幸運なサッカー事典

提供:chakuwiki

幸運なモノ事典 > スポーツ > サッカー

団体[編集 | ソースを編集]

サッカー[編集 | ソースを編集]

川崎フロンターレ
  1. 川崎市は大洋、ロッテ、ヴェルディが相次いで出て行ったため、市民からは「どうせお前らも本気じゃないんだろう」との言われ様だった。
  2. Jリーグ参入当初はJ1昇格も1年でJ2逆戻りしたが、苦しんだ末にJ1復帰を果たし、やがて市民から愛されるクラブとしてリーグ優勝も果たす強豪にまで成長。
    • だがその前はカップ戦で4度も決勝敗退、リーグも3回の2位があり、シルバーコレクターの名を頂戴していた。
横浜FC
  1. 2006年・2019年ともに、途中で監督を交代してから成績が上向きになり、最終的にJ1昇格を勝ち取った。
    • 特に2006年は開幕戦で敗れてすぐに監督を交代した。
ヴァンフォーレ甲府
  1. Jリーグ参入2年目の2000年に26試合連続未勝利やら債務超過やらで、年末に経営危機問題が発生。
    • 必死の存続運動などの結果、2001年度はチームの存続が決定。
    • しかし、2002年以降の存続には「平均観客動員数3000人以上」「クラブサポーター数5000人以上」「スポンサー収入5000万円以上」の三つの条件が課せられ、これが達成されない場合は解散という厳しい条件をJリーグから突きつけられた。
  2. 平嶋彰英総務部長の要請により筆頭株主の山日YBSグループから海野一幸が送り込まれ、経営の健全化が図られた。
    • スポンサー収入に関しては、海野がスポンサーとの交渉の際に「スポンサーになれば税金対策になる」等とスポンサーになった場合のメリットを強調。
  3. 「スポンサー収入」の条件は6月中にクリアし、残る2つの条件も連日報道される経営危機に関心を示し、クラブサポーターの加入や競技場へ足を運ぶ人達も次第に増えていき、10月の時点で達成できる見込みとなった。
    • 上記の目標を達成しても4000万円の赤字が見込まれた決算も自治体・企業・ボランティアの協力で経費が圧縮され、最終的に法人化後初の単年度黒字に転換。
      • 10月に実施された主要株主会議にて2002年以降のクラブの存続が決定し、経営危機問題はひとまず終息した。
  4. 翌年以降も経営状況は厳しかったが、海野を中心とする経営陣の努力で単年度黒字を記録し続けた。
    • クラブも2005年に初のJ1昇格を決め、約4億5000万円あった累積赤字も2016年に解消。
鹿島アントラーズ (旧:住友金属)
  1. Jリーグ加盟決定前は日本サッカーリーグ (JSL) 2部所属で、さらに天皇杯優勝経験もなく1993年からのJリーグ加盟は不可能ではないかといわれた。
    • 1993年から加盟できるチームの枠が10ある中で既に9枠埋まっており、残り1枠は天皇杯優勝経験もあるヤマハ (→ジュビロ磐田) ・ヤンマー (→セレッソ大阪) ・日立 (→柏レイソル) ・フジタ (→ベルマーレ平塚) の中から選ばれることが決定的だった。
    • 後にJリーグチェアマンとなる川淵三郎は、チーム担当者や鹿島町長 (当時) に対して 「加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」 とも言った。
  2. しかし、川淵がアントラーズのJリーグ加盟条件として、観客席に屋根のついた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設することを挙げ、これに対し茨城県がカシマサッカースタジアムを建設することに決めたこともあって、逆転でアントラーズの1993年からのJリーグ加盟が決定した。
  3. その後は1993年サントリーシリーズ (前期) 優勝から、2020年までに8度のJ1優勝、主要タイトル20冠達成、2018年にはAFCチャンピオンズリーグ (ACL) 優勝を達成。2016年にはクラブワールドカップで準優勝したこともあり、日本を代表するサッカークラブとなった。
    • Jリーグでは横浜F・マリノスと同じくJ2以下への降格を経験していない。また2度のJ1連覇、特に2007年から2009年は前人未到の3連覇を達成した。
浦和レッズ
  1. Jリーグ初期は暗黒時代であり、「Jリーグのお荷物」 とも言われた。
    • 1999年にはJ2降格を経験した (世界で一番悲しいVゴール) 。
  2. しかし、2001年に埼玉スタジアム2002が完成して、そこを本拠地とするようになってからはほとんどの年で観客動員数首位を記録。
    • 特に、2006年の最終節はガンバ大阪との優勝争い直接対決だったこともあり、入場者数は当時最多となる62,241人を記録した。
  3. さらに2006年にはJ1優勝、2007年・2017年と2度のACL優勝を達成。先述の通り観客数が常に多いことから、こちらも日本を代表するサッカークラブとなった。
ガンバ大阪
  1. 先述の浦和レッズと同様、Jリーグ初期は成績が低迷していた (ただし初の降格は2012年) 。
  2. しかし2005年J1最終節、川崎相手に4対2で勝利、一方セレッソ大阪が引き分けたこともあり逆転で初優勝。
  3. その後2006年は浦和レッズと最終節で優勝争い直接対決 (結果は2対3で敗れた) 、浦和に続いて2008年にはACLで優勝。クラブワールドカップに出場し、ガンバも日本を代表するサッカークラブとなった。
    • 時を同じくして、2000年代中頃から浦和レッズとの対戦カードがJリーグのナショナルダービーといわれるようになった。日本代表 イビチャ・オシム監督 (当時) やアナウンサー・倉敷保雄が、このカードを高く評価していた。
  4. 2012年にJ2に降格するも、2013年にJ2優勝、1年でのJ1復帰を達成。その翌年、2014年は最終節まで浦和・鹿島と優勝を争った末にJ1優勝。同年のナビスコ杯・天皇杯も優勝したため、1部リーグ昇格1年目のチームで初の国内三冠を達成した。

[編集 | ソースを編集]

サッカー[編集 | ソースを編集]

代表[編集 | ソースを編集]

1994 FIFAワールドカップのイタリア代表
  1. 1992年から監督に就任したサッキがACミランと同様に代表にもゾーンプレスを取り入れようとしたが、クラブとは異なり代表では練習時間に制限があり戦術が浸透せず、加えてアメリカでのほとんどの試合が炎天下のデーゲームでゾーンプレスはあまり機能しなかった。
    • グループリーグは初戦で格下と目されていたアイルランドに負け、次のノルウェー戦はなんとか競り勝つも、最終戦のメキシコ戦に引き分け、全チーム勝ち点4で並んだグループリーグでなんとか3位に滑り込み、決勝トーナメントに進出。
      • 当時は6つのグループリーグの3位チームのうち、上位4チームが決勝トーナメント進出というルールだった。
  2. 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも前半に1点を先制される苦しい展開。更に途中交代したゾラが不可解な判定で退場。
    • イタリア代表は10人で1点を追いかける状況に追い込まれ、NHKで実況を担当していた山本浩が解説の田中孝司に「田中さん、ロベルト・バッジョの94年はこれで終わってしまうんですかね?」と言った直後の後半44分、そのロベルト・バッジョが同点ゴールを決め、さらに延長戦でもバッジョが決勝点となるPKを決め逆転勝ち。
  3. 息を吹き返したイタリアは準々決勝のスペイン戦も終了直前にバッジョの決勝ゴールで2-1の勝利。
    • 準決勝のブルガリア戦もバッジョの2得点で2-1の勝利。グループリーグ無得点と不調だったバッジョは決勝トーナメントの3試合で5得点の活躍でチームを決勝に導いた。
  4. 決勝のブラジル戦はそれまで怪我で離脱していたバレージが戦列に復帰。そのバレージを中心とした守備陣はブラジルの猛攻に耐え、120分間ゴールを割らせず完封。
    • 0-0のままW杯史上初の決勝戦でのPK戦に突入。バレージ・マッサーロと失敗し、最後のキッカーに名乗り出たバッジョも痛恨の失敗に終わり、イタリアは惜しくも優勝を逃した。
      • 試合後、バッジョは「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない」という名言を残した。
2002 FIFAワールドカップのブラジル代表
  1. 南米予選で苦戦し、一時は本大会出場すら危ないほどだった。
    • 最終戦のベネズエラ戦に勝ってなんとか本選出場を決めたが、ブラジル国民からの評価は低かった。
  2. グループリーグC組初戦のトルコ戦こそ先制を許したが、ロナウドの同点ゴールとリバウドのPKで2-1の逆転勝ち。
    • 次の中国戦は4-0で圧勝、最終戦のコスタリカ戦も5-2で勝ち、グループリーグ1位で決勝トーナメントへ。
  3. 決勝トーナメント1回戦のベルギー戦は後半にペースを掴み2-0で勝利。
    • 準々決勝のイングランド戦はオーウェンに先制ゴールを許したが、リバウドの同点ゴールとロナウジーニョのFKで2-1の逆転勝ち。
    • 準決勝は快進撃を続けてきたトルコ戦。ここはロナウドのゴールを守り切って1-0で勝利。
  4. 決勝のドイツ戦は前半こそカーンにスーパーセーブを連発されたが、後半にロナウドの2ゴールで2-0で勝利。ワールドカップの最多優勝記録を5に伸ばした。
2006 FIFAワールドカップのイタリア代表
  1. 大会開幕直前にイタリア国内でカルチョ・スキャンダルが起こり、リッピ監督やGKのブッフォンらが巻き込まれてしまう。
    • この影響が代表チームにも及んでしまうのではないかと懸念されたが、逆にチームは結束。
  2. グループリーグ初戦のガーナ戦は2-0で快勝、2戦目のアメリカ戦はザッカルドのオウンゴールで1-1の引き分けに終わるも、最終戦のチェコ戦はマテラッツィとインザーギのゴールで2-0で勝利。1位でグループリーグを通過した。
  3. 決勝トーナメント1回戦の相手は、前回大会で誤審?の末に敗れた韓国を率いていたヒディンクが監督を務めるオーストラリア戦。
    • 試合は後半開始早々にマテラッツィが退場、その後もオーストラリアに押される展開が続いたが、0-0で迎えた後半終了直前にグロッソがPKを獲得。このPKをトッティが決め1-0で辛勝。
  4. 準々決勝のウクライナ戦は3-0で快勝し、準決勝は開催国のドイツと対戦。試合は一進一退の攻防が続き90分間では決着が着かず延長戦に突入。
    • 延長戦でも互いに決定的なチャンスを決めることが出来ず、PK戦突入か?と思われた延長後半14分にグロッソがゴールを決め、遂にイタリアが先制。
      • その直後にデル・ピエロがダメ押しの追加点を挙げ、2-0の勝利で決勝に進出した。
  5. フランスとの決勝戦、試合開始早々ジダンにPKを決められるも、すぐさまマテラッツィが同点ゴールを挙げ1-1で延長戦へ。
    • 延長後半には所謂「ジダン頭突き事件」があったが、試合は延長戦でも決着がつかず1994年以来史上2度目となるPK戦に突入。
      • トレゼゲが失敗したフランスに対し、イタリアは全員が成功。この結果イタリアは1982年以来24年ぶり4度目の優勝を成し遂げた。
2010年サッカーワールドカップの日本代表
  1. 惨敗必至の予想も勝利を挙げた。
  2. 谷間の世代と呼ばれたアテネ世代が屋台骨となり汚名返上となった。
2011年FIFA女子ワールドカップ日本代表 なでしこジャパン
  1. 東日本大震災の3ヶ月後に開催。
  2. グループリーグでイングランドに敗れ2位通過となるが、準々決勝でドイツに延長戦で勝利、準決勝でスウェーデンに逆転勝ち。
  3. 決勝でアメリカに2度リードされながら延長後半終了間際に澤穂希の劇的ゴールで追いつき、PK戦の末勝利。男女及び全年代別を通じて日本サッカー史上初のFIFA主催の世界大会初優勝を果たした。
  4. 連日スポーツニュースで取り上げられるほどになり、被災した日本を勇気づけたとして国民栄誉賞まで受賞。
    • 年中お通夜状態だった2011年の数少ない明るいニュースとなった。
2018 FIFAワールドカップのロシア代表
  1. 大会前のFIFAランキングが出場32チームの中で最下位(70位)だったため、一部ではグループリーグ突破を不安視する声があった。
  2. しかしグループA初戦のサウジアラビア戦は5-0で圧勝、続くエジプト戦も3-1で勝ち、最終戦のウルグアイ戦こそ0-3で敗れたが、グループAを2勝1敗の成績で2位となり、旧ソ連時代以来8大会ぶりとなるグループリーグ突破を決めた。
  3. 決勝トーナメント1回戦は優勝候補のスペインに対しPK戦の末勝利。
    • 準々決勝は準優勝したクロアチアにPK戦の末敗れたが、それでも戦前の評価を考えれば充分な成績(ベスト8)を残すことができた。

Jリーグ[編集 | ソースを編集]

1999年のジェフユナイテッド市原
  1. 前年度の天皇杯で横浜フリューゲルスを優勝に導いたゲルト・エンゲルスを監督として招聘したが、前年シーズンまで司令塔として機能したマスロバルの穴を埋めることが出来ず、守備の崩壊もあり1stステージは15位と低迷。
    • エンゲルスを解任しニコラエ・ザムフィールで臨んだ2ndステージもチーム状況の劇的な改善とはならず、降格圏をなかなか脱出できない。
      • 2ndステージ14節終了時点での年間総合順位は15位。14位の浦和とは勝ち点1差で最終節を迎えた。
  2. 市原は最終節(vsガンバ大阪)で武藤真一のゴールでもぎ取った1点を守り切って1-0で勝利。
    • 14位の浦和が90分以内に勝てず、得失点差で浦和を僅かに上回ってJ1残留を勝ち取った。
1999年のFC東京
  1. J2最終節、対戦成績の悪かったアルビレックス新潟に90分以内で勝利し (1-0) 、なおかつ大分トリニータ (J1昇格にほぼ有利だった) がモンテディオ山形に引き分けたため、奇跡的にJ1昇格を勝ち取った。
2000年の浦和レッズ
  1. 世界で一番悲しいVゴール」 で降格してしまった翌年、最終節でサガン鳥栖相手にVゴールでJ1昇格を勝ち取った。
2006年の横浜FC
  1. 開幕節でJリーグ初戦だった愛媛FCに0-1の完封負けを喫した時点で足達勇輔監督を解任。
    • Jリーグ史上初の開幕節後の解任となってしまった。
  2. その後コーチだった高木琢也が監督に就任したが、初陣となった第2節のサガン鳥栖戦では横断幕ゼロ・コールも一切無しというサポーターからフロントに対しての無言の抗議が実行される事態に…。
  3. しかし高木の監督就任後、チームはJリーグ新記録の15戦無敗。
    • 菅野孝憲や早川知伸らを中心とした堅固なディフェンス陣は「ハマナチオ」と名付けられ、Jリーグ新記録の770分間連続無失点とJ2タイ記録の7試合連続無失点を樹立。
  4. 第43節のモンテディオ山形戦の勝利後に首位に立ち、第51節のサガン鳥栖戦の勝利と他チームの結果によって初のJ2優勝・J1昇格を果たした。
2008年のジェフユナイテッド市原・千葉
  1. 2007年の主力選手たちが他クラブに引き抜かれ、開幕11戦未勝利と苦戦。
    • 11節終了後にヨジップ・クゼ監督が解任され、14節からはアレックス・ミラーが監督に就任。手続きの関係上、12節と13節は澤入重雄が監督を代行した。
  2. 戸田和幸や深井正樹の加入もあり一時は5連勝で最下位を脱出したが、32節終了時点で自動降格圏内の17位。
    • 33節の清水エスパルス戦は一旦は同点に追いつくも岡崎慎司のゴールで突き放され、終了間際には守備の要だったボスナーが2枚目のイエローカードで退場となり、最終節のFC東京戦は出場停止となるなど、千葉にとっては痛すぎる敗戦となった。
      • しかし15位の磐田・16位の東京Vは揃って敗れ、千葉は土壇場で踏みとどまって最終節へ。
  3. 最終節、ACL出場圏内の3位を狙うFC東京に攻めこまれ、39分にカボレのヘディングで先制を許し、53分にはカウンターから長友佑都にミドルシュートを決められて0-2。
    • ミラー監督はここで動き、56分にミシェウに代えて新居辰基、63分には深井に代えて谷澤達也を投入。
  4. その直後、74分に谷澤のロングフィードを受けた新居がゴールを決めて1点差、77分には青木良太のセンタリングを巻誠一郎が胸で落とし、谷澤がボレーでゴール右隅に叩き込み同点。
    • 80分にはレイナウドが今野泰幸に倒されPK獲得。これをレイナウドがきっちり決め千葉が逆転に成功。
    • 85分には新居のパスに抜け出した谷澤がキーパーとの1対1を確実に決め、4-2で試合終了。
  5. 15位の磐田・16位の東京Vが揃って敗れ、千葉が大逆転でJ1残留を勝ち取った。
    • 札幌ドームでの鹿島vs札幌戦(鹿島のJ1優勝が掛かっていた試合)のゲスト解説を担当していた金子達仁は「これはもう『フクアリの奇跡』と呼んでいい」とコメントした。
2012年のアルビレックス新潟
  1. 第33節終了時点で17位 (降格圏) だったが、最終節でガンバ大阪とヴィッセル神戸が敗れ、なおかつ新潟が札幌に4対1で勝利したこともあり奇跡的にJ1残留を勝ち取った。
    • 実はその前の33節(ベガルタ仙台戦)で勝たなければ降格決定だったがキム・ジンスの先制点を守り切って1-0で勝利。
      • 第33節で仙台が新潟に負けて広島が(C大阪に)勝ったことで、これまでオリジナル10で三大タイトル無冠だった広島が初となるリーグ優勝を果たした。
        • その広島の第34節の相手は、入れ替わりで降格圏に落ちた神戸だった。結果的に初優勝をアシストしてくれた新潟への恩返しになっていた。
    • しかも終了間際に柳下正明監督が累積警告7枚のブルーノ・ロペスを庇って退席処分を受け、最終節は監督不在(コーチの栗原克志が監督代行)での試合だった。
2012年のベガルタ仙台
  1. 震災が発生した翌年、前年4位からさらに躍進して2位でフィニッシュ。サンフレッチェ広島と優勝を争った。
2019年の湘南ベルマーレ
  1. 前年にルヴァン杯を制すも曺貴裁監督のパワハラ騒動によりバッシングもあった。
  2. 入れ替え戦でルールの恩恵もあったが残留を決める。

選手[編集 | ソースを編集]

大島秀夫
  1. 前橋育英高校から1998年に横浜フリューゲルスへ入団。
    • 高卒1年目はリーグ戦6試合・天皇杯1試合に出場したが、クラブが横浜マリノスに吸収合併されたため同期入団の遠藤保仁・辻本茂輝と共に京都パープルサンガへ移籍。
  2. 移籍先の京都でも出場機会は少なく、2000年のシーズン終了後にクラブから戦力外通告を受けてしまう。
  3. しかし、翌2001年にモンテディオ山形へ移籍するとレギュラーを掴み、2004年には22得点(J2日本人得点王)を挙げる活躍を見せた。
  4. 山形時代の天皇杯でのゴールが評価され2005年からは横浜F・マリノスへ移籍し、4年間で34得点を挙げた。
  5. マリノス退団後はアルビレックス新潟、ジェフユナイテッド千葉、コンサドーレ札幌、ギラヴァンツ北九州の4クラブでプレーし、2016年に現役を引退。
久保竜彦
  1. 筑陽学園高校時代、目立った成績は高校サッカー福岡県大会準優勝と国体の福岡県選抜チームに2回選ばれたぐらいと全国的には無名の選手だった。
  2. 家庭の財政状況から大学進学は諦め就職するつもりだったが、サッカー部の監督の強い薦めでサンフレッチェ広島のテストを受け合格。
  3. 入団2年目の1996年から出場機会を掴み、高木琢也がヴェルディ川崎へ移籍した1998年からは広島のエースFWに。
    • 2001年には全30試合に出場し15得点を挙げ、チームの2ndステージ3位躍進に貢献。
  4. 翌2002年の広島のJ2降格を機に横浜F・マリノスに移籍し、移籍初年度の2003年は25試合16得点でチームのJリーグ完全優勝に大きく貢献した。
  5. この項目にもあるようにワールドカップには何故か縁が無く、マリノス移籍2年目の2004年からは怪我も多くなり成績を落としてしまったが、派手なプレースタイルとは180度異なる謙虚な性格で多くのファンからの支持を得ることになった。
フッキ
  1. 川崎には将来性を買われての加入。
  2. 札幌でブレイク、東京VのJ2得点王で昇格貢献、川崎復帰で関塚監督との確執もセレソンのエースに。
盛田剛平
  1. 桐蔭学園高校1年次は左のサイドバックを務めていたが、2年次にFWへコンバート。
  2. 駒澤大学では1年次から主力選手として活躍し、1995年と1997年の全日本大学選手権の優勝に貢献。
    • 3年次にはユニバーシアード日本代表に選出され、あるJリーグのクラブから入団のオファーを受けたが教員免許取得のため断り4年間大学に在籍。
  3. 「大学ナンバー1ストライカー」として6つのクラブが獲得に動き、1999年に浦和レッズへ入団。
    • 1年目からレギュラーに抜擢されたがリーグ戦19試合出場で0得点と結果を残せず、同年の浦和のJ2降格を経験してしまう。
  4. その後も浦和でなかなか出場機会を掴めず、2001年にはセレッソ大阪・更に同年8月からは川崎フロンターレへそれぞれ期限付き移籍したが、レギュラーには定着できず。
    • 2002年に大宮アルディージャへ移籍すると清雲栄純監督の勧めもあり左サイドのアタッカーにコンバート。
      • これが功を奏し一時はレギュラーを獲得するも、2004年のシーズン途中に高さのあるFWを必要としていたサンフレッチェ広島へ期限付き移籍。
  5. 広島移籍後もレギュラーとして活躍していたが、期限付き移籍から完全移籍に切り替えた2005年は佐藤寿人の獲得や前田俊介の台頭もあり出場機会が激減。
    • 同年のシーズン終了後の契約更改でDFへのコンバートを志願(本人曰く「FWとしては限界を感じた」)し契約を延長。
  6. このコンバートが功を奏し、2006年以降は高さのあるDFとして渋く活躍。
    • 2010年には開幕直前に右足を骨折しキャリア初となる試合出場ゼロに終わったが、翌2011年は槙野智章の移籍や水本裕貴の負傷離脱もあり一時はレギュラーとして起用されていた。
      • 既に35歳だったこともあり、同年のシーズン終了後に広島から引退・フロント入りを打診されたがこれを拒否してヴァンフォーレ甲府へ移籍。
  7. 甲府移籍後もDFとして起用されていたが、2013年は先発出場が減少し10試合の出場に終わってしまう。
    • シーズン終了後にチームから契約満了が発表されたが、年末に甲府との再契約が発表され残留。
  8. 残留翌年の2014年、「センターフォワードが少ない」というチーム事情から8年ぶりにFWへ再コンバート。
    • その後は1年を通してFWとしてプレーし、29試合に出場。5得点を記録したがこれは38歳でのキャリアハイであり、チームの得点王でもあった。
  9. 2016年のシーズン終了後に甲府を退団しザスパクサツ群馬へ移籍。群馬では1年間プレーし同年限りで現役を引退している。
森保一
  1. 長崎日本大学高校時代は国見高校と島原商業高校が全盛期だったこともあり、インターハイや高校サッカーなどの全国大会には出場できず。
    • 山梨国体の長崎県選抜チームに選出されたのが高校時代の唯一の実績だった。
  2. 卒業後はJSLのマツダへ入団した(高校の監督とマツダの今西総監督が知り合いだった)が、同期入団の中では最下位の評価だった。
    • しかも採用枠の関係で本社にも入社できず、子会社のマツダ運輸に勤めながらサテライトチームのマツダSC東洋でのプレーとなってしまう。
  3. それでもマツダの監督だったハンス・オフトやビル・フォルケスコーチの指導の効果もあり、3年目の1989年にJSLデビュー。
    • 1991年にはマツダとプロ契約を結び、同年のJSL1部昇格に貢献した。
  4. 1992年にオフトが日本代表の監督に就任すると初招集を受けたが、ほぼ無名の選手だったこともあり同郷の高木琢也と前川和也以外、誰一人として苗字の「森保」を読むことができなかった。
    • それでも同年5月のアルゼンチン戦で先発に抜擢されると、アルゼンチンの監督のアルフィオ・バシーレとクラウディオ・カニーヒアが「日本にはいいボランチがいる」と森保を高評価。
      • これ以降「森保」と「ボランチ」の名前は脚光を浴び、日本代表として1993年のアメリカW杯アジア予選にも出場。
  5. クラブでもマツダをプロ化して創設されたサンフレッチェ広島の主力選手として1994年サントリーシリーズでのステージ優勝に貢献。
  6. その後1997年末に経営悪化がピークに達していた広島からオフトが監督を務めていた京都パープルサンガへレンタル移籍。
    • 当初は完全移籍だったが、功労者だった森保の移籍にサポーターが激怒し署名活動の末、レンタル移籍に切り替わった。
  7. 広島復帰後は森崎和幸の台頭や怪我・年齢もあり、2001年のシーズン終了後に広島からスタッフ就任のオファーを受けたが、現役にこだわり京都時代の監督だった清水秀彦の誘いを受けベガルタ仙台へ移籍。
    • 仙台でも主力選手として活躍したが、2003年に15位でJ2降格。森保自身も戦力外通告を受け、翌2004年1月に現役引退を表明した。
  8. 引退後は古巣の広島やアルビレックス新潟でコーチを務め、2012年から広島の監督に就任。
    • 広島の監督としては3回のJ1優勝(2012年・2013年・2015年)を経験したが、2017年7月に成績不振のため監督を辞任。
  9. その後は五輪代表とA代表の監督を兼務する形で2018年に日本代表の監督に就任。
    • カタールW杯ではドイツ・スペイン・コスタリカという厳しいグループに組み込まれたが、ドイツとスペインに逆転勝ちを収め、アジア勢として初となる2大会連続の決勝トーナメント進出を果たした。
梁勇基
  1. 大阪朝鮮高からのJリーグ入りを目指したが外国籍枠の制限もあり断念し、「外国籍扱いしない選手」(在日枠)の認定を受けるために阪南大学へ進学。
    • 大学での活躍もありジェフユナイテッド市原(当時)から入団の内定をもらっていたが、既に在日枠の選手として金位漫を登録していたため破談となってしまう。
      • その後2004年2月に川崎フロンターレのキャンプに参加したがここでも契約には至らず。
  2. Jリーグを諦め韓国のKリーグ入りを目指そうと渡航・国籍変更の手続きの準備をしていた時に、J2に降格していたベガルタ仙台を高校時代の監督から紹介されテスト生扱いとして入団。
    • 1年目の2004年から32試合に出場すると、翌2005年以降はレギュラーとして完全に定着。
      • 2008年と2009年にはチームの主将を務め、2009年のJ1昇格にも貢献した。

関連項目[編集 | ソースを編集]