切って貰った時の姿。
- あの肖像画は、実は尊氏を描いたモノではない。どうやら、高師直か、その一族の肖像画らしい。一方。神護寺三像は、源頼朝・平重盛・藤原光能を描いたといわれていたが、実は、源頼朝→足利直義、平重盛→足利尊氏、藤原光能→足利義詮だったのが有力となっている。
- NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)では、足利尊氏(真田広之)と高師直(柄本明)が同じザンバラ髪をして馬で走るラストシーンがあった。
- 年配の美術史家は非常に否定的。周辺の文献資料では確かに通説の方が有利だが、筆者は宋時代の頂相の描法と、伝統的な大和絵技法を非常に高いレベルで習得しており、これを13世紀中に描くのは不可能だ思う。
- どの肖像画にも言えることだが、通説が長い間受け入れられていたからには、それぞれの肖像画のモデルとされていた人物の実際の容姿も”当たらずといえども遠からず”程度には似通っていたのかもしれない。
- 「似ていたから混同した」というのは、現代人の発想。神像や仏画だとそういう例はあるが、肖像画の場合、像主や絵師の周辺資料や描法である程度推測できるため、そうした混同は普通起こらない。この論争も、論拠となる資料を前に持ってくるか後に持ってくるかに多くを拠る。
- 神護寺には、こちらは鎌倉時代に描かれたのが確実な文覚上人象があり、これと三像は全く似ていない。元の頼朝像らは、この文覚上人に似た作品だったと解釈した方が妥当だろう。
- あの肖像画は、実は尊氏を描いたモノではない。どうやら、高師直か、その一族の肖像画らしい。一方。神護寺三像は、源頼朝・平重盛・藤原光能を描いたといわれていたが、実は、源頼朝→足利直義、平重盛→足利尊氏、藤原光能→足利義詮だったのが有力となっている。
- 尊氏を名乗る前は「高氏」(読み変わらず)。後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の一字をもらって尊氏に改める。
- 高の字は14代執権・北条高時から。
- 常勝将軍というわけではないが、僅かな手勢で大軍に追い込まれたときは無類に強い。
- 錦の御旗を掲げた新田軍数万が直義らを三河駿河で次々と打ち破って箱根に迫り、朝敵の汚名を恥じて寺に籠もっていた尊氏は絶体絶命。しかし僅か数百騎の鎌倉残留武士を率いて出撃し、竹ノ下の戦いで新田軍を奇襲して京都まで壊走させる。
- 近畿で北畠顕家らに敗れて九州まで敗残兵と逃れる。現地で迎えるはずの少弐貞経は、宮方に寝返った九州の諸将により討ち死にして援軍の見込みも潰える。その残党を加えた二千で、二万に及び勢いに乗る菊池軍を多々良浜の戦いにて撃破。
- 大して戦術眼があるわけではないので特別戦上手とはいえない。しかし死への恐怖が欠落していたり物事に執着せず気前よく恩賞を出す性格のため、尊氏が参戦するだけで軍勢の士気がぐっと上がるというある意味一番敵にしたくないタイプの武将。バサラが流行する一方で権威はまだまだ生きているこの時代には非常にマッチした人材といえる。
足利義詮[編集 | ソースを編集]
- 異母兄・直冬との争いで生涯を費やしてしまった。
- いつの時代も二代目の将軍って影薄いよな
- 苦労して親父と叔父の兄弟喧嘩を後始末し、宮方に寝返った武士たちを概ね降伏させたところで寿命。全国統一は義満にバトンタッチ。
- 父親の盟友である佐々木道誉を重用。これ自体は悪くない判断なのだが、そのせいでバサラ嫌いな太平記にボロクソ書かれることとなってしまった。後世のイメージは「道誉にいいように使われるボンボン」
足利義満[編集 | ソースを編集]
- 金閣寺を建てた。
- 明から日本国王に封じられた。
- 天皇はその上なのだから構わないと思ったか、そんなところまでは考えていなかったか微妙。
- 当時の北朝系天皇は将軍に推戴されなければ地位を保てない存在。天皇が何を思っても、義満を止める手立てはなかった。
- 天皇より上に立つために中国の権威を利用したという説も。金閣寺が3階・唐風、2回・公家風、1回・武家風のつくりになってるのはその表れなんだとか。
- 天皇はその上なのだから構わないと思ったか、そんなところまでは考えていなかったか微妙。
- 皇室を乗っ取ろうとしたらしい。
- 厳密に言うと、長男の義持を征夷大将軍・源氏の長者とし、次男の義嗣を天皇の養子に押し込み、武家・公家の頂点に立とうとした。
- そのわりに義持には冷たかった。
- 厳密に言うと、長男の義持を征夷大将軍・源氏の長者とし、次男の義嗣を天皇の養子に押し込み、武家・公家の頂点に立とうとした。
- 「一休さん」にたびたび登場したが、史実ではたぶん一休さんとは会ってない。
- 昭和時代に一般家庭に知れ渡った「一休さん」のお陰で、頭脳はかなりアレだと思われている。
- 世阿弥を寵愛。能楽の恩人と言うべき。
- だが、義満は世阿弥に殺されたという説も有り。
- 皇統の断絶を恐れた朝廷が差し向けた刺客だったという話だと思うけど、どうですかねえ……
- だが、義満は世阿弥に殺されたという説も有り。
足利義持[編集 | ソースを編集]
- 弟・義嗣と仲が悪く、親父が死んだのを幸い、義嗣を天皇の養子にする話を白紙に戻す。
- ついでに「日本国王」も返上。とにかく親父の策をことごとく潰そうとした。
- その割に称光天皇の諱を変えさせているのがなぁ・・・。さすがに親父は、そこまではしてない。
- ついでに「日本国王」も返上。とにかく親父の策をことごとく潰そうとした。
- 息子の義量に早いうちに将軍位を譲り、大御所として後見しようとしたが、病弱な息子が先に死んでしまう。そのあと義持は復職しなかったので、3年ほど将軍が不在の時期があった。
- 義量の死後、後継将軍を決めず、臨終の席で、「お世継ぎはどうなさいます」と重臣に訊ねられたが、
「俺が言い置いてもどうせ無駄だろう。くじ引きでもして決めるがいい」
と投げやりな答え。本当にくじ引きをして義教が就任。- 実際は陰陽道と仏教を厚遇した父への反発(またかよ)から、神道を崇敬。政治の重大事によく籤を用いて神意を伺っていたというのが真相。現代の感覚と違って投げ槍だったという意味ではない。
- あまり知られていないが、水墨画は当時としてはかなり上手い。重要文化財に指定されている作品があるほど。
- 粛清と戦争が多かった父義満の時代と弟義教の時代に挟まれ、民にとってはわりと平穏な時代だった模様。
足利義量[編集 | ソースを編集]
- 16歳の時に将軍位を譲られたが、2年後に病死。子供の頃から大酒飲みだったらしい。
- 将軍なのにオヤジと管領達のせいで何も出来ず(傀儡将軍)、酒飲むしかなかったらしい。
- 管領とかから政治のことを考えるように言われても、「お前たちが勝手に仕事奪ってるくせに!」としか返せなかった。
- 将軍なのにオヤジと管領達のせいで何も出来ず(傀儡将軍)、酒飲むしかなかったらしい。
- 親父より早世したせいか、歴代将軍から省かれることもある不憫な人。
- 未成年飲酒のせいだ。
足利義教[編集 | ソースを編集]
- くじ引き将軍。
- 義持が義量の死後、後継者を決めないで死んでしまったので、本当にくじ引きがおこなわれた。他の候補者は、梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆。みんな兄弟。
- この時「他の誰かがくじに当たっていたら?」というイフは、あまたのシミュレーション小説の設定に較べて、ずっと現実に起こりえたと思うのだが。
- 室町時代のシミュレーションでは読者がついてこないかな。
- でも結果は対して変わらない。
- この時「他の誰かがくじに当たっていたら?」というイフは、あまたのシミュレーション小説の設定に較べて、ずっと現実に起こりえたと思うのだが。
- 研究者でも、実はイカサマをしたとする人と、本当にくじ引きで選んだとする人と真っ二つに別れる。
- イカサマを示唆する資料と、そんなことはなかったと暗に強調する資料の二種類が残されているため。
- 籤引に深く関わった僧の日記だと不正は無かった事を強調しており、素直に考えればこちらが正しいように思われるが、自分がイカサマしたことを正直に書く訳ないだろう・・・。
- 歴史書ならともかく、私的な日記にわざわざ「俺嘘ついてないもん」と書くか?とも言えるので結局どちらとも言えない。
- このせいで、持氏から軽蔑されてばっかだった。
- 更に町人からも、就任当初は頼り無し扱いされていた。
- 義持が義量の死後、後継者を決めないで死んでしまったので、本当にくじ引きがおこなわれた。他の候補者は、梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆。みんな兄弟。
- もともとは僧として比叡山に登り、天台座主になっていた。
- 天台宗始まって以来の逸材とまで呼ばれていたという。
- それが将軍になってからは仏教弾圧とは。飼い犬に手を噛まれた気分だったろう。
- 座主として山門のやり方を知り尽くしていたのが、強みだったのだろう。歴代の権力者にありがちな比叡山恐怖症がまったくと言っていいほどなかった。
- 高僧上がりにしては、やたらと武断的だったりえこひいきをしたりと、仏門にあった者とは思えない行動が多い。
- ぶっちゃけ当時の寺院はそういう存在。世俗の身分制度が寺の内部にも行き渡り、高位の僧侶はやりたい放題出来た。
- なぜか彼の代に「盟神探湯」(古代の神明裁判)が復活している。
- 口を出してくる有力者連中を神の威光を傘にきて跳ね除ける為だったらしい。境界や朝廷問題関連でのみ行われた。
- 「くがたち」と読む。
- 天台宗始まって以来の逸材とまで呼ばれていたという。
- 九州を平らげ関東を蹴散らし、幕府の全国支配を完成させるが、その戦勝祝賀の席で赤松満祐に討たれる。全国支配はたちまち瓦解。
- 後花園天皇の父にあたる伏見宮貞成親王は「将軍が犬死するなんて聞いたこともない」と半ば馬鹿にする口調で日記に記している。これほどまでに皆に憎まれていた将軍も珍しい。
- 何せ、赤松満祐は将軍を討った後、逮捕どころか妨害もされず悠々と領地に戻っている。追討の軍が発せられたのはかなり後のこと。
- 普通は将軍がいようといなかろうと管領以下宿老が追討軍を編成できるんだけど、この人の時代はそういう権限は完全に将軍に集中していたらしい。
- それは義教の死亡による混乱のせい。あまりの大事件だったため、幕臣だちは何が起こったのかを把握するだけでも時間がかかった。
- 赤松満祐が将軍を弑したのは、領地の裁定で不利益をこうむりそうだったからだが、満祐は先代の義持の時も不利益な裁定を受けている。個人的にイヤな奴だったのかもしれない。
- 結果的に赤松は義教の日本統一事業も、自分の家も潰してしまった。
- やり方の強引さはともかく、義満ですら成しえなかった関東・九州を一時的にせよ平らげ、史上初の比叡山の抑制(悪く言えば弾圧だが)を成し遂げるなど、政治手腕は確かだったと思われる。ただ、いかんせん最期が…。
- 信長が手本にしたという説もなんとなくうなずけるかな。
- 奉公衆の軍事力を強化し、有力守護は力で滅ぼし、義持どころか義満をも超える将軍権力の最盛期を作る。
- 守護はおろか管領すらイエスマンとなった将軍絶対主義の時代。しかしその全権力を握った将軍が暗殺された場合のことなど、この海のリハクすら予想もしていなかったわ。
- なんでか学者は義教を評価しようとしない。のちの徳川家康も同じようなことを、より徹底してやっているのだが、こっちはほとんど何も言われない。
- 暴君臭かった。
- 同時期史料にあれだけボロカスにかかれりゃねぇ・・・。
- 死に方があまりにもアレなので全体として成功したと言えない問題。家康は後のこともちゃんとできたのが偉いのだ。
足利義勝[編集 | ソースを編集]
- 9歳で将軍になったが、8ヶ月で死去。死因は諸説あって謎に包まれている。
- その割に、弟たちは結構な(当時としての)長寿である。
- こっから後の将軍はもうダメである。
足利義政[編集 | ソースを編集]
- 義勝の弟。
- 8歳で将軍になったが、20歳くらいになるともう飽きて、やたらと引退したがる。
- 弟の義視に将軍位を譲ろうとした。もちろん奥さんの富子さんは猛反対。応仁の乱の遠因となる。
- 義視を後継者に指名した直後に息子の義尚誕生。何とタイミングの悪い…。
- つか喧嘩してる最中にヤルなっつーことですよ。
- とりあえず、義尚には、天皇の御落胤説がある。富子と義政でケンカしてるのに子供が出来るかいと言うことで。
- つか喧嘩してる最中にヤルなっつーことですよ。
- 義視を後継者に指名した直後に息子の義尚誕生。何とタイミングの悪い…。
- 20歳前後は畠山の相続に介入し反抗する斯波氏や鎌倉公方を討つなど、むしろ父義教のような将軍専制の再現を狙っていたらしい。
- ただし、寛正の飢饉のさなかに花の御所を改築し、天皇の苦言を受けるなど民の負担はあまり考えていない。
- 政治に関心を完全に失ったのは文正の政変。側近層が引退に追い込まれて手足を失った形になる。応仁の乱はこの直後のことである。
- 弟の義視に将軍位を譲ろうとした。もちろん奥さんの富子さんは猛反対。応仁の乱の遠因となる。
- 奥さんと顔を合わせたくないばかりに家出。小川邸に移り趣味三昧の生活を送る。
- 自分の息子(義尚)が成長したのでこれ幸いと譲位。
- しかし父子で女を取り合って大喧嘩したりしている。
- 要するに政治的には零点な人だが、文化史上では東山文化を創始した偉大な存在。
- 経済観念もゼロ。奥さんに無理やり算段させた資金で庭造りを堪能。文化史上では奥さんの功績も認めてやりたい。
- 今の日本家屋の基本を作った(畳・床の間など)。そういう意味ではかなり偉大。
- 文正の政変に勝っていれば、零点どころか将軍独裁の全盛期を作っていたかもしれない。
- 辞世の句は「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」。どれだけ趣味に生きようと心は空っぽ、もう何もかもどうでもよいという虚無的な空気が漂う。
足利義尚[編集 | ソースを編集]
- 足利将軍きってのイケメン。緑髪将軍と称された。
- 将軍家の所領を奪った六角氏征伐のためみずから出陣したが、戦が長引いている間に病死。
- 戦死説もある。現職の将軍が戦死ではみっともないので病死と取り繕ったとか。
- この人も大酒飲みだとか言う記録が・・・。
- 日野富子がうざくて、外征に懲りだしたとか言う解釈もできる人。
- 西太后(日野富子)と光緒帝(足利義尚)と言えば、少しはこの人間関係を理解できるかも。
- 晩年に義煕に改名。
- しかし、ほとんどすぐに義尚に戻したため、足利家官位記では、「何がやりたいのかわからん」調の書き方をされている。
足利義稙[編集 | ソースを編集]
- 義政の弟・義視の息子。
- 日野富子が彼に将軍位をやりたくなかったのが原因で応仁の乱が始まったのに、義尚が死んでみると彼しか適格者が居なかったという皮肉。
- 日野富子にしてみれば「何故あやつに将軍職をやらねばならぬ…」だろうけど、実子・義尚が子作りしないまま死んだのも絡んでる。
- 日野富子が彼に将軍位をやりたくなかったのが原因で応仁の乱が始まったのに、義尚が死んでみると彼しか適格者が居なかったという皮肉。
- 管領の細川一族と反目して、京都を追われては、あちこちの大名の力を借りて復帰、また反目して追われ……という忙しいというか懲りない人生を送った。
- 最後は阿波で死去。
- 管領家の跡継ぎ争いに左右され、それに伴う政変に翻弄され、結局京都に帰れないまま死ぬという無念さ。
- 京極家や畠山家の内争に、この人が介入しすぎたのが、戦国乱世の遠因かも知れない。
- でも、阿波に遺髪はあっても、遺骸はないそうな。
- 管領家の跡継ぎ争いに左右され、それに伴う政変に翻弄され、結局京都に帰れないまま死ぬという無念さ。
- 最後は阿波で死去。
- 義材という別名もある。
- 義材(よしき)は将軍職に最初に就いた時。諸国放浪中に義尹(よしただ)に改名。再度将軍職に返り咲いて義稙(よしたね)に。
- 一応その改名した名前三つ全てで将軍になってる。
- 義尹から義稙は、義尹で将軍になってからの改名だから間違いではない。
- 一応その改名した名前三つ全てで将軍になってる。
- 義材(よしき)は将軍職に最初に就いた時。諸国放浪中に義尹(よしただ)に改名。再度将軍職に返り咲いて義稙(よしたね)に。
- 跡継ぎ息子がいないまま死んだ。なので、次期将軍の座を巡る戦乱の原因に。
- いや、その頃には義澄が細川高国の手によって将軍になってる。
- 若い頃に毒殺されかかったせいで、子どものできにくい体になった可能性もある
- 実は将軍権力が本当に瓦解したのは、彼の最初の失脚たる「明応の政変」である。政変で奉公衆が解体したからである。
- 応仁の乱が起ころうが後継者争いが起ころうが、将軍でありさえすれば義政や義尚が超然としていられたのは、奉公衆という義満や義教の独裁を支えた強力な常備軍が健在だったから。
- しかし奉公衆という軍事力を失った義稙以降の将軍たちは、命令を実行する軍事力を有力守護に頼るしかなく、彼らと対立するたびに出奔する羽目になった。
- でも、末裔の足利義根が阿波を離脱したときに付いていったのはその奉公衆の末裔かも知れない。
- 日野富子が義政以降の将軍権力を政治的財政的に支えたのは事実だが、明応の政変の首謀者として将軍権力を崩壊させたのもまた事実。ああ…
- 趣味は出奔。
- 暗殺に来た刺客を自力で撃退したことがある。
- 生まれは実は美濃。
足利義澄[編集 | ソースを編集]
- 義政・義視の弟、伊豆堀越公方・足利政知の息子。
- 父の死後、異母兄の茶々丸がご乱心して、家族を斬殺。義澄だけ命からがら逃れて京都へ走る。
- ちなみにそのあと北条早雲が茶々丸を追って伊豆を乗っ取ってしまい、堀越公方は消滅。
- と言うより、茶々丸が潤童子ともめてる間に、跡を継ぐ可能性の全くなくなった義澄は、出家するために上洛。と言うのが正しいみたいだ。
- 義稙と反目した細川政元に擁立されて将軍位に。
- しかし、大内義興の支援を受けた義稙に追われて都落ち。
- 六角高頼の支援を受けて逆襲しようと準備していた時に病死。
- この人あたりから、困ったときの近江動座(近江落ちともいうか)が、一つの足利将軍家の慣例のようになる。
- この人の末裔は一応現存。
- 某大学の教授にいるが、その大学が解散命令を喰らって・・・。どうやら流浪するのは運命らしい。
- 前将軍の義稙を詛った願文が現存しているらしい。
足利義晴[編集 | ソースを編集]
- 父・義澄が都落ちしていた時に生まれ、赤松義村のもとで養育される。
- 返り咲いていた義稙が、またも細川高国と反目して逃げ出したのち、高国に擁立されて将軍位に。
- 義晴も、細川晴元と反目したり仲直りしたり、忙しい人生を送った。
- ちなみに戦国武将の細川幽斎(藤孝)は管領細川氏直系ではなく、義晴の落胤らしい。
- とにかく存在感が薄い。自身の人生も、その墓も。
- 武田晴信(のちの武田信玄)はこの人の偏諱。
足利義輝[編集 | ソースを編集]
- 剣豪将軍。
- 塚原卜伝から免許皆伝を受けた。おそらく鎌倉・室町・江戸期の全将軍のうち、個人的戦闘力では最強の人。
- それ以外の征夷大将軍では、坂上田村麻呂・木曽義仲あたりが個人技でも強そうな気がするが、それについての史料は無いので、義輝より強いかどうかはわからない。
- 戦国無双2では、その強さ故護衛武将になれた。
- 塚原卜伝から免許皆伝を受けた。おそらく鎌倉・室町・江戸期の全将軍のうち、個人的戦闘力では最強の人。
- あちこちの大名に偏諱を授けて謝礼金をねだった。
- 伊達輝宗、毛利輝元、上杉輝虎(=謙信の本名)……
- 毛利輝元の場合は、「義元」と名乗っても良かったのだが、それだと桶狭間で討死にした駿河の某大名と同じ名前になるからいやだとゴネてこの名前になった、とどっかで聞いたことがある。
- 大河ドラマ「毛利元就」でそういうシーンがあったけど、ほんとかなあ……。
- ちなみに「義」の字のほうが謝礼金は高くなる。こちらを貰った人としては、武田信玄の長男・義信が代表例。
- 義輝の前は義藤と名乗っていた。細川藤孝(幽斎)がこの偏諱を受けた人物として有名。
- 最後は松永久秀に攻められ、みずから十数本の刀をふるって戦ったが、力及ばず戦死。
- 辞世の句にも無念さがにじみ出ている。
- 辞世の句 五月雨は露か涙か不如帰(ほととぎす)我が名をあげよ雲の上まで
- 数十本の刀を床に突き刺して、刀を取り替えつつ敵兵を切り倒し、一人で多数を相手にしている姿はまさしくリアル戦国無双。
- 辞世の句にも無念さがにじみ出ている。
- 上述の偏諱を授けるほか、各地の抗争の調停をしたりと、とにかく将軍の名前と存在感を売り込んで、幕府の権威の復活に熱心だった。
- 手数料目的に偏諱乱発し、謝礼目的に調停しまくった側面もあるようで・・・。
- 強い、勇敢、正当性があるの三拍子から、戦国の将軍としては後世の高い人気を誇る。
足利義栄[編集 | ソースを編集]
- 義晴と反目していた弟・義維の息子。
- 阿波平島で生まれる。平島は現在の阿南市にある。
- 父の義維よりも、先に死んでいる。
- 阿波平島で生まれる。平島は現在の阿南市にある。
- 朝廷への献上金が足りなくて、一時は将軍宣下を断られた貧乏な人。
- 義昭を担いだ織田信長に追われて都落ち。再起を図っている途中で病死。
- 松永久秀による暗殺説がある。
- 子孫は平島公方と呼ばれ、代々阿波平島に住んだ。
- 正確には、弟(義助)の子。義栄自体に子どもがないから、弟が死後に養子として相続。
- 足利将軍家で唯一京都に入れなかった将軍でもある
- 将軍になる前は、入洛していたような文書もあるようだが、さて・・・・。
- そのせいか、人物像や事績も、ほとんど謎の存在で、肖像画も、足利家菩提寺の等持院の木像(歴代将軍として)もない。NHK大河ドラマでも、ずっと俳優がキャスティングされることがなかったが、2020年『麒麟がくる』で、ついに大河初登場。
足利義昭[編集 | ソースを編集]
- 義輝の弟。
- 織田信長に頼って京都入りし、この世の春かと思っていたら、実権を全部信長に奪われているのに気づき、キレる。
- 信長に対抗するため、あっちこっちの勢力に手紙を書きまくる。まあ、できることがその程度しかなかったわけだが。
- その結果信長包囲網ができたわけで「何もできなかった」わけではない。
- 足利家は元来自前の勢力が強くなく、守護大名のパワーバランス調整で渡ってきた家なので、実は結構将軍ぽい将軍だったりする。
- 当初は信長のことを「お兄ちゃん」と呼ぶほど親しかった。
- 「お父ちゃん」じゃなかったっけ?
- 信長に対抗するため、あっちこっちの勢力に手紙を書きまくる。まあ、できることがその程度しかなかったわけだが。
- 何度も信長を陥れようとするが失敗し、毛利家に預かりとなる。
- 毛利家の庇護下では鞆の浦にいた。ここでいろいろと反信長の活動を行っていた。
- だから、鞆時代とか鞆幕府と言っても良いような気がしなくもない。
- しかもこの時点ではまだ将軍だったんだよなぁ、確か。
- 名ばかりの将軍だから相当な貧乏生活だろうと思われがちだが!足利将軍家の専権事項実行して礼金とれたのと、日明貿易で繋がりのあった大名からの援助もあったのでカネには困らなかった。
- しかもこの時点ではまだ将軍だったんだよなぁ、確か。
- だから、鞆時代とか鞆幕府と言っても良いような気がしなくもない。
- 明智光秀を焚きつけたのは彼だったという噂も。
- 数奇な運命ではあったが、ちゃんと天寿を全うしている。
- 秀吉が関白になってからは、大名として復活??してるし・・
- 朝鮮出兵にも参陣してる。
- 秀吉に願われて参陣したが、朝鮮に渡ってない。まぁ秀吉の天下統一完成までは前将軍だし、その為待遇はそこらの大名以上だったし。山城国(現在の京都南部)に1万石もらって悠々自適だったそうだし。
- 記録によると、死因は腫れ物の悪化というものがあったりする。そんなに流行していたのか腫れ物・・・。まさか毒殺じゃなかろうな。
- 朝鮮出兵にも参陣してる。
- 反乱を起こしたり、もしくは他の反乱者に担ぎ出されたりするのを防ぐために手元に置いといたようである。このあたり、本願寺の顕如と待遇が似通っている。
- 秀吉が関白になってからは、大名として復活??してるし・・
- 玉置浩二の当たり役。
- この時の玉置の声は完全に別人だ。
- どうにかして将軍になりたい秀吉の「あんたの子供にしてくんない?名目だけでいいからさぁ。」という勝手な申し出を一蹴したとか。気位だけは失わなかったらしい。
- そのせいだかなんだか知らないが、大阪で没している。
- 義秋から義昭に改名した理由は、秋の次が冬だから。つまり、義秋の次は義冬になると言うことで、嫌って改名したらしい。
関連項目[編集 | ソースを編集]
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