幸運なスポーツ事典

提供:chakuwiki

幸運なモノ事典 > スポーツ

分割済み[編集 | ソースを編集]

団体[編集 | ソースを編集]

2020年東京オリンピック 男子フェンシング・エペ日本代表
  1. 日本フェンシング界初の金メダルを獲得したのもそうだが、それほどメダル有力種目ではなかったにも関わらずフジテレビで決勝戦の生中継が組み込まれていた。
    • このときのフジテレビは見る目あった。
    • もし日本が決勝に進出できなかったらどうするつもりだったのだろうか?他国の決勝戦を放送したのか?

[編集 | ソースを編集]

2015年ラグビーワールドカップ
  1. 日本の初戦で、世界ランク2位の南アフリカに勝ってしまった。
    • 日本の関心がラグビーに向いた。
  2. 五郎丸ポーズが流行った。
    • 勘違いしている人多数。でも悪いのは勘違いしている人たちであって、ラグビーではない。

選手[編集 | ソースを編集]

ボクシング[編集 | ソースを編集]

河野公平
  1. 初の世界挑戦は名城信男相手だったが、あまりにも微妙な判定で及ばず。さらに右拳を痛めてしまった。
  2. 2度目の挑戦は最終回ダウンを奪うも時すでに遅しの判定負け。
    • その後の再起戦も連敗。
  3. 3度目の挑戦で初の世界戴冠。
  4. そのタイトルの初防衛は逃すが、返り咲きは果たした。
  5. 2度目の防衛戦で当時国内ライセンスのなかった亀田興毅とアメリカで対戦することになったが、ダウンを奪って判定勝利。
  6. 王座陥落後、井上尚弥との対戦が実現した。
内藤大助
  1. 日本初挑戦での微妙な引き分けや敵地タイでポンサクレック・ウォンジョンカム世界初挑戦での記録的KO負けを喫し、日本・東洋太平洋王座も怪我で返上するなど不遇な日々を送っていた。
  2. その後、ポンサクに3度目の挑戦が決まるも、直前でフジテレビが中継を取りやめスポンサーもなかなか確保できず中止危機に見舞われた。
    • しかし、ドン・キホーテがスポンサーに名乗りを上げ、TOKYO MXの生中継が決定。試合も判定で勝利して悲願の世界王座獲得。
  3. その後は亀田三兄弟の次男・大毅に勝利し、国民的人気者にのし上がった。また、この試合以降TBSが生中継するようになった。
西岡利晃
  1. バンタム級ではウィラポンに4度挑戦するも1度も勝てず(しかも2引分)、アキレス腱を痛め1年棒に振ったりもした。
  2. スーパーバンタム級転級後に、プロ39戦で悲願の世界王座獲得。
  3. その後は防衛を重ね、ラスベガス進出も果たした。
八重樫東
  1. プロ7戦目でイーグル京和が持つ世界ミニマム王座に挑むも偶然のバッティングで顎を骨折し、試合も判定負け。
  2. その後、日本王座を獲得し2度防衛に成功するが、怪我が多いため結婚を機に会長から引退勧告されてしまう。
  3. しかし、勧告をはねのけて2度目の世界王座挑戦をTKOで成功させた。
  4. その後、井岡一翔とのWBA・WBC王座統一戦が実現。敗れはしたものの知名度が一気に上がった。
  5. 続いてフライ級、ライトフライ級も制し、3階級制覇を達成した。

相撲[編集 | ソースを編集]

蒼国来栄吉
  1. 中国・内モンゴル自治区から来日し荒汐部屋に入門、同部屋初の関取となる。
  2. 幕内に昇進するも、2011年の八百長騒動に巻き込まれ一度は解雇されてしまう。
  3. しかし2年に渡る裁判の末潔白が証明され、相撲界に復帰が許される。
  4. 復帰直後はさすがに負け越し続きで一度十両に落ちるも、ほどなく幕内に返り咲き技能賞や金星も手にする。
  5. そして日本に帰化し、師匠の停年と共に引退し荒汐部屋を継承した。
  6. 師匠となってからも若隆景を優勝させることができた。
琴風豪規
  1. 1978年初場所で新関脇となり大関候補に名乗りを挙げたが、この年の九州場所の麒麟児戦で左膝に大怪我を負ってしまい途中休場。
    • 無理して出場した翌年の初場所の金城(後の栃光)戦で負傷部分を悪化させてしまい2場所連続で全休。番付を幕下30枚目まで落としてしまう。
  2. それでも腐らずに怪我を治すと幕下を2場所・十両を1場所で通過し1980年初場所で幕内に復帰。更に初場所・春場所と2場所連続で敢闘賞を受賞し夏場所では関脇に復帰(この場所も10勝5敗で殊勲賞を受賞している)。
  3. ところが翌名古屋場所での栃光戦で再び左膝に大怪我を負い途中休場。
    • 当時の理事長だった栃錦の春日野親方が「今度こそ駄目だろう」と言った程の大怪我だったが、それでもめげず九州場所で復帰し、翌1981年には関脇に定着。
  4. 1981年秋場所では12勝3敗で初優勝。直近三場所の勝ち星が9勝・10勝・12勝の計31勝で目安の33勝には届かなかったが、千代の富士の横綱昇進で大関不在だった事情もあり場所後に大関昇進。
  5. 大関時代は在位22場所と決して長く無かったが、勝率.658は1場所15日制が制定された1949年夏場所以降に昇進した最高位が大関の力士では最高記録だった。
    • 1983年初場所2日目から翌春場所7日目にかけては横綱以外では最長の21連勝を記録。
    • 本人曰く「9勝6敗でも申し訳無くて、角番なんてとんでもなかった」と後に語っている。
  6. 引退後は年寄・尾車を襲名し佐渡ヶ嶽部屋から独立する形で1987年3月に尾車部屋を設立。後に関脇まで昇進した豪風や嘉風などを育てた。

その他の格闘技[編集 | ソースを編集]

ジャイアント馬場/馬場正平
  1. 恵まれた体格を生かして野球に打ち込み、甲子園出場は果たせなかったが巨人からスカウトを受ける。
  2. 2軍で2連続最優秀選手となるも、1軍登板直後に目を病み、あわや失明の危機まで陥る。
  3. 何とか手術は成功したが、移籍した大洋の風呂場で転んで左腕を大怪我してしまい選手生命を絶たれる。
  4. 引退後にプロレスに転身し、猪木と共に国民的ヒーローとなった。
野村忠宏
  1. アトランタオリンピックで全く注目されていなかったにも関わらず金メダル
  2. その後シドニー、アテネオリンピックも優勝し全競技通じて日本人及びアジア人初のオリンピック個人種目3連覇
  3. 毎回同日に試合を行う谷亮子(田村亮子)に新聞の一面を取られていたが、引退後のスポーツキャスターとしての活躍から今では知名度は谷亮子以上。
    • 日本一有名な柔道家になったといえる
    • 現役時代はむしろプレッシャーがかからなくてよかったと本人が話している。
  4. 世界選手権での金メダルは1997年の1回しかないがオリンピックは3連覇。大舞台に強い。
    • 一方田村亮子は当時世界選手権2連覇・公式戦84連勝中で金メダル確実と言われたアトランタオリンピックで銀メダルに終わってしまったことがある
      • そのため世界選手権は6連覇含む7度優勝していながらオリンピックの金メダルは2回に留まっている

騎手[編集 | ソースを編集]

柴田大知
  1. 1996年にデビュー。同期に福永祐一・和田竜二・古川吉洋らがいる。
  2. 1年目に27勝、2年目に29勝を重賞初勝利(ラジオたんぱ賞/エアガッツ)を記録。
    • しかしこの重賞勝利の直後、当時の師匠である栗田博憲の反対を押し切って競馬新聞記者との結婚を強行。これが原因で栗田厩舎から解雇処分(破門、後に和解)されてしまいフリーの騎手に。
  3. この事件を境に騎乗数が減り始め、2003年以降は勝利数が一桁台にまで落ち込み、2006年には年間未勝利まで成績を落としてしまう。
    • 2005年からは障害競走にも乗り始めた。
  4. そんな中、2008年に新潟の北陸ステークスでダイイチミラクルに騎乗し2着と好走。
    • ダイイチミラクルの馬主の代表が以前ビッグレッドファームに勤務していたことで、サラブレッドクラブ・ラフィアンの所属馬に乗せて貰えるようになった。
  5. 2011年6月のマイネルネオスとのコンビで14年ぶりの重賞勝利(東京ジャンプステークス)。1ヶ月後の中山グランドジャンプ(東日本大震災の影響で延期されていた)も勝ち、GI(J・GI)初制覇。
    • レース後のインタビューで「騎手を辞めなくてよかったです」と涙を流しながら語った。
  6. 更に2013年のNHKマイルカップをマイネルホウホウで勝ち、平地のGI初勝利を飾った。
    • レース後のインタビューで再び号泣しながら「(平地の)GIを勝つ日が来るなんて夢のようで…」と語った。
  7. 2011年以降、平地競走での勝利数は二桁を記録している。
西田雄一郎
  1. 1995年に騎手免許を取得しデビュー。デビュー年で10勝を挙げ、翌年には重賞も制覇する。
  2. しかし1998年にスピード違反を起こし、出頭の前にまたもスピード違反を起こしてしまい、責任を取る形で騎手免許を返上。その後は山元トレーニングセンターでスタッフとして勤務した。
  3. その後2005年にJRAの騎手免許試験を再度受け合格。騎手として復帰した。その後重賞を2勝している。
    • 復帰後の2勝は全て新潟の直線1000mのアイビスサマーダッシュであり、それ以外にも直線1000mのレースでの成績は良く、「千直マイスター」とも呼ばれている。
      • そんな中、2017年にピカピカという馬で得意の新潟直線1000mの未勝利戦を勝利したのだが、そのときの写真には頭がピカピカな西田騎手が映っていた。
        • 45歳でざんねんな頭髪になったのはそれだけ苦労した証なのかもしれないが馬も騎手もピカピカという構図はネットで大いに受けたのは言うまでもない。
          • ちなみにピカピカは2勝を挙げたがどちらもその時の鞍上は西田騎手であった。
  4. なお、「カシノピカチュウ」の主戦だったこともある。

その他[編集 | ソースを編集]

ベン・ウォーレス
  1. 「NBA史上最高のドラフト外選手」と評されている選手。
    • 2021年にはドラフト外選手として史上初のバスケットボール殿堂入りを果たしている。
  2. 高校時代はバスケットの他にアメフトや野球をやっており、いずれも州の代表に選ばれるほどの選手だった。
    • それにも関わらず、大学からバスケットボール選手としてオファーされることは無かった。
  3. 高校卒業後はクリーブランドのコミュニティカレッジで2年間プレー。
    • その後、高校時代からプレーに注目していたチャールズ・オークリーの推薦で大学2部リーグのバージニア・ユニオン大学へ編入。
  4. 大学卒業後はNBA入りを熱望していたが、ドラフトではどのチームからも指名されなかった。
    • NBA入りを目指してボストン・セルティックスのサマーリーグに参加したが、実力を発揮できないまま解雇。
    • イタリアのチームでプレーした際、ワシントン・ブレッツ(現:ウィザーズ)GMのウェス・アンセルドが実力を評価しブレッツにドラフト外で入団。
  5. ブレッツ→ウィザーズではクリス・ウェバーの退団後、控えながら得意のリバウンドとディフェンスで実力を示す。
    • 1999-2000シーズンの開幕前、ディフェンス力に目を付けたオーランド・マジックにトレードで移籍。
  6. マジックでは全81試合で先発として出場し、1試合平均8.2リバウンド・1.6ブロックとディフェンス面で持ち味を十二分に発揮。
    • 1999-2000シーズンの終了後、2対1の交換トレードでデトロイト・ピストンズにトレードで移籍。
  7. ピストンズ移籍後は驚異のディフェンス力を発揮し、NBA最優秀守備選手賞のタイトルを4回も獲得。
    • 最優秀守備選手賞を4回も獲得したのはベンとディケンベ・ムトンボしかいない。
    • 特に2001-02シーズンはリバウンド王とブロック王のタイトルを同時に獲得した史上4人目の選手となった。
  8. 2003-04シーズンにはチャウンシー・ビラップスやラシード・ウォーレスといった強力なチームメイトを得て、NBAファイナルに進出。
    • ファイナル第5戦では18得点・22リバウンドを記録し、チームも4勝1敗で4連覇を狙うロサンゼルス・レイカーズを倒し、NBAチャンピオンに輝いた。
  9. 2度目のファイナル進出を果たした2004-05シーズン終了後にピストンズを退団。
    • その後はブルズ→キャバリアーズを経て2009-10シーズンにピストンズへ復帰し、2011-12シーズンを最後に現役を引退した。
  10. 身長206cm(実寸は200cm程度らしい)とNBAのセンターとしては決して高くないが、肉体・ベンチプレスMAX209kgの怪力・長い腕・身体能力を駆使し、ディフェンスではNBAトップクラスの実力を誇っていた。
  11. 唯一ざんねんだったのはオフェンス。フリースローの成功率はキャリア通算で41.8%しかなかった。
北島康介
  1. アテネ・北京オリンピックで日本人初の2大会連続2種目制覇
  2. 世界選手権での2種目制覇は2003年だけだが大舞台のオリンピックには強い
  3. 2004年の流行語大賞を受賞
    • 続く2008年も名言を残している
    • 2012年の流行語大賞ノミネートにも関わっている
  4. 北京オリンピックではあの東原亜希が観戦していたが、きっちり金メダルを獲得し世界新記録を逃す程度で済んだ。
鈴木明子
  1. 10代では成績が伸びず、摂食障害にまで悩まされた。
  2. 20歳を過ぎてから才能が発揮、オリンピック2大会連続出場と世界選手権銅メダルを果たした。
    • 引退時のスポーツ人生を振り返る言葉は、「人生谷あり谷あり谷あり谷あり山あり」。
スティーブン・ブラッドバリー
  1. オーストラリアのスピードスケート選手。
    • 1991年の世界ショートトラック選手権では団体戦に出場し、オーストラリアにウインタースポーツ競技初めての金メダルをもたらし、1994年のリレハンメル五輪ではショートトラック5000mリレーで決勝3位になり、オーストラリア初の冬季オリンピックメダリストになった。
      • しかし1994年に転倒しその際にスケートの刃で足を切り4リットルもの大量出血し100針以上縫う大けがを負い、2000年にもトレーニング中のアクシデントで首の骨を折り、6週間首を固定する医療機器を着けて過ごすなど二度の命にかかわるアクシデントを受けてしまう。
  2. 2002年ソルトレークシティ冬季五輪のショートトラック1000mで金メダル獲得。準々決勝以降のレース展開はまさに幸運。
    • 準々決勝→3位入線も2位に入った選手が妨害で失格になり繰り上がりとなり準決勝進出。
    • 準決勝→先頭集団に置いていかれ最下位追走だったがゴール前で3人転倒で2位で入線。その後1位の選手が妨害して転倒させたと分かり失格。その結果1位繰り上がりで決勝進出。
  3. そして決勝、スタートからブラッドバリーは置いて行かれる。「身体が痛くてペースについていけなかった」と本人が後に語るほどであり、完全に優勝争いの蚊帳の外の外の外の状態。
    • しかし、最終コーナーを回り最後の直線で先頭争いをしていた4名が互いに接触して全員転倒。終始最後方を走っていたブラッドバリーは体勢を立て直さんとしている4名の横をすり抜け先頭でゴールイン。
      • 数多の偶然と幸運が重なった結果オーストラリアどころか南半球として初めての冬季オリンピックの金メダリストとなったのであった。でも、その幸運の陰には二度に渡る大けがという不運があったのかもしれない。
  4. その功績を称え、オーストラリアでは彼の記念切手が作られ、またオーストラリアの俗語事典には「doing a Bradbury」(意味:意図しなかったり、普通は考えられないほどの成功を得る)が掲載された。
宮里優作
  1. 宮里三兄弟の真ん中。
  2. 2002年にプロ転向するが、兄の聖志がプロ4年目、妹の藍がアマチュアでツアー優勝を果たしたのに対し、優作はなかなかツアー優勝出来なかった。
  3. 2013年、プロ11年目にして日本ゴルフメジャー大会である「日本シリーズ」で初優勝を果たす。
  4. それ以降から勝ち星をあげるようになり、2017年には現役日本ゴルフツアー機構会長初の賞金王にも輝いた。
トム・ブレイディ
  1. 2000~2020年のNFLを代表する一大QB。「Q:スーパーボウルを一番制しているチームはどこですか? A:ブレイディ」というネタが存在するほど(最多勝チームは6勝、ブレイディ個人は7勝)。
  2. しかし彼、オレンジボウルを制したQBなのにドラフト6巡目(全体199位)まで残っていたのである。理由は体格がひんそーなのに走れない投げれないと、カレッジ基準ならともかくNFL基準ではダメダメだったため。
  3. しかしながらNFLシーズン2年目、ひょんなことから回ってきた先発QBで非凡なプレイを見せつけるとその勢いでスーパーボウルまで制覇。王朝とまで言われる超長期政権を築く事となる。
  4. その後年齢もあって放出されるが、その移籍先のチームでまさかのSB制覇。当時の最年少SB制覇QBに加え、最高齢SB制覇QBの座も手に入れてしまった。
  5. 2021年に様々な最高記録を打ち立て、本人も引退を示唆していたがまさかの撤回、某Y元同様に老易の象徴となりつつある。

競走馬[編集 | ソースを編集]

アンバーシャダイ
  1. 父は大種牡馬のノーザンテーストだが、当歳時に右膝に獣医師が匙を投げるほどの重傷を負い、その後は1年近く放牧地で遊ばれていた。
    • 競走年齢の3歳時に栗東に入厩したが、その直後に受け入れ先の調教師が急逝。
      • ゴタゴタの末、美浦の二本柳俊夫厩舎に入厩したが、見栄えのしない馬体が嫌われて担当厩務員もなかなか決まらなかった。
        • 最終的に太田英二が志願して担当になったが、第一印象は「まるでドブから出てきた馬」というものだった。
  2. 4歳時に出走した重賞は日本ダービー(オペックホースの9着)のみで、それ以外は条件戦のみを走った。
  3. 5歳時は徐々に力をつけ、ダイヤモンドS3着・毎日王冠2着・秋の天皇賞4着・秋の目黒記念1着と確実にステップアップ。
    • そして迎えた暮れの有馬記念、同じ厩舎でこのレースがラストランだったホウヨウボーイを一気に差し切り、八大競走初制覇を果たした。
      • しかし鞍上の東信二は後に2着狙いのレースをしたと明かしており、「交わした瞬間は『ウワァ、どうしよう勝っちゃった』って感じ」「ホウヨウボーイに悪かった」と当時を振り返っている。
  4. 6歳時は春の天皇賞と有馬記念で2着。7歳時は春の天皇賞を勝ち、秋の天皇賞と有馬記念で3着。
    • 有馬記念を最後に現役を引退したが、引退時の獲得賞金は4億6205万4400円で当時の歴代1位の記録だった。
  5. 種牡馬としても多数の活躍馬を出し、特に代表産駒の1頭・メジロライアンは後にメジロドーベル・メジロブライトという2頭のGI馬を輩出した。
サンデーサイレンス
  1. アメリカの競走馬。ダービー・プリークネスS・BCクラシックを勝ち競走実績は文句なしだが、種牡馬としては買い手がつかず即日本に売却されることに。
    • 見栄えが悪く売れ残る、下痢により生死を彷徨いかける、馬運車が事故に巻き込まれるも唯一頭生き残ると、競走馬になる前から数奇な運命に巻き込まれ続けた。
  2. 来日後の活躍は説明不要。日本史上最高の種牡馬である。
スターロツチ(スターロッチ)
  1. 1957年生まれの牝馬。兄に啓衆社賞最優秀3歳牡馬(今の最優秀2歳牡馬)ライジングウィナーを持つ良血・・・だったのだが。
  2. この馬は腰から後躯にかけての筋肉がひ弱でとても強い馬には見えなかった。
    • 結果買い手は現れず、日本中央競馬会に買い取られ、育成牧場に送られた。この時点で競走馬として期待されていなかったということである。
      • しかし育成牧場で調教を重ねていくにつれ見違えるほどの成長を遂げた。その後抽せん馬として馬主の藤井金次郎氏に頒布された。
  3. デビューから6戦3勝という安定した戦績で桜花賞へと駒を進めるも、3勝のうち2勝は抽せん馬限定のレースだったためレベルが低いとみなされていた。
    • 当日は5番人気という評価だったものの勝ち馬とは0.1秒差の3着に入る好走を見せた。しかし次に出走した4歳牝馬特別(今のフローラステークス)では調教が不十分だったためか7着に惨敗。
      • オークスには出走できたが、当日の人気は9番人気という低評価だった。しかし調子を戻していた同馬は大外から差し切って優勝。売れ残り同然だった抽せん馬がクラシックを制するという下剋上を遂げたのだった。
  4. その後は夏~秋とレースに出るもオープン競走は勝てたが重賞になると今一歩のレースが続く。
    • しかし12月の特別ハンデキャップ競走を一度も鞭を入れずに勝利したことで推薦枠として年末の大一番有馬記念への出走ができるようになった。
  5. この年の有馬記念には二冠馬コダマを初めダービー馬コマツヒカリ、天皇賞馬オーテモンなど有力馬が揃っており、オークス以降重賞の勝利がない同馬は9番人気と評価されなかった。
    • しかしレースがスタートするとヘリオスと共に二頭で逃げを打つ。有力馬は後方で牽制しあう状態になりスローペースに。
      • ヘリオスが失速し後退するも同馬は先頭に立ち追いすがるオーテモンの追撃を押さえ優勝。4歳(今の3歳)牝馬としては史上初で今なお唯一の有馬記念制覇という快挙を遂げた。
  6. その後は古馬となってからは精彩を欠くレースが続き、京王杯オータムハンデ(今の京成杯オータムハンデ)で久々の勝利を挙げるものの、次走の毎日王冠で故障し競走中止。
    • 一命はとりとめたもののこのレースをもって引退。繁殖に入った。
  7. 繁殖馬としては仔に大きな活躍をした馬は出なかった。しかし産駒たちの仔からはサクラスターオーやウイニングチケットなどGIで活躍する馬を輩出していき、スターロッチ系という系統図を作りだしたのだった。
テイエムプリキュア
  1. デビューから3連勝でGI(阪神ジュベナイルフィリーズ)を勝ったが、その後は5歳暮れまで負け続け、2009年の日経新春杯を最後に現役を引退して繁殖牝馬になる予定だった。
  2. ところがこのレースで大逃げを打ち、2着のナムラマースに3馬身半差を付けて勝ってしまった。
    • 鞍上の荻野琢真騎手も重賞初勝利となった。
  3. この勝利により急遽予定が変更され、現役を続行することになったが、3戦走っていずれも惨敗…。
  4. しかし12番人気で臨んだエリザベス女王杯では、クィーンスプマンテと共に逃げまくって2着に粘った。
  5. その後は翌年(2010年)のエリザベス女王杯まで現役を続けて引退。
  6. 生涯獲得賞金は2億474万1000円で、落札額の262万円に対して約80倍の賞金を稼いだ。
  7. 馬名の影響か人気もあり、引退レースとなった2010年のエリザベス女王杯では横断幕がパドックに9枚も掲げられていた。
ノーザンテースト
  1. カナダ生まれの競走馬。ヨーロッパで20戦5勝の成績を残し、GI(フォレ賞)も勝利した。
  2. 1975年に種牡馬として日本に輸入。
    • 当初はその独特の容貌(短い足と大きな頭)から、一部生産者から「犬のような馬」「態々(わざわざ)カナダからヤギを買ってきたのか」と揶揄された。
  3. しかし種牡馬として1979年から2006年まで中央競馬で28年連続で産駒が勝利を収め、通算で10回のリーディングサイアーに輝いた。
    • ブルードメアサイアー(母の父)としても1990年から2006年まで17年連続でリーディングブルードメアサイアーを獲得した。
ハルウララ
  1. 高知競馬所属の競走馬。デビューしたはいいが、連敗続き。故障のため、一時は引退もささやかれた。
  2. しかし、リストラ寸前の姿が全国ネットの番組に取り上げられると、瞬く間にアイドルホースとなる。
    • 武豊騎手が騎乗したときは高知競馬の一日の売り上げ記録と入場者の記録を更新した。
      • これが切っ掛けで高知競馬そのものも廃場の危機を救われた。
        • 因みに武豊騎手が騎乗したレースは毎日放送の「ちちんぷいぷい」で生中継されていたが、瞬間最高視聴率は19.9%・平均視聴率は12.2%を記録した。
    • 元々は高知競馬の実況アナウンサーの橋口浩二が「連敗続きのハルウララを日本のジッピーチッピーとして売り出せば、高知競馬も少しは盛り上がるんじゃないか」と思い、周囲にハルウララの話を言い広めていった。
      • ジッピーチッピーというのは、アメリカで連敗を続けたことで人気を集めた競走馬のこと。
    • そんなハルウララの話を聞いた高知新聞の記者が「記者の本能でネタになると思い」、取材を開始。
    • そして2003年6月13日の高知新聞の夕刊にハルウララの記事が掲載。
    • これを目にした高知競馬の広報担当の職員は当時高知競馬が廃止寸前の状況だったことを鑑み、「何でもいい。人目を引くことをしないと」という思いから高知競馬の管理者の許可を得て、ハルウララに関する資料をマスコミ各社に送付。
    • その結果、同年7月23日の毎日新聞全国版に記事が掲載され、更にその記事がフジテレビの「とくダネ!」で大きく取り上げられたこともあり、この日を境にハルウララは様々なメディアに取り上げられるようになった。
      • なかにはハルウララの単勝馬券を「リストラ防止になる」「(当たらないから)交通安全のお守りになる」という理由で買う人達も現れた。
    • 一方で生産者の信田信義はこのフィーバーを良く思っておらず、「負け続けの馬を生産したとしか評価されない」「高知競馬存続の話題作りに過ぎない」「自分の懐が痛まなきゃどうとでも言える」と語った。
  3. 引退後は繁殖牝馬として供用される予定も断念。その後は長らく消息不明だったが、現在は千葉県の御宿町のマーサファームで余生を過ごしている。
  4. ウマ娘 プリティダービーでは、アニメ第1シーズンから出演しており、その後リリースされたアプリでも実装。
    • 貴重なダート適正の高いウマ娘となっており、元ネタでは終ぞ叶えられなかったレースでの勝利はもちろん。重賞レースや果てはJBCスプリントの勝利、そして有馬記念への出走も頑張れば叶えられる。
    • なお、マーサファームにもウマ娘で彼女を知った人たちが訪問するようになったという。
ブライアンズタイム
  1. 1985年生まれの牡馬。現役時代はアメリカでGIを2勝した。
    • 三冠競走にも皆勤しているが、ケンタッキーダービー6着・プリークネスS2着・ベルモントS3着というあと一歩足りない着順に終わっている。
  2. 引退後の1989年に日本で種牡馬入り。
    • 実は当初、この馬の従兄弟のサンシャインフォーエヴァー(1988年の全米芝チャンピオン)が輸入される予定だったが、金銭の条件で折り合いが付かず交渉決裂。
      • 決裂後に馬主側から「従兄弟のブライアンズタイムなら出せる」という代案を提示され、それを承諾して日本に輸入されたという有名なエピソードがある。
        • 本馬の活躍後にサンシャインフォーエヴァーも日本に輸出されたが、全く活躍できずにアメリカに帰国している。
  3. 初年度産駒からいきなり牡馬クラシック三冠馬のナリタブライアンとオークス馬のチョウカイキャロルを輩出。
    • その後もGI4勝のマヤノトップガン・皐月賞とダービーを逃げ切ったサニーブライアン・牝馬GI3勝のファレノプシスなどを輩出し、一躍大注目を集めることに。
    • 特に1997年の牡馬クラシック路線は上記のサニーブライアン、シルクジャスティス、シルクライトニング、エリモダンディーといったブライアンズタイム産駒が中心となって回していた。
  4. その後も2002年の日本ダービーを勝ったタニノギムレット・ダートGI4勝のタイムパラドックス・同じくダートGI(JpnI)6勝のフリオーソなどを輩出。
    • 同世代にサンデーサイレンスやトニービンがいたこともありリーディングサイアー首位の座は獲得できなかったが、1994年から2009年まで16年連続でリーディング10位以内をキープし続けた。
      • 更に産駒は1993年から2012年まで20年連続で重賞を勝ち続けた。
  5. 28歳となった2013年も10頭と交配していたが、放牧中に転倒し右後脚の大腿骨骨折を発症してしまい、安楽死の措置が執られた。
メリーナイス
  1. 1984年生まれ、1987年のダービー馬。
  2. 1987年のクラシック組の主力の多く(サクラスターオー、マティリアル、ゴールドシチー)が現役中や引退直後に亡くなる中、唯一種牡馬入りするまで生き残った。
    • しかしながら、後継種牡馬は残せず、2009年に25歳で没した。
    • ただ同期だとマイネルダビデ(2021年没)が最後まで生き残っていた。
キョウエイボーガン
  1. 1989年生まれの牡馬。1992年の中日スポーツ賞4歳ステークス、神戸新聞杯に優勝した。
  2. 同年の菊花賞では、ミホノブルボン、ライスシャワー達を相手に大逃げをするが第3コーナー出口で失速し16着に沈む。
    • この際、ライスシャワーと並んで「ミホノブルボンの三冠を妨害した」として批判された。
  3. その後は目立った活躍をできず、1994年に競走馬を引退した後は種牡馬や乗馬にもなれず廃用になる予定だったが、ファンの女性に引き取られ、群馬県東吾妻町の乗馬クラブ「乗馬クラブアリサ」で余生を過ごしている。
    • 2022年の元日に33歳で大往生した。

関連項目[編集 | ソースを編集]