岡山の城

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岡山城[編集 | ソースを編集]

後楽園のおまけじゃないよ!
  1. 後楽園から見える、漆黒のお城。
    • ってかくと後楽園の付属物・借景みたいだが、こっちが本体で後楽園が付属物なんだから。
    • でも、歴史的価値で見るとどう考えても、こっちがオマケ…… 天守閣にエレベーターは……
    • その色から「烏城(うじょう)」とも称される。
  2. 元々は宇喜多さんのお城。暗殺しまくりの直家さんと、八丈島に流された後も長寿だったお坊ちゃん秀家。
    • 後楽園を造った池田家とどっちが有名なんだろか。
      • どっちが有名どころか、岡山城も後楽園もまとめて池田氏が造ったと思われてるフシがある。(と勘違いしてたのはオレだけか?)
  3. 新幹線からでもかろうじて天守閣が視認できる。
  4. 天守閣の中に食事処がある。

津山城[編集 | ソースを編集]

入り組んだ縄張りの上の方
  1. 平山城で石垣が残る。縄張りは江戸時代初期の爛熟期のもの。結構入り組んでいる。
    • 動線にUターン多用。
      • 本丸御殿に入るのに、城門の上階が玄関・廊下になっている特異な構造だった。
    • 石垣の高さや道幅が必要以上に大きく、総じて20万弱の石高にしては豪華すぎ。
      • 階段の敷石も大きい。小さいものもあるが、これは後世に登りやすくするために追加されたもので、当初は階段というよりもただの段差だった。
  2. 建物は上部に櫓がある。
    • 城自体は19時頃まで入れたり、良心的だが、櫓に入れるのは16時半だか17時まで。時間差があるので建物も見たい人は要注意。
  3. 城下街も結構 残っていて良い感じ。
  4. 平成になるまでは、石垣しかなかったイメージ。
    • なんせ、エレベータがある城ですから。

鬼ノ城[編集 | ソースを編集]

古代の山城の風格(を復元)
  1. 桃太郎が攻め入ったという説がある。
    • 鉄道が走っている気配はない。
  2. 吉備王朝の拠点だったという噂だ。
    • それを天智天皇の御代に新羅対策で高句麗・百済式の築城要素を取り入れて魔改造した。
      • こういった事から重要な城であったことは容易に想像がつくが、日本書紀には出てこない。
  3. おそらく日本で最初に武者走りを取り付けた城だったと言われている。
  4. いったいいつの時代にあった城なんだろう?伝説はたくさんあっても正確なところはよくわかってないらしいが…
    • 一説では、廃城になった後、300年くらいしてから、例の魔改造をやったという話。
  5. 初め頃は温羅(うら)という人が住んでいたらしい。上記鬼退治伝説の鬼にあたる人。
    • 朝鮮半島からの渡来人かも。なお、桃太郎にあたるのは吉備津彦さん。
  6. 西門が復元されていてよく目立つ。
    • その周りの層状に締め固めた土の部分も復元されている。
      • そこそこな規模で復元されているので、総社平野からも視認できる。例えば下の備中高松城からでもわかる。
    • 南門、東門、北門は石垣部分と柱の下の方だけの復元などです。
  7. 広い。案内板でのコースタイムでは東西南北の門を一周廻ると1時間半。
    • 足腰の丈夫でない方やお急ぎの方は駐車場から歩いて行って西門とそのそばの角楼(櫓)だけでもよろしいかと。
  8. 山の山頂付近をごっそり城にしている。
    • “すり鉢をひっくり返したような”山容の傾斜の緩やかな部分をごっそり城に。そのヘリの石垣の下は急勾配。
  9. 城の範囲のあちこちに湿地やら川やらがある。壁のところには水門があり、石垣の隙間から水を逃がしている。
    • 歩いていると「第一水門」とかの看板はあるが、どこが水門なんだかわからんかった。おそらくその下の方やったんね。
  10. 周りの山を見渡しても石がむき出しになっているところが多い。石垣の石も簡単に調達できたんだろう。
    • 上記のてっぺん平らな山容といい、水の手の確保といい、石があることといい、山城を造る条件整いすぎ。

備中高松城[編集 | ソースを編集]

兵どもが夢の跡
  • 所在地:岡山市/北区
  1. のダム建設で有名。
    • いわゆるサルの水攻めでトドメをさされ、その十数年後には廃城になってしまった。
    • そしてその水攻め中に本能寺の変が起こり、サルこと秀吉の中国大返しを始める舞台となる。
    • 城の説明では城兵の命を救うため、切腹した毛利方の城主・清水宗治さんも褒め称えられている。
  2. 現在の地域区分で、ここが何市になるのかが分かりにくい。倉敷?総社?
    • 高松市ということは無さそう。
    • 岡山市北区が正解。
  3. 花房職秀という武勇に長け仁義に厚き忠信の情を持つとサルに言わしめた男が、最後の城主である。
    • 宇喜多秀家の家臣だったが秀家の為を思って進言したのが仇となって殺されそうになるもサルの助命命令で、助かったために宇喜多氏が流された後に旗本として居城とすることができた。
    • しかも、この花房、自分を殺そうとした宇喜多秀家宛で八丈島へ、毎年、米を送っていた。
  4. 四国の高松城ではありません。間違えないでください。
    • ちなみに近くにはJRの備中高松駅もあります。
    • 高松城も高松駅の真ん前に有る。こんなトコまで似んでも良いのに。
  5. え、ただの公園やん。どこが城跡なん?って感じのところ。
    • 公園の範囲はそこそこ広い。浅い池が広がっていたり、なるほど湿地帯だったんだな、という感じはする。
  6. この城を水攻めにした堤防はほとんど残ってない。1kmばかり南に堤の跡があるが、2、3m程度の盛り土がちょっとあるくらい。周りの土地も土が溜まって相対的に低くなったっぽい。
    • なお盛り土の大部分は明治期に鉄道を造るために削っちゃったとさ。

備中松山城[編集 | ソースを編集]

雨にけむる山城の石垣
  1. 四国の松山城ではありません。間違えないで(ry
    • 備中松山城というのは愛称。本当は松山城というのが正式名称だったりするらしい。
  2. 麓から山頂の天守まで歩くのは、まるでハイキング、ちょっとした登山である。
    • 江戸時代の城主も「あんな山の上から何かあるたびに麓の城下町まで下りたり登ったりしてられねーぜw」ってなことで、城下町に屋敷を作って住んでたんだとか。
      • 今の高校のところ。
    • 上の駐車場から半分くらいまではあんまり史跡っぽいものがなくめげる。が、最後の方の石垣等は立派。
  3. 山の上にあったためか明治以降は放置状態で荒れ果て、野生の猿の棲み家になってたらしい。
    現存する天守
    • さすがに昭和初期に天守が修復され、その後平成になって本丸御門など大規模に復元された。
    • 修復に貢献したのは、地元の社会科の先生。地元にこんな文化財があるのに…… ということで調査をし修復の道筋を作ったとか。
    • 山上にあったせいで、ろくに払い下げ等もなされず、ただただ朽ち果てていくという感じだったそうな。
      • 書物によると、一応、新政府が7円(令和元年ころの貨幣価値に換算すると5万円くらい。)で払い下げたとか。でも資材を運ぶこともままならずそのまんまという感じだったとか。なんで払い下げを受けたんじゃろ。
  4. 実は、石垣がどれか一個抜けると一気に崩壊するらしい。
    • なので、地すべり対策と同様の工事を何回もしているらしい。
    • 地盤の動きの計測もハイテク機器を用いて行われている。
  5. 天守閣だけではなく二重櫓も残っている。
    二重櫓
    • 二重櫓は天守閣の北側にあり、下から登ってきた人はこの存在に気付かないこともある。
      • まあ天守閣と違って中に入れるわけやないし、熊本城宇土櫓みたいに天守が復元の鉄筋コンクリートで櫓が現存物とかいうわけでもないから、それほど問題はないけど。
    • 天守閣とこの二重櫓、そして土塀が重要文化財指定。(戦前は当時の国宝に指定されていた。)
  6. 今(令和元年)の城主は猫。
    • さんじゅーろーとかいう名前がある猫で、一応、Facebook、Twitter、Instagramをやっているらしい。
  7. 天守閣があることばかりがクローズアップされるが、麓の石火矢町の街並みなど、城下町もなかなか味がある。
    城下の石火矢町
    • 石火矢町の辺りは、県の事業で街並みが再整備されている。城下町の良い雰囲気を手っ取り早く味わえる良い所。
    • できれば、下の街を楽しんでから歩いて上がってほしい。もちろん足腰が健康な方についてだけではあるが。
  8. 幕末は譜代大名の板倉氏の城として迎える。
    • 譜代大名の城ということもあり、徳川憎しという憎悪の念だけで維新を起こした長州藩は、板倉氏を逆賊朝敵として取り扱う。
      • しかし、備中松山藩お抱えの陽明学者であった山田方谷の発案でここが無血開城したため、無傷で残る。
  9. 実は幕藩体制下での実質的な初代城主は小堀遠州。最も、高梁藩初代藩主としてではなく、関ケ原合戦で毛利家領でなくなった当地を治めるための城番としてやってきたに過ぎないが……
    • あまり知られていないが、城下町高梁には小堀遠州が造った庭園もある。頼久寺にある頼久寺庭園というのがそれ。

下津井城[編集 | ソースを編集]

  1. 下津井瀬戸を見下ろす崖の上に立つ城だった。
    • 現在でも、石垣が残っているが、それ以外は何もない。
    • 多分、沿岸警備などの点でも大事だったんだろうな。向かいの櫃石島は、もう、讃岐だし、嘗ては六口島もそうだったので。
      • それに、この辺は、帰属争いをバンバンやってたみたいだし。
  2. 藤戸の辺りのお寺に、門だけ移築したらしい。
    • 今も残ってるんだとよ。

庭瀬城・撫川城[編集 | ソースを編集]

  1. 別々の城として扱われているが、元々は2つで1つの城だった。
    • 別々の城になったのは、それぞれ城主が違ったから。城の縄張りだったところのど真ん中に水濠があって、そこが領地境になっていたらしい。
      • 庭瀬城は庭瀬藩3万石戸川家の城が無嗣改易になった影響で陣屋となった。後に板倉家が2万石の小大名としてやってきて、陣屋は再び城になった。
      • 撫川城はこの戸川家が無嗣改易となった際に、分家筋が元々戸川家の領地だったところから5,000石だけ残して貰う形で旗本に取り立てられて陣屋を置いたことで分離。
  2. 足守川の水を引いて上手いこと水濠を掘り、水郷地帯っぽい感じの城下町を作っている。
    • 庭瀬の街は城下町兼宿場町兼川船の港町という面白い街。
  3. 元々沼地の吉備地区なので、多分石垣を配したり地盤固めたりするのは大変やったやろなあって感じ。
    • ちなみにここを城として整備したのは高松の水攻めでやられた清水宗治さんらしい。宇喜多家対策で整備したらしいが、高松といい庭瀬といいこういう地形のところでよく頑張ったよなあって感じ。