宰相・軍師伝/中国
独立項目[編集 | ソースを編集]
古代の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
伊尹[編集 | ソースを編集]
- 殷の湯王を助けた。
- 軍事よりも外交や内政を得意としたらしい。
- なぜか夏の桀王にも信頼されていたようだ。
- もとは凄腕の料理人だったらしく、それだから桀王のもとにも出入りできたのかも。
- 湯王の孫の太甲がDQNだったので、「桐」という場所に幽閉して反省を促す。
- 誰もが、太甲が出てきたら伊尹は殺されると思ったが、反省した太甲はおとなしく伊尹の教えを受けるようになったという。
- 人使いがうまく、「適材適所」を絵に描いたようだった。
- 「まるでハカリのような人だ」と評判になり、「阿衡」と尊称された。
- はるかな後世、日本の宇多天皇が、藤原基経に「阿衡の佐(たすけ)をもって卿(けい)の任となす」という勅書を出して騒動になったが、これはまた別の話。
太公望[編集 | ソースを編集]
- 周の文王や武王を助けた。
- 斉の国を築いた。
- 釣り人の代名詞。
- まっすぐな釣り針をつけて、しかも水面から離して釣り竿を構えていたというのだから、本当は釣りは苦手だったと思うんだが……
- 封神演義では「道士だから無益な殺生はできず、魚と遊ぶため」としていた。
- 当時の人々にもツッコまれたが、「俺は魚を釣るのではなく天下を釣ろうとしているんだ」と強がりを言った。
- まっすぐな釣り針をつけて、しかも水面から離して釣り竿を構えていたというのだから、本当は釣りは苦手だったと思うんだが……
- 呂尚、姜子牙などいろんな名前が伝えられる。
- 「太公望」の名は、文王が彼に会って「おお、これこそ太公(文王の祖父の古公亶父のこと)が待ち望んでいた人材だ!」と叫んだことからついたというのだが……
- 同僚だった「召公奭」や「周公旦」の例から見て、やっぱり「望」が名前で「太公」は諡号だったんではないかという説が近年有力。
- 幸田露伴は「呂望」説だったな。
- 同僚だった「召公奭」や「周公旦」の例から見て、やっぱり「望」が名前で「太公」は諡号だったんではないかという説が近年有力。
- 「呂」は氏(いわば苗字)、「姜」は姓(日本で言えば源平藤橘みたいなもの)のようだ。
- 「太公望」の名は、文王が彼に会って「おお、これこそ太公(文王の祖父の古公亶父のこと)が待ち望んでいた人材だ!」と叫んだことからついたというのだが……
- 年齢は諸説あり。
- 文王に招かれた時にはすでに70過ぎのジジイだったというのが伝統的な説。
- しかしそれでは余命が長すぎて、最後は悠に100歳を超えることになってしまうので、もっとずっと若かっただろうというのが近年の説。
- 宮城谷昌光さんの小説では20代後半くらいになっていた。
- 藤崎竜さんのマンガではどう見ても10代だった。
- 古典的トンデモファンタジー「封神演義」の主人公。
- 主人公ではあるが、脇役たちのキャラが濃すぎて、あんまり活躍しない。
- おまけに一回死んでいる。
- 藤崎竜版ではペットにすら「楊ゼンさん超美形ッスよ、彼の方が主人公っぽいッスねー」とまで言われていた。
- 主人公ではあるが、脇役たちのキャラが濃すぎて、あんまり活躍しない。
- ヒョロヒョロの老人ではなく、ガタイはかなり良かったらしい。
周公旦[編集 | ソースを編集]
- 周の文王の四男。
- 兄である武王の急死後、早々と崩壊しそうな周王朝を支えて奮闘。
- 周公旦ばかり偉そうにしているのに反撥した他の兄弟たちが、殷の残党と手を結んで叛乱を起こしたが、毅然とした態度で鎮圧した。
- もっとも、兄弟たちの反撥にまったく理がなかったわけでもなく、周公旦の独裁ぶりは確かにヤバいレベルだったらしい。
- 実際、武王の跡継ぎの成王から簒奪し、みずから王位に就いてしまったのではないかとする研究者も居る。
- 魯の国を築いた。
- ただし、実際に魯の整備にあたったのは周公旦の息子。周公旦自身は天下の経綸に忙しく、魯を顧みている暇はなかった。
- とはいえ魯にとっては建国の父。魯に生まれた孔子からすごく尊敬された。
- おかげで簒奪の疑いも表立っては言われなくなった。
秦漢の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
李斯[編集 | ソースを編集]
- 秦の始皇帝に仕えた宰相。
- 荀子の弟子で、韓非子と同門だったらしい。
- 始皇帝が韓非子を招いて熱心に師事しているのを見て、自分の地位が脅かされると思い、韓非子を讒言して殺させた……と言われる。
- どうも濡れ衣くさい。韓非子を殺したのはやはり始皇帝の意思と思われる。
- この一事で、李斯はすっかり小者の佞臣扱いされているが、やや気の毒かも。秦帝国のプランを立てたのはやはり李斯と言わざるを得ないし。
- 始皇帝が韓非子を招いて熱心に師事しているのを見て、自分の地位が脅かされると思い、韓非子を讒言して殺させた……と言われる。
- 始皇帝の死後、二世皇帝擁立にあたって宦官・趙高の陰謀に加担してしまい、晩節を汚した。
- 始皇帝は、長子の扶蘇を後継者に指名したが、趙高が李斯を引き入れて始皇帝の遺言を改竄し、扶蘇を自殺させ、末子の胡亥を擁立した……という話。
- が、こんな場面は誰も見ていなかったはずなので、本当はどうだったのかわかったものではない。
- ともあれ、やがて趙高と反目し、趙高に操られた二世皇帝の命令によって囚われ、さんざんな拷問を受けた挙げ句に斬られる。李斯の首と共に、秦帝国の威信も地に落ちたと言える。
范増[編集 | ソースを編集]
- 項梁・項羽に仕えた軍師。
- 最初に会った時から老人だったというから、後年は一体どれだけ高齢だったのか。
- この時期、歴史の進行はなかなか速い。項梁と出会ってから、項羽と仲違いして袂を分かつまで、せいぜい5~6年なので、そんなに老いぼれてしまったわけでもない。
- 最初に会った時から老人だったというから、後年は一体どれだけ高齢だったのか。
- 項梁に楚王を迎えることを進言し、曲がりなりにも楚の国を復興した。
- 項梁が戦死したあとは、甥の項羽に仕えた。「亜父」と呼ばれて尊敬された。
- ちなみに「あほ」と読みます。
- 劉邦の危険性にいち早く気づき、「鴻門の会」で殺してしまうように項羽に進言するが、なぜか却下される。
- 項羽が劉邦を舐めきっていたからと思われるが、真相はよくわからない。
- 劉邦だけでなく、韓信に対しても「重用するか他国に行く前に殺せ」と項羽に進言した。
- 天下のグランドデザインを描くほどの器ではなかったかもしれない。
- 秦を亡ぼした後の項羽による論功行賞が、著しく不公平な、みんな不満だらけのものだった。范増の助言があったとすればお粗末すぎる。
- 范増の助言を項羽が聞かなかったという可能性もあるが、そうだとしたら鴻門の会の一件と合わせて、范増はその待遇の厚さのわりには項羽に対する発言力が無かったことになり、軍師としてはいかがなものか。
- 陳平に「項羽は一族の意見しか聞かない」と言われているから、やはり聞いてもらえなかったんだろう。
- 劉邦の幕僚・陳平の謀略によって項羽との仲に隙間ができ、退去する。
- 途中で憤死したとか、背中にできものができて死んだとか言われる。
- 彼ほど仕える主君を間違った人はいないと思う。
- 後に劉邦は「ワシより凄い張良、蕭何、韓信をワシは使いこなした。だが項羽は范増1人すら使いこなせなかった」と劉邦三傑と並び立てた。
蕭何[編集 | ソースを編集]
- 漢の高祖・恵帝に仕えた宰相。
- 普通の宰相職である「丞相」よりさらに上の「相国」という地位に就く。日本で言えば「太政大臣」や「大老」に相当する、滅多に置かれない最高の官職。
- 実際、相国に就いたのは蕭何と曹参だけで、その後は二人の功績に憚って誰もならなかった官職である。(反逆者の呂産と自称した董卓は別)
- 普通の宰相職である「丞相」よりさらに上の「相国」という地位に就く。日本で言えば「太政大臣」や「大老」に相当する、滅多に置かれない最高の官職。
- 高祖の覇業を最初から支え続けた。
- もとは沛の町の吏員で、行政や司法を担当していた。
- 高祖が盗賊になって沼地に隠れた時には、こっそり援助した。
- 高祖が武将になって軍を率いた時には、必ず後方に居て補給や輜重にあたった。
- 高祖が漢王になった時には丞相となり、やはり後方をよく治めて金城湯池のようにした。
- 劉邦が項羽に何度も負けながら最後に競り勝ったのは、蕭何からの補給が一度も途切れなかったためとも言える。
- 華々しい軍功は無かったが、後方勤務に徹した蕭何の偉さをいちばんよくわかっていたのは高祖その人だった。
- 劉邦が民衆に支持されたのは略奪しなかったのもあり、略奪しなくて済んだのは蕭何の補給が途絶えなかったから。その供給元である民衆も名丞相と讃えたあたり、凄まじいまでの内政力と手腕が見える。
- 他の武将たちが「なんの軍功もない蕭何がなんであんなに高位を貰えるんだ」とそねむと、劉邦は「亭長だった頃のワシが民を率いて咸陽の工事に出かける時、他のヤツらよりたくさん餞別をくれたのが蕭何だったんだ」と答えたとか。後方を支える重要さなど、無教養な武将たちにはさっぱり理解できないので、こういう言いかたをするしかなかったらしい。
張良[編集 | ソースを編集]
- 漢の高祖・恵帝に仕えた軍師。
- 韓の国の宰相の息子だったらしい。
- 本人も一時的に復活した韓の宰相を務めていたが、項羽にやられて元の鞘に。
- 韓の国の宰相の息子だったらしい。
- 「軍師」の代名詞のような人。
- 天才的な戦略・戦術家であったことはもちろんだが、物欲や名誉欲がほとんど無く、仕事のための仕事をしているようなところが、いかにも「軍師」っぽい。
- 力も弱くからだも弱いやさ男で、戦闘指揮をさせてもあんまりうまくなく、ただ作戦を立てさせれば天下一品だったあたりも、いかにも「軍師」っぽい。
- 曹操が荀彧を迎えた時に「我が子房が来た」(子房は張良の字)と言ったなど、後世何度も「我が子房」と使われるあたりも、いかにも「軍師の代名詞」っぽい。
- 始皇帝を暗殺しようとしたことがある。テロリスト上がりですな。
- それは失敗したが、後に劉邦軍に加わってしっかり秦を滅ぼす。
- 項羽の叔父・項伯の命を助けたことがあり、項羽との対戦中はその人脈をとことん利用した。
- 見た目は女性と見間違えるような容姿で身体はあまり強くなかったが、始皇帝暗殺を実行したり、任侠の親分まがいなことをして人を集めたりと結構中身は熱いお方だったらしい。
- 暗殺にあたってハンマー投げの達人を雇ったのだが、投げたハンマーは隣の車に当たって失敗。室伏のアニキがこの時代にいれば…。
霍光[編集 | ソースを編集]
- 漢の武帝・昭帝・宣帝に仕えた宰相。
- 武帝のお気に入りの武将だったが夭折した霍去病の弟。
- 最初は小姓のような存在だったのだろうが、やがて頭角を顕して武帝側近の実力者に。
- 武帝臨終の席で、金日磾・上官桀と共に後事を託されるが、上官桀との権力闘争に打ち勝って昭帝の宰相となる。
- なお金日磾のほうは匈奴出身者ということもあり、ほとんど口を出さず局外中立を保っていた。
- 昭帝が若死にすると、後継の皇帝を二人擁立する。
- 最初に擁立した昌邑王は、おこないが不謹慎だったので、昭帝の皇后だった上官皇太后(上官桀の娘だが、霍光の外孫でもあったので、上官氏が討たれた時にも無事だった)に勅を乞うて廃位させる。
- おこないが不謹慎だったわけではなく、昌邑王はすでに自分の領地を治めていて、スタッフも揃っており、そのスタッフを引き連れて乗り込んできたものだから、霍光が権勢を失う危機感を覚えて排斥したのだという噂もある。
- 武帝の孫の代はもう残っていなかったので、武帝の最初の皇太子で「江充の乱」で殺された戻太子の孫を擁立。これが宣帝。
- 宣帝は反逆した戻太子の孫ということで、庶民に落とされて民間で育ち、自前のスタッフも何も持っていなかったので、霍光としてはやりやすかった。
- 最初に擁立した昌邑王は、おこないが不謹慎だったので、昭帝の皇后だった上官皇太后(上官桀の娘だが、霍光の外孫でもあったので、上官氏が討たれた時にも無事だった)に勅を乞うて廃位させる。
- 「関白」という言葉の語源となった人。
- 宣帝が実力者の霍光をはばかって、上書や嘆願などは「まず霍卿に関(あずか)り白(もう)せ」という勅を出したところから。
- 本人は死ぬまで謹厳実直で、身を慎んでいたが、一族の者たちが霍光の権勢を笠に着て横暴なふるまいが多く、特に宣帝をあなどる言動が多かったので、霍光が死ぬとたちまち族滅させられた。
- 特に庶民時代にめとった愛妻・許平君が毒殺され、霍光の娘を無理矢理皇后にさせられた件で、宣帝はハラワタが煮えくりかえっていたらしい。
- もちろんこの霍皇后も、霍一族を亡ぼした時に廃された。
- 族滅されたのは霍光にとっては気の毒だったが、一族の専横を抑えきれなかった点はやはりいただけない。
- 特に庶民時代にめとった愛妻・許平君が毒殺され、霍光の娘を無理矢理皇后にさせられた件で、宣帝はハラワタが煮えくりかえっていたらしい。
三国の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
荀彧[編集 | ソースを編集]
- 曹操の総参謀長。
- 曹操には「軍師」とか「参謀」とか呼べる存在が数多く居て、それぞれのジャンルで活躍しているが、天下のグランドデザインについて曹操が心底相談できたのはこの人だけらしい。
- 曹操が漢の皇室を盛り立ててくれると思ったから協力したので、曹操が魏公になることを反対した……と言われているが、疑わしい。
- 曹操に簒奪の野心があると知って愕然としたというのだが、それまで気づかなかったとすれば間抜けすぎる。
- 「屋敷の壁を壊すところまで協力しておいて、ドロボーに入るためとは思わなかったなどと言ったところで、誰が信じるものか」と指摘した歴史家も。
- 曹操に簒奪の野心があると知って愕然としたというのだが、それまで気づかなかったとすれば間抜けすぎる。
- 最後は自殺したらしいが、理由は不明。
- 通説では、魏公就任を反対された曹操が気を悪くし、毒薬を送った……とされている。
- 毒薬を送ったのではなく、空箱を送ったところ、荀彧は曹操の怒りを察して自ら毒を服んだ……という説もある。
- が、上の項にある通り、魏公就任を反対したこと自体が疑わしいので、自殺のホントの理由は謎に包まれている。
- 勢力が拡大すると筆頭行政官として活躍。特に人材発掘に定評がある。
- とはいえ、名家出身という人脈と、出身地が有能な人材で溢れていたチートエリアだったことが大きい。ちなみに顔もチート。
- 毒舌で知られる禰衡ですら「荀彧?あんな奴は弔問の使いにでもしとけ(イケメンだがそれ以外に取り柄はない)」と顔だけは否定できなかったという。
- とはいえ、名家出身という人脈と、出身地が有能な人材で溢れていたチートエリアだったことが大きい。ちなみに顔もチート。
- 司馬懿に、百数十年間で最高の人材と評価された。
- ただしこの記述は荀彧の子孫が作った書物によるので、ご先祖様をヨイショしている可能性が高い。
- ここ百数十年間といえば、政治がろくに機能しなかった後漢時代しか含まれていないので、古の偉人と比べると物足りなかったのかもしれない。
- ただしこの記述は荀彧の子孫が作った書物によるので、ご先祖様をヨイショしている可能性が高い。
諸葛亮[編集 | ソースを編集]
- 蜀漢の劉備・劉禅に仕えた宰相。
- 「軍師将軍」という肩書きを持っていたことがあるので、軍師だと思われがちだが、軍事的な才能はさほど無かったし、主君から軍事的な面で頼りにされることもほとんど無かった。本領は政治家。
- それは、兄の驢馬や、その息子の諸葛恪にも言えるのでは・・・妙なところで大敗するのは最早血のせいとしか思えない。
- 劉備の没後は、宰相として何度か軍を率いたが、その戦法は手堅くはあっても基本的には正攻法のみ(せいぜい伏兵を置くくらい)で、魏延などの歴戦の将からは歯がゆく見られていたらしい。
- なんせ諸葛亮を天才軍師に仕立て上げている「三国志演義」でさえ、敵将に「孔明の戦法はいつだって伏兵ばっかりだ」と言わせているほど。
- 日本でも伏兵が得意技の武将が鬼扱いされてたりしますな。
- 諸葛亮も釣り野伏が得意だったようだ。
- 伏兵と火計ばかりでバリエーションが少ないと言う言われ方じゃなかったっけ?
- そんな少ないバリエーションに引っかかりまくりだったのだから、ただの敵将の負け惜しみにしか聞こえない。
- まあ教科書通りの戦いも完璧にできればそれなりのものにはなるので、80点ぐらいはあげていいんじゃないかと。本当に才能のないやつは半可通で登山家みたいなことをやってしまうわけだ。
- 日本でも伏兵が得意技の武将が鬼扱いされてたりしますな。
- 司馬懿が撤退後の陣容を見た評価は「天下の奇才」。つまり大軍を秩序だって運営する能力は高かったと思われる。奇策はしないがその分引っかかりもしないので、王者の戦法として見るなら十分優秀だろう。蜀がそれを許す環境だったかはともかく。
- なんせ諸葛亮を天才軍師に仕立て上げている「三国志演義」でさえ、敵将に「孔明の戦法はいつだって伏兵ばっかりだ」と言わせているほど。
- 赤壁の戦いでの大活躍は100%作り話。
- 「軍師将軍」という肩書きを持っていたことがあるので、軍師だと思われがちだが、軍事的な才能はさほど無かったし、主君から軍事的な面で頼りにされることもほとんど無かった。本領は政治家。
- あざなの「孔明」のほうが有名。
- 「諸葛亮孔明」という言い方はしません。念のため。
- 同様のケースとして項羽がいる。彼の名は「籍」であるため本来であれば「項籍」だけどあざなの「羽」のほうが有名。
- 劉備から「三顧の礼」をもって迎えられた。
- 劉備が諸葛亮の家を訪ねたものの留守ばかりで、三度目にようやく会えたという。
- 殷の湯王に仕えた伊尹の故事を援用した話であるような気もする。
- でも劉備は当時、劉表に寄食していて暇だったので、そのくらいのことをしても不思議ではないかもしれない。
- 逆に、諸葛亮のほうから劉備を訪ね、三度目にようやく話を聞いて貰えたという説もある。
- 年齢差や知名度を考えれば、このほうがありそうではある。
- 実は徐庶と一緒に仕官したという噂もある。
- 劉備が諸葛亮の家を訪ねたものの留守ばかりで、三度目にようやく会えたという。
- 行政家としては超一流。
- さまざまな人脈の入り組んでいた益州を見事にまとめきった。
- 諸葛亮から罰を受けた人も、その罰がきわめて公正なので、ひとりとして恨む者は居なかったという。
- 当時の魏と蜀の国力差は歴然だったが、そのなかで対等に渡り合っていたのだから、文句なしの実力。
- 関羽敗北による荊州失陥後は呉にすら国力が劣っていた状態の中で魏と渡り合っていたからとんでもない実力。
- 読みは「じぇこりゃん」。
- 兄はロバ。
- 忠臣だったというが、実際には劉備との関係は、劉備の出身や行いがアレなので、いつ諸葛亮が下克上しようとするか分かったものではなく、緊張感に満ちたものだったらしい。
- だからこそ劉備は、その臨終の時、群臣居並ぶ中で後事を託したんだそうな。
- 軍才があり、人物眼にも優れていた。
- 劉備の蜀攻めでは、一軍を任されていることから、軍事面でも頼りにされていたことがわかる。
- しかし、この時はホウ統が死んだ後だったので、諸葛亮ぐらいしか頼りに出来なかったという見方も出来る。
- 3回目の北伐では、司馬仲達と正面からぶつかり合って、散々に叩きのめしている。
- 急襲に長けた司馬仲達が、4度目の北伐ではひたすら守りに徹していた。よほどのトラウマだったのだろう。
- 彼の死後、成都ではさほど混乱もなく、スムーズに行政が行われていた。成都の人事はほぼ満点と言ってもいい。
- 唯一、そして最大の失敗が馬謖。それ以外の失敗例があったら教えてほしいもんだ。
- 楊儀については才能は認めていても性格が災いするとわかっていて用いていたのはいささかどうかと・・・
- それだけ、職の人材が払底していたんだろう。
- 楊儀については才能は認めていても性格が災いするとわかっていて用いていたのはいささかどうかと・・・
- 嫁の選び方を見ても人物眼に優れていたことがわかる。
- その点は吉川元春が大いに参考にした?
- 劉備の蜀攻めでは、一軍を任されていることから、軍事面でも頼りにされていたことがわかる。
- 過労死したという説がある。
- 大事小事すべて自分で決済していたらしい。司馬懿が五丈原で対峙中に来訪した使者にそんな諸葛亮の様子を聞いて「長くないな」と思ったとか。
ホウ統[編集 | ソースを編集]
- 諸葛亮との伏龍・鳳雛コンビでおなじみの謀略家。
- 諸葛亮がルール構築の天才だとすればこちらは現場回しの名手。とにかく尻の重い劉備に蜀盗りを決断させた流れは見事としかいいようがない。
- 蜀攻め作の有名な三択はよくよく見れば一択で、現実的な最適解になるよう仕込んでいる。
- A. 一気に成都を奇襲して乗っ取る
- B. 手近な奴らを蹴散らして戦力を増強しつつ成都を攻める
- C. 一度帰ってやり直す
- 劉備の性格を知っていれば奇襲作など採用するわけがないのは明白。よってA案はB案を直接提案して「えー、でも」と言わせないようにするための見せ札なわけである。さらに下策である退却案(と、隠れ下下策である「このまま決断せずグズグズここに留まる」)をさり気なくダメなやり方として演出し、「なるほどこれはB案だな」と劉備自らに決断させている。(主君の性格込みでは)もっとも確実なBを即決させるためにあえて三択にしてみせるという心理戦の上手さが素晴らしい。長い記事
- 蜀攻め作の有名な三択はよくよく見れば一択で、現実的な最適解になるよう仕込んでいる。
張昭[編集 | ソースを編集]
- 孫呉の幕僚たちの実質的トップ。
- 孫権とは主従漫才のツッコミ役。
隋唐五代の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
馮道[編集 | ソースを編集]
- 一名「五代の宰相」。
- 五代十国時代を代表する人物と言えば、あまたの「皇帝」たちよりこの人。
- 「五朝八姓十一君」に仕えた。
- 「五朝」は、五代のうち後梁を除く四つ(後唐・後晋・後漢・後周)と、遼(契丹)。
- 「十一君」は、
- 唐末の軍閥・劉守光
- 後唐の荘宗
- 後唐の明宗
- 後唐の閔帝
- 後唐の末帝
- 後晋の高祖
- 後晋の出帝
- 遼の太宗
- 後漢の高祖
- 後漢の隠帝
- 後周の太祖
- 「八姓」は計算がわかりづらいが、後唐の荘宗と明宗、閔帝と末帝には実は血縁がなかったので別勘定かも。それだと
- 唐の劉氏
- 後唐の李氏その1(荘宗)
- 後唐の李氏その2(明宗・閔帝)
- 後唐の李氏その3(末帝)
- 後晋の石氏
- 遼の耶律氏
- 後漢の劉氏
- 後周の郭氏
- 後世のガチガチの儒者からは、変節漢として実に評判が悪い。
- 本人は「治民のプロフェッショナル」をもって自任していたようだ。
- そのためにはコロコロ代替わりする皇帝(平均在位期間約3年)や王朝(平均存続期間約10年)への忠誠心など二の次だったらしい。
- 長期王朝のもとで安穏としていた儒者が批判できた分際ではない。
- そのためにはコロコロ代替わりする皇帝(平均在位期間約3年)や王朝(平均存続期間約10年)への忠誠心など二の次だったらしい。
- 実際、王朝交代のたびのゴタゴタに、あまり庶民が巻き込まれずに済んだのは、明らかに馮道の功績。
- 本人は「治民のプロフェッショナル」をもって自任していたようだ。
- 長楽老と号した。
- 「長楽」は彼の出身地の地名。
- でも後世の儒者には、「変節漢のくせに『長い楽しみ』たあよくも言ったもんだ」と、この雅号も悪評サクサク。
宋元の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
王安石[編集 | ソースを編集]
- 北宋の神宗に仕えた宰相。
- 財政再建に奔走したが、既得権者の抵抗に遭って4年で失脚。
- しかし、財政を好転させるためには結局王安石の「新法」を実施するしかなく、その後の北宋は「新法」派とそれに反対する「旧法」派とのあいだで揺れ動くことになる。
司馬光[編集 | ソースを編集]
秦檜[編集 | ソースを編集]
- 南宋の高宗に仕えた宰相。
- 腹黒宰相・最悪の佞臣として歴史上さんざんな評価を受けている。
- 金の言うなりに譲歩を重ねたり、領土回復を唱える「忠臣」岳飛を陥れて処刑したりした売国奴と罵られている。
- が、よく見てみると、彼は高宗の意に反することは何ひとつやっていない。南宋という国よりも皇帝その人に忠実だったのだと言える。
- 高宗は父・徽宗や兄・欽宗が金に囚われて生きているのに勝手に帝位に就いてしまったので、実は父や兄が帰ってくるとヤバい立場だった。本当は帰ってきて欲しくないのだが、表向きは二帝の返還を金に求めざるを得ない。こういう複雑微妙な高宗の立場を完璧に理解し、アクロバティックな腹芸で金と交渉し続けたのが秦檜。ホント言うとこれほどの忠臣は居ない。
韓タク冑[編集 | ソースを編集]
- 南宋の寧宗に仕えた宰相。
- タクの字は「侘」のウ冠が广になったもの。
- 孝宗がせっかく結んだ金との和約を破棄して攻め入ろうとした結果見事に大敗北。
- 結局和議の道を選ぼうとするが、彼の居場所は既になく、次に宰相となる史弥遠に首をはねられた。
- 朱子学の祖である朱熹が抑えつけられたのはこの頃。
賈似道[編集 | ソースを編集]
- 南宋の理宗・度宗に仕えた宰相。
- 公平に見てすごく有能でまじめな宰相だったのに、なぜか佞臣扱いされている。
- モンゴル相手に譲歩を重ねたのが主要因。南宋の頃から、外交交渉で柔軟な対応を見せた政治家への評価が、中国ではものすごく辛くなる。
- 今の中共でも同じ。中国と交渉する人はそこを理解しないといけない。
- 首都がモンゴルに包囲された際にその事実を度宗に対して隠していたことも悪人とされる要因の一つだが、仮に伝えられていたとすれば、反モンゴル派がますます暴走して南宋の滅亡はさらに早まっていたかもしれない。
- 科挙を受けておらず、外戚出身だったのもヤッカミと蔑視の的となっているらしい。
- 科挙出身者特有の、理念ばかり先走りする欠点が無く、きわめて現実的な政治家であったのは、今の眼から見ればむしろプラス点。
- 私腹を肥やしたという非難もあるが、この点に関して賈似道を非難できる資格のある中国の政治家がどのくらい居ることやら。
- モンゴル相手に譲歩を重ねたのが主要因。南宋の頃から、外交交渉で柔軟な対応を見せた政治家への評価が、中国ではものすごく辛くなる。
- すでに屋台骨がガタガタになっていた南宋を30年間も支え続けた功績は認めるべきだろう。
- むしろ「忠臣」文天祥が暴走して反モンゴルの軍事行動を起こしたために、モンゴルを怒らせ、賈似道の努力もむなしく南宋が亡ぼされたと見るのが妥当。
- 外交ばかりでなく、内治にもそこそこ業績を上げている。モンゴルが後継者争いでもめている間に、急いで南宋の体制を建て直そうとし、公田法などを実施して財政再建を目指した。
明清の宰相・軍師[編集 | ソースを編集]
張居正[編集 | ソースを編集]
- 明の万暦帝に仕えた宰相。
- ほとんど朝廷に姿を現さない万暦帝に代わって国家運営にあたり、行政改革・治水・国防・財政再建など多くの分野で業績を上げる。
- むしろ万暦帝が出てこなかったのが良かった。中国史上、彼ほどのびのびと手腕をふるうことのできた宰相は居ないと言って良いほど。
- もちろん清廉なだけの政治家ではなく、当時の慣習に従って袖の下も大いに受けとったから、在任中に巨億の富を築いた。
- と言っても、「適正な水準」を超えてワイロを取ったということはない。適正にやっていても巨億の富を築けるくらい大きな権限を持っていたということ。
- ある意味では明の最盛期をもたらした人であったと言える。
- 功績も大きかったが、恨む者も多く、張居正が死ぬと遺族は悲惨なことになった。
- 張居正が国庫収入を横領していたと佞臣たちが讒言。暗愚な万暦帝はそれを信じ、当の中傷者たちに調査を命じた。佞臣たちは調査のためと称して張居世の屋敷を完全に封印し、誰も出入りできなくした。中にいた遺族や使用人たちは哀れにも全員餓死してしまったそうな。
- そして、佞臣たちが好き勝手やり始めたため、明王朝も悲惨なことになった。
- 張居正が生きていれば、後年の豊臣秀吉の出兵に際してももう少し手際の良い対応ができたかもしれない。
ドルゴン[編集 | ソースを編集]
- 清の太祖ヌルハチの息子。太宗ホンタイジの弟。
- ヌルハチが後継者として嘱目していたが、幼すぎて後を継げなかった……という噂がある。本当かどうかは微妙。
- ホンタイジの死後、その子フリン(順治帝)の摂政として清の実権を握る。
- フリンには成人した兄が居たが、帝位継承を辞退した。ドルゴンを怖れたからだという説が根強い。
- ホンタイジの皇后、つまりフリンの母親と再婚したので、フリンの義父でもある。
- 兄嫁と結婚するのは、塞外民族では普通におこなわれていたが、中国的には実の姉妹と××するのと同じくらいの不倫行為。儒教を学んだ順治帝はこれを深く恥じ、記録から抹消するように史官に命じたとか。
- 周の周公旦にちょっと立場が似ているような気がする。周公旦は成王が成人すると政権を返上したが、ドルゴンは自分が死ぬまで権力を握り続けた。
- もっとも、逆に周公旦も実は死ぬまで権力を手放さなかったのかもしれない。
- 李自成の軍を蹴散らして北京入りし、清を中華帝国に仕上げたのは、実際にはドルゴン。当時順治帝はまだ幼くて、飾り物の皇帝に過ぎなかった。
- 漢民族に弁髪を強要し、全国に「髪を残さざる者は頭を残さざれ」と物騒な命令を出したと言われるが、後世の中傷であるかも。王朝を作りたての異民族政権が、早々にそんな強圧的な態度に出られたとは考えづらいので。
- あとあと弁髪は中国人の印となり、革命に反対する立場を表すため弁髪を切るのを拒否したりする人が出てくる。
- 漢民族に弁髪を強要し、全国に「髪を残さざる者は頭を残さざれ」と物騒な命令を出したと言われるが、後世の中傷であるかも。王朝を作りたての異民族政権が、早々にそんな強圧的な態度に出られたとは考えづらいので。