幕末士伝
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新撰組[編集 | ソースを編集]
- 色々と治安が悪くなった幕末京都を警備する為、浪士や一般市民を中心に結成された武装警察。直接の上司は会津若松藩で、幕府の正規組織ではない。
- (幕臣士族を中心に結成された)同様の役割を持つ、幕府正規組織は「見廻組」と呼ばれた。
- 京都の北半分を見廻組、南半分を新撰組がそれぞれ担当していた。
- (幕臣士族を中心に結成された)同様の役割を持つ、幕府正規組織は「見廻組」と呼ばれた。
- 「新撰組」「新選組」どちらの表記でもOKらしい。実際に近藤勇や土方歳三の書簡でも両方の表記が使われている。ゆと(r
- 局長の近藤勇、副長の土方歳三、一番隊長の沖田総司、二番隊長の永倉新八、三番隊長の斎藤一、等が有名。
- 隊の規則が厳しい事で有名で、戦闘での死者より内部粛清の死者が多かった程。
- 有名な「浅葱色(水色)の山型(ダンダラ)羽織」が隊服として使われていたのは池田屋の変あたりまでで、それ以後は目立たない黒の羽織が主として使われたようだ。
- 滅びの美学的な彼らの荒々しくも鮮やかな生き様が日本人の琴線に触れるのか、現代でもファンが多く、創作物のテーマとしても良く使われる。また女性ファンが多いのも特徴。
- 現代では大人気の新撰組だが、当時は荒くれ者として嫌われていたらしい。
- 特に京都では女性人気がよろしくなかったそうだ。
伊東甲子太郎[編集 | ソースを編集]
- 新撰組の参謀。結成時からのメンバーではなく、藤堂平助の紹介で入隊した中途組。
- もともと倒幕側の人間で、新撰組を倒幕の組織にする狙いもあったというが、上手く行かず離反する。
- 同時代の人物の証言によると美形でコミュ力抜群。なので同じ美形でコミュ症の土方が嫉妬したという話も。
- 坂本龍馬暗殺事件直前に彼の所を訪問し身辺に注意するよう伝えた。なんとなく怪しい。
- 新撰組脱退後、彼と彼のシンパが薩長に通じているという理由で新撰組に闇討ちされた。
沖田総司[編集 | ソースを編集]
- 血反吐を吐きながら敵を斬りまくるイメージがつきすぎてしまったが、結核だったのは本当だが、実は剣はさほど強くなかったとか。
- 「沖田なんて大したことなかった」といってるのは微妙な連中が多く、逆に腕の立つ人間は「新撰組で三本指に入る」という評価がほとんど。道場剣法としてどうだったかは分からないが、実戦で絶対に当たりたくない相手だったのは間違いないだろう。
- 超絶イケメンのイメージがつきすぎてしまったが、実はさほどでもなかったとか。
- ヒラメ顔。
- というのは根拠に乏しい。流布する沖田総司像も想像図。身体的特徴について親族に伝わる話では小柄だった、という物しかない。
- とはいえ土方や伊東などと違いイケメンだったという話も伝わっていない。極端な美形かブサイクなら印象として語られるはずなので、要するにフツメンだったんだろう。
- というのは根拠に乏しい。流布する沖田総司像も想像図。身体的特徴について親族に伝わる話では小柄だった、という物しかない。
- 背も小柄説大男説色々ありすぎて訳がわからない。
- 親族で沖田に一番似ていたといわれた人が上品な男前だった、という話も伝わっているので「色白・小柄・華奢・上品な男前」という説だけ抽出すれば現代風の超絶イケメンであった可能性も無いとはいえなくなってくる。
- イメージって大事。
- ヒラメ顔。
- 朝誰よりも早く起きて掃除するのが趣味だったから、名前を「おきたそうじ」にしたとか。ホンマかいな。
- 命日が「ごみぜろの日」
- 子供と遊ぶことや、冗談が好きで、よく笑う快活な性格だったと伝わるが、道場の稽古は乱暴すぎて皆一目散に逃げた。
- 一人称も「僕」「私」とされるが多いが実際の一人称は「俺」だった。
近藤勇[編集 | ソースを編集]
- 拳を口の中に入れることが出来たのは有名。
- 加藤清正も拳を口の中に入れられたので、同じように名をはせたいと思っていたらしい。
- 道場破りの際にはいつも助っ人を呼んでいた。
- どうも竹刀の扱いが苦手だったらしい。
- 実は新撰組でも有数のチキン野郎だったという噂がある。それが逆に、血の気の荒い土方とで新撰組を率いることのできた理由だったとか……
- でも池田屋事件では少数で乗り込んでるので、やるときはやる男なのかも。
- 愛刀は虎徹…のニセモノ。でも池田屋事件で刃こぼれ一つしなかったというすごいニセモノである。
斎藤一[編集 | ソースを編集]
- 三番隊隊長。沖田総司と並んで新撰組最強と言われる一人。
- 最強で並び称すなら永倉新八も入れないと。
- 伊東甲子太郎が離反した際には、伊東側にスパイとして潜入していたという。
- 晩年、木の枝に吊るした空き缶を竹刀でぶち抜いたという逸話もある。
- とにかく名前がいろいろと変わった。
- 間違いなくあの漫画で知名度が上がった。
- 維新後は警察官になってた。
- 最後は女子寮の用務員さんになっている。
芹沢鴨[編集 | ソースを編集]
- 新撰組初代筆頭局長。近藤勇の上位者であった。
- むちゃくちゃ乱暴ばかりしていたイメージがあるが、のちの近藤たちによる印象操作や、子母沢寛の小説による創作の面が強く、実際はけっこう礼儀正しい紳士であったとか。
- 「鴨」という名前は自分でつけたのだが、いま考えてもみょーなセンスである。
- 今の時代なら「あいつ誰だっけ?」「芹沢かも?」とネタにされてたであろう。
- 知り合いに「暢」という名の男性がいるが、自己紹介のたびに「鴨ではありません、暢です!」と力説している。
- 右も左も微妙に違うが、小さな活字だと見分けがつきにくい。ちなみに読み方は「イタル、トオル、ノボル、ミツル、ヨウ」など様々だが、「カモ」の読みはない。
- 「ノン」と読むと女性名になるが、暢気な人間に思われるせいか、あまり見かけない。
- 「尽忠報国之士芹沢鴨」という銘を刻んだ鉄扇を愛用していた。
藤堂平助[編集 | ソースを編集]
- 八番隊隊長。出自に諸説あるが、たぶんそこそこの身分ではあったはず。
- 上級武士の通うお玉ヶ池千葉道場で北辰一刀流を習っているため。
永倉新八[編集 | ソースを編集]
- 何故か影が薄い。
- 維新後も生き残った。
- 後世に新撰組の名が残ったのもこの人のおかげ。
- 晩年チンピラ集団に絡まれた際、一喝しただけで追い払ったという伝説で有名。まあ歳が歳だから本当に喧嘩になったらヤバかったのだろうが、「こういうのはカマしたもん勝ち」だそうな。実戦経験者は強い。
- 元祖歴女イチオシの隊員。
土方歳三[編集 | ソースを編集]
- 剣も強く、組織力もあり、頭も良く、なおかつイケメン。新撰組の実質的指導者は彼だったと言われる。
- 日野の薬問屋の出で、少年時代から店員を指揮して製薬の作業をしていた。組織の指導力を培ったのはそのおかげと言う。
- 司馬遼太郎によると、土方の実家は昭和30年くらいまで「お大尽の家」で近所では通じたそうだが、今はさすがに無理だろう。
- 現在でも日野には土方姓の家が結構ある。が、親戚というわけではなく、歳三にあやかってつけた家もあるとか。
- 日野の薬問屋の出で、少年時代から店員を指揮して製薬の作業をしていた。組織の指導力を培ったのはそのおかげと言う。
- やたらと粛正ばかりしていたのは、ちょっとなあ……
- 新撰組瓦解後は、榎本武揚と一緒に北海道へ行き、五稜郭の戦いで戦死。
- 「北海道共和国」が存立していたら、陸軍大臣か何かになっていたかもしれない。
- この時期になって、「剣がいくら強くても、やっぱり銃には勝てんなあ」と述懐。何を今さら……
- 元々刀の時代じゃないことは分かっていたのだが、そうそう最新装備にできるわけでもなく「やっぱりダメだった」と実感したということ。まあ立場が前線司令官クラスなんだからしょうがない。
- 後ろから撃たれたという説もあるようだが、さて・・・・。
- 生存説があり、現在漫画家をやってるという噂も…
平山五郎[編集 | ソースを編集]
- 芹沢派の副長助勤。
- 隻眼だったが、失明している左からの攻撃にめっぽう強かったという。でもなぜか見えるはずの右側には結構隙があったとか。
幕府陸軍[編集 | ソースを編集]
大鳥圭介[編集 | ソースを編集]
- 某お笑い芸人(故人)ではない
小栗忠順[編集 | ソースを編集]
- 財政再建や軍隊の近代化などいろいろと活躍している。
- 司馬遼太郎も絶賛している。
- 一言で言うと、超優秀な経済官僚。
- 一説によると徳川埋蔵金はこの人が隠したらしい。
- 日本に初めて蹄鉄を紹介した人物。
- 生粋の馬好きだった。
- 馬主に同姓の人がいるが、この人の子孫かどうかは知らん。
- オグリキャップの馬主の小栗さんだったら、小栗上野介さんの末裔だよ。
- 馬主に同姓の人がいるが、この人の子孫かどうかは知らん。
- 漫画家の子孫もお忘れなく。
- 生粋の馬好きだった。
- 上野国に領地を持っていたので子孫はこの人を「上州」と呼んでいる。
- 上野介の役職にあったからじゃないのか?
- 因みに所領地では名奉行として知られていて、自分が処刑された後、妻と妻の腹の中に居た忠順の子を匿って守り通してくれたというのは、知る人ぞ知る話しらしい。
- 東郷平八郎は仁義礼智信の5つの特が備わった人だと評価していたらしい。
- 「生きておられたら、勝なんかよりもよほど有用な働きをなさっておられたであろう。」と、忠順の孫と曾孫にあった時に言ったらしい。
- 因みに、勝海舟と小栗忠順は性格も真反対で、敵対していた。
- 現代の両者のファン同士も仲が悪い気がする。
- 因みに、勝海舟と小栗忠順は性格も真反対で、敵対していた。
- 「生きておられたら、勝なんかよりもよほど有用な働きをなさっておられたであろう。」と、忠順の孫と曾孫にあった時に言ったらしい。
- 無類の愛妻家だったらしい。
- 同僚と花見で行った隅田川の堤防を見て、あの堤防をどれくらいかさ上げすれば付近の田畑と農民を守れるかなどを、同僚がどじょうすくいをやる横で屋形船の中から考えていたというくらいマジメな人物だった。
- 悪く言えば、KYの見本。
- 歴史系の掲示板で、この人の話題が出ると荒れることが多い。
- この人が生きていたら、公武合体が実現して史実より幕府側の犠牲を少なく出来たり、史実より更に効率的に近代化が出来る可能性が見えるため、ifの話が白熱してしまうため。
- 公武合体は小栗が生きてるうちに失敗してるよ。というか薩摩の挑発に乗って薩摩藩邸を焼き討ちして大阪の主戦派を後押ししてしまったのが小栗。幕府は史実通り負けてしまうので、「もし生きてたら」になるのは処刑されずに明治政府に登用されていたらの話がほとんど。しかし、幕府の時から協調性の無さで罷免・辞職を繰り返していた小栗が、明治政府でどこまで活躍できるかは(ry
- 最終的に江戸を無血開城としたのは内戦長期化を何より危険視した慶喜(と勝)の意向だが、小栗の主張は相手をおびき寄せての徹底抗戦。戦術的に言えば小栗案は正しいが、勝った後にどうなるという視点がなく、良くも悪くも徳川の忠臣。
- この人が生きていたら、公武合体が実現して史実より幕府側の犠牲を少なく出来たり、史実より更に効率的に近代化が出来る可能性が見えるため、ifの話が白熱してしまうため。
勝海舟[編集 | ソースを編集]
- 襲ってきた刺客を説得し弟子入りさせる程度の能力。
- 弱点:犬。
- 子どもの時に噛まれて大けがをしたため。
- その噛まれた場所がひどい。
- 子どもの時に噛まれて大けがをしたため。
- 維新後の本名「安芳」。
- 本人いわく「アホウ」とも読めるとか。
- 安房守になってたからじゃなかったっけ?
- 側女と本妻を同等に扱い同じ家で暮らしていたらしい。
- 本妻がデキた人だったので、妾との仲は良好だったとか。
- 維新後の身の処し方で、好き嫌いが別れる。
- 旧幕臣と明治政府との橋渡しをするためには、こうした汚れ役の人も必要だろう。
- わりとその場のノリで吹くのも好き嫌いが別れる一因。結果が良ければ少々のデタラメはオッケーというタイプで、福沢諭吉は勝のそういう適当さが大嫌いだった。
- 晩年は談話筆記を何冊も出した。
- 勝の肉声が聞こえてきそうな本。さまざまなことに関する洞察力は感嘆に価する。
- 親父の小吉も知る人ぞ知る幕末の怪人である。
幕府海軍[編集 | ソースを編集]
榎本武揚[編集 | ソースを編集]
- 戊辰戦争で最後まで抵抗したが、優秀さを買われて新政府入りした実務屋。
- さぞ冷静な官僚タイプなのかと思いきや、実態はチャキチャキの江戸っ子。蝦夷共和国なんぞを作ったのも「てやんでい!江戸は将軍様のお膝元だい。薩長の田舎者はけえりやがれ!」という江戸っ子ノリでついカッとなってやったっぽい。
- 新政府入りについて福澤諭吉にネチネチ言われたが、江戸っ子にしてみれば喧嘩が終わったら恨みは忘れるのが当たり前であんまり気にしなかった。
- 生き残った理由は、戦争をする前に黒田清隆にオランダ語の貴重な原書を渡したかららしい。
- 外務大臣もやったが、前後の人と比べて何も出来ずに終わった。
- 拾った隕石で刀を作ったらしい。
- 化学の知識に長けていたほか、実は東京農大の創設者のひとり。
公家[編集 | ソースを編集]
岩倉具視[編集 | ソースを編集]
- 加山雄三の先祖。
- 500円札の肖像画に使われていた。
- 使節団団長として赴いたアメリカで条約改正への望みと髷を一度に失った。
- 岩倉使節団のあの有名な写真は岩倉だけはめられたという説がある。岩倉以外は洋装だし。ちなみに髷はシカゴで落としたらしい。
- 葬儀は維新以降での国葬第1号。
- 一時期岩倉に隠棲していた時はド貧乏だったらしい。
- 娘を近所の百姓の養女にしかけたこともあったとか。
- たまにドラマでバカ殿みたいな扱いをされる。そんなことはありえない。
- 孝明天皇毒殺疑惑あり。
長州藩[編集 | ソースを編集]
伊藤博文[編集 | ソースを編集]
- 初代にして最年少の内閣総理大臣。
- ほかにもいろいろ初代。
- 初代総理大臣の座を争った相手が、家柄的には思いっきり引き離されている三条実美だった。それでも勝てた理由は、三条実美は英語ができなかったため。
- フグ解禁の功労者。
- 少し前のJR西日本のCMでも取り上げられた。
- もみじ饅頭の生みの親ともいわれる。
- 芸者の手を見てもみじのようだ、饅頭にして食いたいとのたもうた事に由来する。それほどまでの芸者好きだった。
- かつて足軽だったので出世後も旧藩の集まりでは末席に座らされたらしい。
- 芸者好きをたびたび風刺のネタにされた。
- 二人三人と同衾するのは当たり前、半玉(デビュー前の芸者)の最初の客になるのが楽しみだったという。
- 「地方で芸者遊びをするときは、土地のNo.1ではなくNo.2やNo.3を指名しろ」という秘訣(?)を残している。
- 掃いて捨てるほど女がいたので、「箒」というあだ名をつけられた無類の女好き。
- 日本で初めてカー×××をしたという伝説がある。
- 和泉式部「うちが1000年前に通過した道やで」
- このことで明治天皇にキレられた。
- この辺はやっぱり百姓上がりなんだな〜という感じ。山縣と違って伊藤は権力欲は薄いけど遊び人。
- 日本で初めてカー×××をしたという伝説がある。
- 長州出身の典型的な藩閥政治家に思われがちだが、意外にも立憲政友会という政党を設立した。
- 伊藤博文含め原敬も高橋是清も犬養毅も何で政友会総裁は暗殺される率高いんだろう。
- 吉田松陰の評価は「才能はもう一つだが素直でよろしい」「仲立ちはうまい」ということで、木戸や久坂のような傑出した人材ではないが政治実務には優れるというもの。
木戸孝允[編集 | ソースを編集]
- 「桂小五郎」の名前のほうが知られているかも。
- 明智小五郎の名前もここから取られたらしい。なので時々両者を結びつけたギャグが生まれる(いしいひさいち「土岐の娘」他)。
- 桂南光の弟子で居た気もする(桂こごろう)が、なんか関係あるのかな?
- 近藤勇を恐怖させたほどの剣の達人だったが、危なくなると剣を打ち合ったりせずに、すぐに変装して身を隠した。
- 「逃げの小五郎」という二つ名もあったそうな。変装の名人って、明智小五郎というより怪人二十面相だね。
- 西南戦争のあいだに病死。いまわの言葉は「西郷も、いい加減にしないか」だったそうな。
- 木戸姓は藩主のそうせい様がくれたらしい。なんでかはよく分かんない。
久坂玄瑞[編集 | ソースを編集]
- 松下村塾一の秀才と言われた。
- 長身で剣術の達人。さらに詩吟の腕もあったため、萩城下はおろか京でも人気者だったらしい。
- 師である吉田松陰との関係は複雑。
- もともとハク付けのために松陰に論争をふっかけたところ煽られ、当時蟄居中だった松陰の元へ単身殴り込みにいったところ、手なずけられて弟子になる。
- 松陰の妹文
を押しつけられたとの縁談を申し込まれた際に「器量がよくない」と断るも、脅されて結婚。- 文との間に子供はできず、京の芸者と懇ろになり子供をもうけた。
- 久坂に限らず、佐幕倒幕双方とも京ではやりたい放題だったわけだが。
- 文との間に子供はできず、京の芸者と懇ろになり子供をもうけた。
- 攘夷の急先鋒。
- イギリス大使館焼くわ、外国船砲撃するわとやりたい放題。
- 両親と兄を一気に失い、なんとか久坂家の家督を継ぐことになったが、その際に収入が増加した。
- 書類作成時に「俵」であった知行高の単位を「石」と誤って記載されたため。
吉田松陰[編集 | ソースを編集]
- 木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、前原一誠など、維新や明治政府に関わる多くの人材を育てた大教育者。
- 大教育者と呼べる人物なのに、なんと29歳の若さで死んでいる。どんだけ優秀だったのかと。
- 松下村塾で教えていたのはわずか4年間。それであれだけの人材を育てたのだからすごすぎる。
- 人を褒めるのが超絶にうまかったらしい。褒められた者はみんな感激して発奮したそうな。
- 九歳で兵学師範、十一歳で敬親への御前講義を行って絶賛されるという意味の分からなさ。アヘン戦争の顛末を見て西洋の兵学を学んだのは二十歳頃から。
- 黒船で密航しようとしていたらしい。もし成功してたらどうなっていたことやら。
- 漕ぎ着けるために使った小舟の櫓を固定するために帯もフンドシも使ってしまっており、黒船に着いた時、前ははだけてフルチン状態だったとか。そりゃ拒否されるわ。
- 昭和になって、彼の業績を讃える歌がこの人によって作られた。
- 孫子の兵法を研究していて注釈書も書いている。上述の黒船密航も「敵を知り己を知る」という孫子に基づいた行動だったのかも。
吉田稔麿[編集 | ソースを編集]
- 松下村塾でも有数の秀才と言われた一人。
- 池田屋事件で死去。
土佐藩[編集 | ソースを編集]
板垣退助[編集 | ソースを編集]
- 相撲が「国技」になれたのはこの人のおかげ。
- 「国技館」はこの人の命名。
- 板垣死すとも自由は死せず!
- 暗殺されかけた後に大臣になった際には「自由は死んだのに板垣は生きている」などと風刺されたらしい。
- これホントは言っていなかったという説がある。
- 新聞が書いたフレーズだって?
- 実際は「い、痛えよ、医者呼んでくれよ」(大意)だったらしい。
- その時診察した医者は後藤新平である。
- 実は国会議員だったことがない。
- 伯爵位を持っていたために衆議院の被選挙権がなく、貴族院に選ばれた際も固辞している。
- 100円札の肖像画に使われていた人。
- イタダキタイスケではない。
岡田以蔵[編集 | ソースを編集]
- 幕末三大「人斬り」のひとり。もっともそんなにむちゃくちゃ斬りまくっていたわけではない。
- 井上佐一郎や猿の文吉を暗殺したときは絞め殺している。
- 勝海舟の用心棒をしていたこともあった。
- その時にひとりふたり斬ったのは、勝の回想があるから確か。
- 勝が殺人をとがめると、「私が斬らなきゃ、先生は今頃まっぷたつでしたよ」と返答。これには勝も一言も無かったらしい。
- ちなみに勝自身も年がら年中喧嘩ばっかしてる親父を見て育ち、自らも任侠と付き合いがあって荒事には慣れてる方。そこらの平和主義者が口先だけで暴力はいけないなんていうのとは重みが違うわけである。
- 勝が殺人をとがめると、「私が斬らなきゃ、先生は今頃まっぷたつでしたよ」と返答。これには勝も一言も無かったらしい。
- その時にひとりふたり斬ったのは、勝の回想があるから確か。
- 土佐藩につかまって拷問を受けたところぎゃあぎゃあ泣きわめくので、同じ牢に居た武市半平太から、見苦しいからと毒殺されかけた。哀れ。
- もっとも、致死量の何倍かの毒薬を服まされてもぴんぴんしていたらしい。変なヤツだ。
- 人格高潔な武市半平太に「あんなアホ早く死ねばいいのに」とまでいわせた超ヘタレ。歴史に名を残す人物でここまでいわれた人間はなかなかいない。
- 時々、「人斬りとして有名な岡田以蔵のもの」とされる写真が紹介される事があるが、その写真は「岡田以蔵」ではなく「岡田井蔵(読みは「いぞう」ではなく「せいぞう」)」のもの。当然別人。
- 同時代の人物(しかも年齢もわずか1歳違い)である上に名前も1字違いなので、混同される事が多いらしい。
坂本龍馬[編集 | ソースを編集]
- 坂本竜馬は高知が嫌になって脱藩した
- その後一度も帰ることが無かった。
- アレな坂本龍馬ファンが銅像の前で一晩を飲み明かしたりする。
- 酔っぱらって龍馬なぜ死んだんじゃ~とのたまったりのたまわなかったり。
- しかしこれだけ龍馬、龍馬と言っておきながら肝心な彼の墓は京都まで行かないと存在しない。
- 京都で暗殺されたから。皮肉にも地元の戦国武将が処刑された場所と同じ。
- 龍馬を暗殺したのは新撰組という説がある。(新撰組龍馬暗殺未遂という事実が残っている。)
- 西郷黒幕説、自殺説、まだ分からないからといっていろんな説が飛び出しております。
- 中岡慎太郎暗殺の巻き添えをくらったって説もあるらしい。
- フリーメーソンの関与を指摘する説すらある。
- 大河ドラマ「竜馬がゆく」は同シリーズ中、最も低視聴率に終わった作品である。
- 2010年「龍馬伝」は吉と出るか蛇と出るか...
- 少なくとも作品の評価自体は凶ではなかったような気がする。
- 2010年「龍馬伝」は吉と出るか蛇と出るか...
- 「竜馬がゆく」(原作)は忘れられた日本人として取り上げたわけです。全国的な知名度がないのはやむをえない。
- 明治維新の前には土佐藩は幕府派と倒幕派が互いに暗殺合戦したから人材がいなくなった。薩摩藩では武士の7人に1人は(いまは廃止された)華族士族になれた。
- その代わり岩崎弥太郎に代表される経済人が活躍、何気に昭和初期までは日本でも指折りの経済商業発展都市だったりする。しかし今も昔も変わらずの怠惰な県民性故にこの有様だよ!!
- 「坂本龍馬って過大評価されすぎだろ」「坂本龍馬ってたいしたことしてないよね」は禁句である
- 「すごい(と言えば通ぶれる)」→「すごくない(と言えば通ぶれる)」を数回繰り返してるので割とニュートラルだったりもする
- 補足:上記2つは高知県での龍馬の扱いの話ね。
- 話が面倒なのはだいたい勝海舟のせい。
- 「すごい(と言えば通ぶれる)」→「すごくない(と言えば通ぶれる)」を数回繰り返してるので割とニュートラルだったりもする
- 日露戦争の時に、焦慮する皇后の夢枕に現れて「戦のこと、ご心配なさらぬように」と伝えたらしい。
- 明治期の龍馬への認識はその程度のことだったようだ。
- この時宮中に土佐出身者が一杯いたというのが真相のようだ。
- 10才くらいまで(だっけ?)寝小便垂れてた。
- 昔の小説では土佐弁でしゃべっていない。
- 暗殺により軍鶏鍋を食べ損ねたため慰霊祭では墓前に軍鶏鍋が供えられる。
- 紀貫之の子孫を自称していたらしい。
- 貫之が土佐の国司をしていた際に現地の女性との間にできた子どもの子孫…という設定だったのだろうか。
- 一般的に日本初の新婚旅行をした人物とされているが小松帯刀の方が早いという異説も出てきた。
- 倒幕の立役者と言われるが、大久保などと違い幕府がダメなだけで慶喜とかはオッケー。徳川外しまで考えていたわけではない。
- 大逆事件で投獄された坂本清馬とは何か関係が?
- いろは丸が事故で沈んだ際は、相手の紀州藩が万国公法に詳しくないのをいいことに全て相手の責任ということにした。おまけに重火器を大量に積んでいて大損害という主張は丸っきり嘘。ひでえ。
- 関連項目
武市瑞山[編集 | ソースを編集]
- 幕末における土佐郷士のリーダー格。半平太の通称でも知られる。
- 親戚でもある龍馬からは「顎(アギ)」というアダ名で呼ばれていた。
- それに対して龍馬のことを「痣(アザ)」と呼んでいた。
- 同時代の人たちから「人望は西郷、政治は大久保・桂に匹敵する」というとんでもない評価を受けている。もし生き延びていたらどれほどのことをしたことやら・・・。
佐賀藩[編集 | ソースを編集]
大隈重信[編集 | ソースを編集]
- 都の西北に大学を作った。
- 同じ日に禁酒の勧めと飲酒の良さをそれぞれ別の場所で語ったことがあるらしい。
- 前者は禁酒組合、後者は酒造組合での講演だったとか。
- 始球式でバッターが空振りする風習の生みの親。
- 「あるんである」という言い回しをよく使ったのであるんである。
- 日本で初めてメロンの温室栽培をしたんであるんである。
- 政治家としてはともかく、総理大臣としてはあまり有能ではない。
- 藩閥勢力に利用されすぎ。
- とんでもない悪筆だったため、書簡は口述筆記で済ませていた。
- 当時ワープロがあったなら、真っ先に使っていたであろう。
- 大日本帝国憲法の署名を見れば、いかに悪筆かがよくわかる。
- 倒幕中はあまりパッとしないが、聖書や外国の学問などを学んでいたことから小松清廉に推挙されて外交担当に。基本的には喋り上手で出世した人。
江藤新平[編集 | ソースを編集]
- 学制や司法の整備に尽力した理想主義者。
- 頭が切れて志も高かったが、空気の読めなさが仇となり新政府から離脱。
- 法治国家を目指すわりには最後は士族反乱にのってるあたり、どうもダブルスタンダードの匂いがする。
- 自分で導入した手配写真制度によって捕まった最初の人間。
- 佐賀の乱を起こした際、政府離脱仲間の西郷隆盛や板垣退助を頼ったが、逆に「大それたことをしてくれるな!」とキレられて突き放された。
- 「江藤が立てばみんな立つと思ったんだろうがあいつ信用ないから」と大久保にはボロクソな言われよう。
薩摩藩[編集 | ソースを編集]
大久保利通[編集 | ソースを編集]
- 外では冷血、家では親バカ。
- 部下使いも丁寧。無茶振りはせず、下に見たりもしない。上司としては理想的。
- 私生活はハイカラだったが実は漬物も好きだったとか。
- 近年まで鹿児島ではあまり人気がなかった。
- 他県からの指摘があるまで銅像も立たなかった。
- そりゃ、薩摩で大人気の親友(=西郷隆盛)を殺せって命令出しゃ、誰だって、嫌うでしょ。
- で、その西郷の死には結局は泣いた。
- そりゃ、薩摩で大人気の親友(=西郷隆盛)を殺せって命令出しゃ、誰だって、嫌うでしょ。
- 他県からの指摘があるまで銅像も立たなかった。
- 頭頂部の禿を前髪でごまかすのが大変だったという。
- 良くも悪くも近代日本のグランドデザインを描いた偉人。
- 日本版ムスタファ・ケマル。
- 身長180cm以上だったらしい。ガチの殴り合いでは勝てないなあ、俺。
- 自分に似たタイプの人物を嫌っていた。
- そういう性格だから最後は自分も暗殺される事になった。自業自得だな。
西郷隆盛[編集 | ソースを編集]
- どんな顔だったか未だに謎。
- とりあえず上野の銅像は似ていないらしい。
- 銅像の完成式で妻が本人に似ていなくてがっかりしたとか。
- 奥さんががっかりしたのは、似てないからではなく、公的な場に飾られるのに相応しくない平服姿で表されたため。
- 本人は軍事大好きの武闘派で本来なら軍服姿でつくられたはず。そうしなかったのは西南戦争を起こした反逆者をそのまま表彰するわけにはいかなかったから。きれいな西郷として庶民的イメージを強調されたのが今の西郷像。
- 奥さんががっかりしたのは、似てないからではなく、公的な場に飾られるのに相応しくない平服姿で表されたため。
- 銅像の完成式で妻が本人に似ていなくてがっかりしたとか。
- 確かに確実な写真などはないが、まだ西郷の顔を覚えている人が大勢生きている時代に作られた作品だから、全く似ていないということはないだろう。
- 今残る肖像画は、弟の西郷従道と、従弟の大山巌の容貌を参考にして描かれたもの。まあ、当たらずといえども遠からずというところじゃないかな。
- 顔と言うより、名前も正確なところは不明だったような・・・。
- 「隆盛」は親父さんの名乗りで、本人は本当は「隆永」だったらしい。留守中に部下がうろ覚えで届け出てしまった。
- ついでに、弟の従道も、本当は「隆道」だったらしい。名乗りを訊かれて、音読みで「リュードーじゃ」と答えたら「ジュードー」と聞き間違えられたとのこと。
- 「隆盛」は親父さんの名乗りで、本人は本当は「隆永」だったらしい。留守中に部下がうろ覚えで届け出てしまった。
- とりあえず上野の銅像は似ていないらしい。
- 愛犬家。
- 鹿児島と熊本での評価の差がすごい。
- 小さく叩けば小さく響き大きく叩けば大きく響く。
- 死後も何か変事が起きるたびにこじつけられた。
- 火星の大接近、ロシア皇太子来日、巡洋艦行方不明・・・
- 日本人の「鹿児島」という土地のイメージにこの人の存在がかなり影響していると思う。
- 実は維新以前に島流しを食らっている。
- 奄美に流されたときに風土病になったとかで、×××が異常にでかく、馬にも乗れないほどだった。
- 西南戦争で死んだ後、首がなくてどれが西郷さんの遺体かわからなかったときにコレで判断された。
- 「もうこのへんでよか。」
- 愛犬は未来の東京からやってきたもの。
- いつもおなかをすかしている、かわいい薩摩犬じゃなかったっけ。
- 吉野狐とコンビを組んでいる。
- いつもおなかをすかしている、かわいい薩摩犬じゃなかったっけ。
- 好物はウナギの蒲焼きだ。
- 某CMのせいで大倉卿だったと思われていそう。
長岡藩[編集 | ソースを編集]
河井継之助[編集 | ソースを編集]
長岡藩家老
- 別名ガトリング家老
- アホの坂田や鈴木宗男に似てるは禁句
- ガトリング砲だけでなく様々な最新兵器を購入している。
- 臨終の際に弟子の外山修造に「これからは商人になれ」と遺言を残した。
- その後、外山修造はアサヒビールと阪神電鉄を設立した。
- 阪神タイガースの由来は外山修造の幼名である寅太が由来の説がある。
- 戦前、甲子園球場の入口に外山修造の銅像があった。
- その繋がりで最近まで甲子園球場でのビール販売はアサヒビールが独占していた。
- 阪神が優勝するとビールかけに使用されるビールはもちろんアサヒビールである
- その後、外山修造はアサヒビールと阪神電鉄を設立した。
- 江戸藩邸と家宝を売り払って藩の軍を近代化させた。
- 陽明学に傾倒していた。
紀州藩[編集 | ソースを編集]
陸奥宗光[編集 | ソースを編集]
- 紀州藩士というよりも、龍馬の建てた海援隊の一員。
- 明治時代では外務大臣として実力を発揮した
- 面倒な性格だったようで仲間に嫌われていたが龍馬には高く評価され可愛がられた。陸奥も龍馬の事を絶賛している。
- 嫁が美人な事で有名。
庄内藩[編集 | ソースを編集]
清河八郎[編集 | ソースを編集]
- 結果として新撰組を作ってしまった男。
- 幕府を言いくるめて浪士組を結成したまでは良いが、尊皇攘夷という真の目的を明かしたところで芹沢、近藤らに離反されてしまった。