岐阜の城
岐阜/飛騨[編集 | ソースを編集]
神岡城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:飛騨市(神岡町)
- 河岸段丘(でいいのかな?)の崖の上に建つ。
- 天守閣から街を眺めるのも良し、川から天守閣を見上げるのも良し。
- 天守閣があるが、昭和時代に無理矢理造ったもの。戦国時代にはなかった。
- 敷地内には鉱石の博物館がある。流石は鉱山の街、神岡。
- さらに民家を移築した民俗資料館がある。共通入館券でどうぞ。
- スーパーカミオカンデについては資料館はない。ちょっと離れた道の駅へどうぞ。
- 歴史を感じたいならこちらの城より近くの江馬氏の館跡に行くのが吉。
高山城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:高山市
- 江戸時代は陣屋だったので天守閣とかはない。
- 高山城は山の中で、陣屋は結構・・・街中じゃなかったっけ?
- あー ごめん、混同してた。
- 高山城は山の中で、陣屋は結構・・・街中じゃなかったっけ?
- 金森長近さんの像が建つ。
- 城跡そのものよりも、城下街の方が見所。昔の商家なんかが残っていて見学出来るし。
- 平山城。
- なのだが、城跡はまだ小高い丘の中腹付近にあって、防御性という点では今ひとつな感があることは否めない。
帰雲城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:白川村
- 「かえりくも城」と読む。
- 地震で帰雲山が崩落し、城下街もろとも埋もれてしまった、らしい。
- 城主は内ヶ島氏。一族郎党もろともに城を枕に(?)埋もれてしまった。
- 現在は「帰雲城」の碑が国道156号から少し入ったところに建っているが、崩落土砂の堆積状況から城下街ごと埋もれたのならこのあたりだろうという推測だそうだ。
- この城跡推定地からは帰雲山の崖崩れ跡が見える。結構でっかく崩れている。
- 正直徳川埋蔵金よりよっぽど埋蔵金の可能性は高い。
岐阜/東濃[編集 | ソースを編集]
岩村城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:恵那市岩村
- 岩村城は日本三大山城の1つ、その中で標高は最も高い717m。
- 歴史資料館は560mくらいなので、150m強ほど登る計算になる。ちなみに最寄りの岩村駅は標高約500m。
- 麓には歴史資料館。そっから結構登る。なお、その近くに門とかがある以外、上の方は建物はない。石垣があるから充分だが。
- 坂が急な上に、中途半端に段差があるため非常に登りづらい。
- いっそ全部階段にしてくれたほうがまだ登りやすいのだが、城が防衛施設だと考えるとわざとだろう。
- 資料館前にある佐藤一斎翁座像の銘板は、小泉元総理が揮毫している。
- 本丸近くの石垣は6段になっている。はじめは上の方だけが石垣で下の方は土だったらしいが、崩落防止のため足下を固めるため石垣して補強、を繰り返してこうなったとか。
- 本丸には100円いれると音声で解説してくれる機械がある。ちょっと離れたところから急に演歌っぽい音楽が流れて驚く。そこにスピーカーがあるんかい。
- 迂回路通れば本丸近くまで車で行ける。が、まぁ健康な人は登ってみた方が値打ちがあるよ。
- 女城主がいた。
- 織田信長の叔母。遠山氏の未亡人だったが息子が幼いため遠山氏の当主的立場に。
- 武田氏が攻めてきたが岩村城は堅牢で武田氏も攻めあぐねる。攻め手の秋山氏は遠山氏未亡人を嫁とする条件で和睦。
- この裏切り行為に怒った信長は岩村城を取り返した後、この叔母を逆さ張りつけの刑に処す。
- 敵が攻めてきたときに、秘蔵していた蛇骨を井戸に投げ込んだら突如霧が発生、敵が霧に慌てふためいたところを襲って撃退したとかいう伝説がある。ので別名は霧ヶ城だって。
- 蛇の骨なんて井戸に投げ込んでバチあたりだって?雨乞いの時に井戸や滝壺に不浄の物を投げ込んで龍神さんなんかを怒らせて雨を降らせたりするのは全国結構あるようで。
- この井戸が結構山の上の方残っている。この井戸だったか他の井戸だったか、今でも水を湛えているのもある。まぁ井戸があるから堅牢な山城として成立したんだろうね。
- なお、その井戸の水は岐阜の水50選に選ばれているが、「生水で飲まないで」との注意書きが…
- 城下街も良い感じ。民家の見た目も、中も。
- 軒下にツバメの巣が幾つもあり、和ませてくれる。
苗木城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:中津川市
- 木曽川の崖にそそり立つ。
- 赤壁城の別名を持つ
- 壁を白く塗るたびに川から竜が出てきて壁に土を吹いて赤くしちゃうからそのままにしたって話があるが、貧乏すぎて白く塗れなかったんじゃ?
- 1万4000石弱しかない貧乏な藩だったから漆喰を用意する金が無かったというのが真相らしい
- 壁を白く塗るたびに川から竜が出てきて壁に土を吹いて赤くしちゃうからそのままにしたって話があるが、貧乏すぎて白く塗れなかったんじゃ?
岐阜/中濃[編集 | ソースを編集]
郡上八幡城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:郡上市(郡上八幡)
- 山の上に建ち街を見下ろす。
- 天守閣近くの駐車場への道はとんでもなく曲がりくねった一方通行の山道。
- 一説には山内一豊の妻が生まれたのはこの町だとかで、夫婦絵を描いたの写真撮影用顔ハメ板がある。
- 掛川城にもある。考えることはどこも変わらないよいうだ。
- 町中に出身地であることを書かれたフラッグにうんざりする。
- 城から見ると亀の形をした体育館が目立つ。
- あのいかにもハコモノな雰囲気、街の雰囲気にもの凄く場違いだと思う。
- ここも城下街が良い感じ。水路沿いの遊歩道などの散策をどうぞ。
- 水路の辺りへ行くなら宗祇水を見に行くのもアリ。少し距離があるが。
- 年末年始は天守閣には入れないが町を見下ろすことはできる。
- 天守は木造で再建されたものとしては現存最古だが窓が大きすぎる気がしてならない。
- 城の敷地には白虎隊の顕彰碑もある。
- 郡上藩士が会津若松で共に戦った縁があるらしい。
- かつての改修工事(時代不明)の際に「およし」という娘が人柱になったという伝承がある。
- およしをモチーフにした萌えキャラもいる。
岐阜城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:岐阜市
- 標高差300mの山城。なのでロープウェイがある。
- 難攻不落の城、に思えるのだが、落城2回。
- 城主が軒並み非業の死を遂げる不幸な城とされる。
- 土岐頼芸:美濃国の守護だったが、1541年、斎藤道三に下克上されて追放される。
- 斎藤道三:1556年、息子の義龍に謀反されて死亡。
- 斎藤義龍:1561年、急死。享年35。
- 斎藤龍興:1567年、信長に家臣を調略された上で攻め落とされる。その後伊勢長島などを流浪するも1573年戦死。
- 織田信長:1582年、天下統一を目前にして明智光秀の謀反により本能寺の変で横死。(そのときは岐阜城を嫡男・信忠に譲り安土城に移ってますが。)
- 織田信忠:同上。享年26才。
- 織田信孝:1583年、柴田勝家と組んで、織田家の家臣だったのに天下を横取りする豊臣秀吉と対立するも負けて切腹。享年26才。
- 池田元助:1584年、小牧長久手で戦死。
- 豊臣秀勝:1591年に城主になって、1592年に死亡。
- 織田秀信:1600年関ヶ原の合戦で西軍につくが、福島正則ら東軍に攻められ落城。高野山へ配流され1605年死亡。享年26才。
- どこまで事実か知らんが、斎藤道三が戦死するときに、「今後、稲葉山の城に住むものを呪ってやる」とか何とかいったそうな。つまりそのせいなんだと。
- いや、伊奈波神社の祟りらしい。伊奈波神社の奥宮がこの山にあったんだが、信長が悉くぶっ壊したため、呪いがかかるようになったとか。
- 岐阜市近辺ではよく目立ち、シンボル、ランドマーク的役割を果たす。
- 東海道線の車内からも見える。
- 昔は稲葉山城といった。岐阜城と命名したのは織田信長。
- 麓にギフチョウの博物館もある。
- 後に加納城を作るときに、ここの資材を活用したらしい。
- 天守が加納城の御三階櫓として利用されていたとか。他にもそんな例はあったらしい。
- 山の上に撮影スポットは一箇所しかない。
- その一箇所、ロープウェイや馬の背道、百曲登山道などから城へ行くルート上にあるのだが、何故か大半の人が素通りしていく。
加納城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:岐阜市
- 関ヶ原の合戦後に岐阜城を廃城にしてこっちを建てた。
- 岐阜城の目と鼻の先、ほんの4、5kmのところにある。岐阜城からならこっちの方が近い。
- 岐阜の市街地のど真ん中に一応土塁、石垣が残る。堀はさすがにない。
- 土塁の中は公園。
- 土塁部分は崩壊防止のため登らないでください、となって縄が張ってあったりするが、近所の子供が登って遊んでいる。縄のないとこからまわっていくと、内側に入れたりする。
- 夕方17時や19時に閉門される。季節によって時間は違う。
- 中山道に面していた。
- そんな交通の要所のためか、江戸時代を通して親藩大名ばっかり。
川手城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:岐阜市
- 今じゃ跡形もない。
- 済美高の近くに、記念碑とちょっとした公園として残るのみ。
- 正確な場所としては、もう少し東南に当たるらしい。かといって岐南駅までは行かないそうな。
- 加納城を作るときに、土塁の土塊一つにいたるまで全て持って行かれたせいらしい。
- 済美高の近くに、記念碑とちょっとした公園として残るのみ。
- 土岐氏の本拠。
- 最盛期には、お公家さんや、足利義視などが土岐氏を頼って来るほどだったらしい。
船田城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:岐阜市
- 今じゃ跡形もない。
- 旧の加納城の南、川手城の川向かいの場所だったらしい。
- 船田合戦と言われてもピンとこない。
- 上記川手城の支城扱いだったときもあったらしい。
明智城(長山城)[編集 | ソースを編集]
- 所在地:可児市
- 明智一族が初代から光秀の頃まで居城とした山城。
- 光秀の出生地には諸説ある(ここも有力な候補)が、斎藤義龍に攻められて落城の時にここにいたのはどうも確からしい。
- 恵那市明智町にも明知城があるため、区別のため長山城、明智長山城と呼ばれることもある。
- 建物こそさすがに残っていないが、幾つもの曲輪のあった所や登城用の道などがわかりやすい形で残り、中世山城の姿が想像できて興味深い。
- 本丸跡の近くでは逆茂木や馬防柵が再現されてたりする。
- 城跡の北隣に明智一族の墓所がある天龍寺がある。
- 市が天龍寺含め「明智城址公園」としていったん整備したようなのだが…
- 2018年10月に訪れたときは、人影は皆無、案内板の一部は雑草に覆われかけ、搦手道は土砂崩れで通行止めにされたまま、と長期間管理されていないようだった。
- 2020年現在、市の観光パンフから見た限りではその後さすがに整備はされたようだ。
- 2018年10月に訪れたときは、人影は皆無、案内板の一部は雑草に覆われかけ、搦手道は土砂崩れで通行止めにされたまま、と長期間管理されていないようだった。
- 市最大の観光名所「花フェスタ記念公園」から近い(歩いても10~20分くらい)。公園に駐車して両方観光するのもありかも。
岐阜/西濃[編集 | ソースを編集]
大垣城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:大垣市
- 関ヶ原の合戦前に西軍が陣取っていたところ。
- なので、天守閣のの展示もそれメイン。
- 戸田氏鉄さんの銅像がある。えっと、失礼ながらどなたさんですか?(初代藩主らしいけど)
- 戦前まで天守閣が残っていたが日本100名城には入っていない。
- 復元天守はこじんまりとしていて可愛らしささえ感じる。
- 1945年7月の大垣空襲で天守も櫓もみんな焼かれてしまった。その後復元した天守は、史実のサイズ等々は一切無視している。
- 艮隅櫓と乾隅櫓も復元されている。こちらも戦時中の焼けてしまったものを鉄筋コンクリートで復元した形。
- 1945年7月の大垣空襲で天守も櫓もみんな焼かれてしまった。その後復元した天守は、史実のサイズ等々は一切無視している。
- 大垣駅から南へアーケードを歩いて行くこと7分位。
- メインストリートから普通の住宅街の道路みたいなのを30m程右へ入ったところにいきなり城門が見える。
- 一応、「城跡はこっち」的な案内板もあるけど、適宜注意しながら行かないと通り過ぎてしまう。
- メインストリートから普通の住宅街の道路みたいなのを30m程右へ入ったところにいきなり城門が見える。
- 復元天守ギリギリまで木が生い茂っていたり、割と近くまで住宅が密集している関係で、天守の写真を撮りにくい。
墨俣城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:大垣市
- 羽柴(豊臣)秀吉の一夜城として有名。
- 岐阜城を攻めるための城のはずだが、結構距離がある。直線距離で11kmほど。
- 急造の城なので、天守閣だの防衛の施設はそんなになかったはず。なのに現代では天守閣がある。
- ふるさと創生1億円で造ったとか。で、なかったはずの物を造って当時の墨俣町長が責められたらしい。
- そもそも墨俣一夜城自体史実か怪しい。秀吉が美濃攻略で一気に出世したのはほぼ確実だが、どう活躍したかは史料がなくて現代でもよくわかっていない。そこで『甫庵太閤記』の「新城の城主になった」という記述を膨らませて、『絵本太閤記』の作者が出世の理由を分かりやすく説明するために創作したのが墨俣一夜城の逸話だろう。
- 台風で旧足守藩木下家の蔵が被災して、そこから出てきた古文書の記述から、墨俣一夜城については史実認定されたんじゃなかったっけ?
- その文書は「地形が当時と違う」「後世の言葉が使われている」などとして偽書ではないかと言われている。