幸運な日本史の人物事典
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古代[編集 | ソースを編集]
藤原不比等[編集 | ソースを編集]
- 大化改新で活躍した中臣鎌足の子で、奈良飛鳥時代の政治家。
- 鎌足はその功績から、中大兄皇子(天智天皇)から「藤原」の姓を賜るが、藤原を名乗る前に亡くなっている為、藤原姓としては不比等が初代となる。
- 鎌倉時代以降、貴族としての「藤原」さんが沢山増えすぎたので、嫡流の藤原北家は、後に「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」に分割(五摂家)
- 昭和初期に内閣総理大臣を務めた近衛文麿はこの五摂家の人。近衛文麿の孫には元首相の細川護熙がいる。
- 鎌倉時代以降、貴族としての「藤原」さんが沢山増えすぎたので、嫡流の藤原北家は、後に「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」に分割(五摂家)
- 鎌足はその功績から、中大兄皇子(天智天皇)から「藤原」の姓を賜るが、藤原を名乗る前に亡くなっている為、藤原姓としては不比等が初代となる。
- 日本において、天皇家に次ぐ血脈を持つ貴族「藤原氏」繁栄の祖となる。
- 娘の光明子を聖武天皇の后(光明皇后)として嫁がせたことによって、天皇の外戚という立場で権勢を握るという今後の藤原氏の前例を作った。
藤原永手[編集 | ソースを編集]
- 不比等の息子の四兄弟が興した四家のうちの、北家の祖房前の次男(ただし長男が夭折したので実質長男)。
- にもかかわらず、35歳まで従五位下と言う貴族としては最下位の位だった。
- だが政治的嗅覚が鋭かったのか、玄昉・藤原仲麻呂・道鏡と言った政治的大敵に対しきっちり正確に対処。後の北家繁栄の基礎を築いた。
- 温和で平衡感覚に優れた人物と言われている事からしても、政治家としてはかなり優秀だったのだろう。
- 惜しむらくは直系の子孫が弟の真楯ほど発展しなかった事か。
中世[編集 | ソースを編集]
那須与一[編集 | ソースを編集]
- 平安~鎌倉時代の武将。
- 与一の名前は、那須家の11男(「十あまる一」で与一)だから。
- 源平合戦の折、与一と10番目の兄為隆を除いて、父と他の兄は平家方に組してしまう。
- ご存じの通り、源平合戦では源氏方が勝利し、後に為隆も罪を犯してしまうことから、11番目の男子であるにもかかわらず、那須家の当主になる事ができた。
- 後世では弓の名手として知られる。
- とはいっても唯一の見せ場は屋島の合戦で、源義経の命により平家方の船に括りつけられた扇を弓で射ぬいたという場面だけである。
- 平家物語にしても屋島以外での与一の足跡は無く、船で揺れ動く遠い先の扇を一発必中で射抜いたことから後世に名前を残したというのは幸運な話である。
- 実は弓の名手としての評判としては、兄為隆の方が知られていたが、その時、為隆が手にケガをしていたためのピンチヒッターで与一に指名が入ったことによる。
竹崎季長[編集 | ソースを編集]
- 鎌倉時代の貧乏御家人。
- 現代では元寇の際に自分の手柄を描いたとされる『蒙古襲来絵詞』の人として、歴史の教科書で知られる。
- 肥後の国の御家人で、元寇が始まる前の家の状態は、親族との所領争いに負けた典型的な没落御家人となっていた。
- 第一次元寇(文永の役)では自分含めて僅か 5人の供回りで参加。元軍相手に先駆けを行う。
- 先駆けとはいっても、元軍にダメージを与えたというより、自身も負傷してかえって危機的状況を作り出し、周りに助けてもらうことになる。
- とはいっても、先陣を駆けたという事で武功を主張するが、総大将の少弐景資が武功として認めなかったのか、それとも単に忘れていただけなのか、鎌倉府には季長の功を報告しないでいた。
- 恩賞が貰えず埒が明かないので、単身鎌倉に直訴しに行く。
- 少弐景資に言っても埒が明かないので、鎌倉まで出向き、重臣の安達泰盛に何とか面会の機会が与えられる。
- 鎌倉までの旅費なんて工面できないので、自分の馬などを売ってどうにか鎌倉行の費用を捻出する。
- 幕府の重心が、九州の辺境の下級武士に会ってくれるというだけでも充分幸運ともいえる。
- 安達泰盛に掛け合った結果、何とか所領と帰路用の馬を褒美としてもらうことに成功する。
- 少弐景資に言っても埒が明かないので、鎌倉まで出向き、重臣の安達泰盛に何とか面会の機会が与えられる。
- 第二次元寇(弘安の役)では元軍の船に切り込んだりと活躍を見せる。
- 前回(文永の役)と違って、今度はちゃんとハッキリとした軍功を立てることに成功する。
- 2回の戦役での自分の軍功をしっかりとアピールするために作らせたのが『蒙古襲来絵詞』。これのおかげでただの下級武士なら良くて「竹崎某」となるところを、後世までしっかりとフルネームで名前を残すことができた。
今川氏真[編集 | ソースを編集]
- 桶挟間で戦死した義元の跡を継いで今川氏を当主となったが・・・。
- 信長への復仇に消極的だったがために部下や同盟相手から愛想を尽かされ、その後徳川・武田の二方向から攻め入られ降伏。結果的に一代で今川家を駄目にしてしまう。
- その後は妻の実家であった北条氏に落ちのびさらに徳川家の庇護を受け、最終的に江戸の品川の屋敷を与えられ、そこで77歳で亡くなった。
- しかし彼自身、塚原卜伝から剣を学び自らの流派として発展させたり、和歌や連歌といった詩文の能力に優れ、また蹴鞠の技術に関しては織田信長も深く興味を示していた。
- その文化的才能は朝廷との交流に大いに役立つことになる。父の代から公家との交流を持ち、氏真にもしっかりと受け継がれたそのスキルは徳川幕府にとって欠かせない存在となり、今川家はその後も長く直系が続くこととなった。
織田有楽斎[編集 | ソースを編集]
- 織田信長の弟で茶人。
- 本能寺の変の時に、当時の織田家当主の織田信忠と共に二条御所におり、信忠は父信長の仇と明智軍と戦って奮戦し自害するが、自身は脱出して生き残る。
- その為、信忠の自害を促したのは有楽斎とも噂されるようになる。
- 「自分も後を追う」と言って主君に当たる信忠に自害を勧め、自身も自害の支度をすすめるが、結局どさくさに紛れて自分だけ遁走をする。
- その為、信忠の自害を促したのは有楽斎とも噂されるようになる。
- 織田家の家格が功を奏して秀吉、家康と主を変えて、それなりに家名を残し明治維新まで家が続く。
仙石秀久[編集 | ソースを編集]
- 豊臣家(羽柴家)の武将で、某マンガの主人公。
- 羽柴秀吉の元で武功を挙げて、羽柴家家中では初めて大名に取り立てられるが、戸次川の戦いで大チョンボをやらかし領地没収。素浪人になる。
- そのおかげで、長宗我部家および高知県民からはひじょーに嫌われる。
- 小田原征伐では、徳川家康に陣借りをして参戦し武功を立てて、再び大名に取り立てられるようになる。
- 一方小田原征伐の折に、のこのこと秀吉の前に現れた山上宗二や尾藤知宣が処刑されたことから見ると、一度没落したにもかかわらず活躍して大名になったのは幸運である。
- 箱根にある地名の仙石原は、一説では小田原征伐で「鈴鳴り武者」として活躍した仙石権兵衛秀久から取ったとも伝えられている。
- 一応、豊臣恩顧の大名ではあるが、関ケ原の戦いでは東軍側に付く。
- 戸次川の失態とは言え、領地没収をされた豊臣家と、小田原征伐の際に引き立ててくれた徳川家でどっちに付いたらマシか、天秤にかけての結果と思われる。
- 関ケ原の戦いでは中山道を行く徳川秀忠軍に従う。
- 上田城に籠る真田昌幸に苦戦する秀忠を見て「ここで手間取ってたら西軍との決戦に遅参することになるから、ここは自分にまかせて秀忠様は早く大御所様(家康)の元へ急がれよ」と述べる。結果的には関ケ原の戦いで大遅参をして家康から大目玉を喰らうが、以降、秀忠の時代には取り立てられるようになる。
立花宗茂[編集 | ソースを編集]
- 大友宗麟に仕えた名将で、嫁さん(誾千代)の実家である立花家を受け継いだ超すげー人物。
- 当時の歴史書ではやらかしエピソードこそあれ、ディスりが全く描かれておらず、「東に本多忠勝や真田信之と言った名称がいるが、西の最強武将は宗茂だ」とまで記されている。
- お父さんの高橋紹運は仲間を守る為に自ら犠牲になったほどの忠臣であった。その鉄の心を受け継いだ宗茂は関ケ原の戦いでも当然豊臣方に加勢する。
- 勿論、知っての通り豊臣方は敗北。宗茂は紹運の仇である島津義弘(この人もほぼ死にかけで関ヶ原を脱出した)と共に急いで九州まで逃げ帰るが、国元は黒田官兵衛にボコボコに攻められていた。あんまりだ。
- かくして家康からは改易を命じられ、牢人にまで落ちぶれる。そして妻にも先立たれた。
- しかしこの男、江戸まで上って行って「徳川さ~ん、この間は西軍についてごめんね~、反省したから助けて~」と頼み込み、なんと家康の片腕・本多忠勝から召し抱えられる。
- そしてなんと大名に返り咲く。こんなことが出来たのも、宗茂が並外れて優秀だったからに他ならない。
- 関ヶ原で改易を受けた大名の中で、外様大名として一国一城を与えられたのは宗茂だけである。
- 大坂の陣が起きると、家康から「お願いだから西軍に付かないで下さい」と懇願され、戦後は本来の領地を全て返却された。
- そしてなんと大名に返り咲く。こんなことが出来たのも、宗茂が並外れて優秀だったからに他ならない。
保科正之[編集 | ソースを編集]
- 江戸時代最初期の幕臣にして会津藩初代藩主。元々不義密通の子という大ハンデから、大政参与(事実上の大老)までのし上がり、しかもムチャクチャ活躍したというリアルシンデレラストーリーを辿った人。
- 父親は二代将軍徳川秀忠だったが、身分の低い侍女相手に浮気して作った子だったため、妊娠が発覚した途端に見性院(武田信玄の次女)に預けられ、そこで育った。
- 誕生後、武田の遺臣である保科正光の養子となって保科家(2万5千石)の跡取りとなる。
- そして大人になった後に出自を知った異母兄・三代将軍家光に仕え、21歳の若さで正光の後を継ぎ3万石を得る。
- さーここからが凄いぞ。秀忠の死後、家光からは出羽山県藩20万石を与えられる。実に7倍の加増だ。
- しかも、領民は「オラたちゃ正之様のもとさ付いていくだ!」とそのままゾロゾロついていった程に慕われていた。まるで劉備である。
- 島原の乱平定後、会津藩に転封。更に増えて23万石。ちなみに御三家最弱の水戸藩(実は逆サバを読んでいた)とほぼ同じである。
- 家光が亡くなった時には「まだワシの子・家綱は小さいから、お前が助けてやってくれ」と泣いて頼まれ、正之も「未来永劫我が一族は将軍家を守ります」と泣きながら答えたという。
- これが幕末に一波乱起こすんだけど、それはまた別の話。
徳川吉宗[編集 | ソースを編集]
- 歴史上でも類を見ない棚ボタで将軍になれた。
- まず、吉宗には兄が3人いた(次男は幼少期に早世)。
- 1705年に(既に父から紀州藩主の座を受け継いでいた)長兄が亡くなると、三兄が継いだが、同年に三兄と父が亡くなる。
- 従って四男の吉宗が紀州藩主となった。
- 1705年に(既に父から紀州藩主の座を受け継いでいた)長兄が亡くなると、三兄が継いだが、同年に三兄と父が亡くなる。
- さらに1716年には徳川家7代将軍徳川家継が早世する。
- このとき、家光の子孫の館林藩松平清武・清方父子や尾張徳川家(こっちのほうが兄貴筋)もいたのだが、
- 館林松平家は館林藩の混乱、清武が一度養子に出たこと、高齢であったこともあって選出されず。
- 尾張徳川家は3年前に4代と5代が相次いで亡くなり、紀州家のほうが家康との続柄が近くなっていた。
- このこともあって吉宗が8代将軍となった。
- このとき、家光の子孫の館林藩松平清武・清方父子や尾張徳川家(こっちのほうが兄貴筋)もいたのだが、
- 以降は徳川家の中興の祖となった。
近・現代史[編集 | ソースを編集]
- 関連項目:ざんねんな内閣総理大臣事典
昭和天皇[編集 | ソースを編集]
- 父帝・大正天皇の後継者として25歳の若さで即位した天皇。
- 日本軍の暴走を止めることができず、結局、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発してしまう。
- 敗戦の際は昭和天皇自身も戦犯にかけられてしまう可能性があることを覚悟していた…。
- しかし終戦後、アメリカの強い意向で戦犯指定を免れた。
- 戦後は東京オリンピックや高度経済成長を経験し、日本をアジアで唯一の先進国(当時)に育て上げた偉大な功績から、現在では明治天皇と並び大帝と称され、非常に高い評価を得ている。
- 1989年、87歳で崩御されたが、これは(伝説上の天皇を除き)当時最も長生きされたと言われている。
吉田茂[編集 | ソースを編集]
- 高知の政治家、竹内綱の子として生まれたが、綱が政治犯として逮捕されてしまったため、孤児となる。
- また、母親の身元は未だに分かっていない。
- しかし綱の友人であった神奈川の大富豪、吉田健三に養子として引き取られた。
- そして健三が若くして亡くなったため、茂は莫大な遺産を相続した。
- 東大卒業後は外交官として働いていたが、親英米派だったため軍部から厳しく監視されており、逮捕されてしまった。
- 後に吉田の屋敷にお手伝いさんとして忍び込んでいたスパイがいたことが発覚している。
- しかし終戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の信用を勝ち取ることができた。
- 友人の鳩山一郎と異なり公職追放されずに済んだ。
- 1946年に鳩山の代わりに第45代首相に就任するが、僅か1年で退陣。
- しかしその後の片山哲、芦田均の両内閣がお粗末な政権だったため(合わせて1年半程度で)短期崩壊したため、再び首相に就任(第48代)し、そのまま6年間(第51代まで)続投した。
- 第1次吉田内閣を含むなら約7年間となる。これは歴代でも安倍晋三氏、桂太郎、佐藤栄作、伊藤博文に次いで5番目に長い。
- あの小泉純一郎氏より1年半ほど長いのである。
- 第1次吉田内閣を含むなら約7年間となる。これは歴代でも安倍晋三氏、桂太郎、佐藤栄作、伊藤博文に次いで5番目に長い。
- しかしその後の片山哲、芦田均の両内閣がお粗末な政権だったため(合わせて1年半程度で)短期崩壊したため、再び首相に就任(第48代)し、そのまま6年間(第51代まで)続投した。
- GHQの協力の下、新たな民主主義国家として日本を蘇らせ、経済復興も果たした。
- 弟子として池田勇人や佐藤栄作、田中角栄などを育てた。
- 吉田学校と言われている。
- 1967年に89歳で亡くなった。
- その後、弟子だった佐藤首相が吉田の国葬を実施した。当時としては戦後唯一国葬された人物だった。
岸信介[編集 | ソースを編集]
- 第56、57代内閣総理大臣を務めた政治家。
- 佐藤栄作は実弟。安倍晋三元首相は孫である。
- ちなみに生まれた時は佐藤信介だったが、岸家に養子に出された。
- ちなみに晋三氏の弟である岸信夫氏も信介と似たような感じで岸家を継いだ。
- 戦前は社会党への入党を断られたり、戦犯容疑にかけられるなど不運が続いた。
- しかし東条英機(東條英機)と異なりGHQに反抗しないという条件付きで釈放され、公職追放が解除された。
- 東条内閣の商工大臣(後の通商産業大臣、経済産業大臣)として入閣しておきながら東条内閣を内部から崩壊させた実績が認められたため。
- 戦後は首相として日米安全保障条約の改定や国民皆保険制度の制定などの功績を残し、後の池田勇人首相の所得倍増計画を実行しやすくした。
池田勇人[編集 | ソースを編集]
- 1899年に広島の名家に生まれた。
- 実家は裕福な造り酒屋だった。
- 少年時代は軍人を目指していたが、視力が低いことと背が低いことが理由で陸軍幼年学校に入学できなかった。
- 京大卒業後は大蔵省(今の財務省)に就職したが、ここは東大の学閥が非常に強かったため池田は出世コースから外されており、地方勤務の期間が長かった。
- 左遷を喰らっていたことは佐藤栄作とも共通する。(もっとも、佐藤は東大卒だが)
- 大蔵省の職員だった頃、落葉状天疱瘡という難病を発症したため、長期休職を余儀なくされる。
- しかし終戦後はこのような(お世辞にも輝かしいとは言えない)経歴だったおかげで公職追放されずに済んだ。
- 吉田茂に弟子入りし、大蔵大臣や通商産業大臣などを務めた。
- 第3次吉田内閣では「貧乏人は麦を食え」「中小企業の倒産は仕方ない」など庶民を舐めた失言をしまくり、大バッシングを受けた上に師匠の吉田から「お前はもう何も喋るな」と厳しく注意された。
- しかしこれを逆手にとって「私は嘘を申しません」(正直者です)をキャッチフレーズとし、岸信介の後継として第58・59・60代首相を務めた。
- 首相としては所得倍増計画を唱えていたが、当時は福田赳夫(福田康夫氏の父親)など反対していた人物も多かった。
- しかし見事成功させ、高度経済成長を果たし戦後の日本をアジアで唯一の先進国(当時)に育て上げた。
- 経済面での功績が強調されやすいが、外交面でも高く評価されている。
- 1964年の東京オリンピックを成功させた。
- 軽武装を推進したイメージがあるが、実は岸や佐藤などと同様に基本的には「軍事力や日米同盟を強化すべき」という考えの人物だった。
- ただし「まず先に国民生活を豊かにすることを優先し、その後に日本を再び軍事大国にしよう」と考えていた。
- 池田内閣は一度も支持率が不支持率を下回らなかった数少ない内閣でもある。
佐藤栄作[編集 | ソースを編集]
- 昭和時代の大物政治家。第61・62・63代目の内閣総理大臣を務めた人物。
- 東大卒業後、鉄道省(現在の国土交通省)に就職したが、地方勤務の期間が長く左遷も経験しており、お世辞にも出世コースを歩んでいたとは言えなかった。
- 兄の信介が農商務省(現在の農林水産省および経済産業省)で出世コースを歩んでいたのとは対照的。
- 吉田茂の弟子だが、佐藤のライバルの池田勇人が師匠からかわいがられていたのに対し、佐藤は(吉田のライバルの岸の弟だったのもあり)師匠からは冷遇されていたようだった。
- 首相になったのも池田より後だった。
- しかし首相になってからは前任の池田の高度経済成長をさらに強力に推進し、好景気のおかげで憲政史上稀に見る超長期政権を築いたのである。
- さらに大野伴睦や河野一郎(河野洋平氏のお父さん)といった強力なライバルが亡くなっていたのも大きかった。
- 前任の池田も病気を理由に退陣しており、翌年に亡くなった。
- ライバルが存在しない無敵の状態になった佐藤は三角大福中や鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一などを自民党や内閣の重要ポストに置き、競わせて育て上げたことから「人事の佐藤」と称された。
- これによりライバルの日本社会党による政権交代の実現を難しくし、自民党一強体制を確立した。
- 佐藤政権の7年8ヶ月は当時としては戦後最長記録であり、歴代でも桂太郎(7年11ヶ月)に次いで2番目に長かった。
- ただし佐藤の大甥の安倍氏が2019年に(第一次政権を含む通算となるが)佐藤や桂を抜いて在職日数歴代1位となっている。
- さらに大野伴睦や河野一郎(河野洋平氏のお父さん)といった強力なライバルが亡くなっていたのも大きかった。
- 調整力に長けた人物として有名だが、(長期政権だったのもあるが)同時に功績も沢山残している。
中曽根康弘[編集 | ソースを編集]
- 群馬出身の政治家。第71・72・73代目の内閣総理大臣を務めた人物。
- 三角大福中(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根)の一人だったが、佐藤栄作の後継者争い(自民党総裁選)では中曽根は小派閥を率いていたため勝ち目は無いに等しく、この頃は角栄の支持に回った。
- 一応福田は中曽根と同郷だったが、中曽根の派閥には河野洋平氏など角栄を支持していた若手議員も多かったため。
- その影響で群馬での人気は先輩の福田には劣る。実際、中曽根が首相在任中に2度行われた選挙でも(当時は中選挙区制だったため)旧群馬3区では2回とも福田がトップ当選している。
- そもそも旧群馬3区には後に首相になる小渕恵三氏などもいた超激戦区だったからね。
- なお角栄が勝利した総裁選のニュース映像を見た福田の母親は「(同じ高崎市出身でありながら福田を裏切った)中曽根を許せない」と言っていたらしい…。
- その影響で群馬での人気は先輩の福田には劣る。実際、中曽根が首相在任中に2度行われた選挙でも(当時は中選挙区制だったため)旧群馬3区では2回とも福田がトップ当選している。
- 一応福田は中曽根と同郷だったが、中曽根の派閥には河野洋平氏など角栄を支持していた若手議員も多かったため。
- 1976年にはロッキード事件への関与が疑われ、側近の佐藤孝行氏が逮捕されたが、中曽根自身には司直の手は及ばなかった。
- 同年の衆議院議員選挙では落選が囁かれていたが、ギリギリで当選した。
- 1978年の総裁選では「明治時代生まれのおじいちゃんがトップになるべき時代じゃない」(中曽根は大正時代生まれ)と世代交代を訴えるが、大平正芳に敗れ総裁の座を逃してしまう。
- ちなみに第1次大平内閣では幹事長を希望していたが、大平総裁に拒否されている。
- 大平首相の急逝後に発足した鈴木善幸内閣では大蔵大臣の座を渡辺美智雄に奪われ、さらにあまり重要でないポストに配属されたため、中曽根に対する世間の目は厳しかった。
- (当時としては)「三角大福中で唯一首相になれず、それどころか三角大福中ですらない鈴木にも遅れをとった」と失笑された。
- 鈴木善幸の退任後にようやく首相になるが、初期は(中曽根の派閥が小さかったのもあるだろうが)田中角栄の派閥の影響力が非常に強く、「田中曽根内閣」「角影内閣」「直角内閣」などのあだ名が付いた。
- しかし角栄がロッキード事件の裁判で実刑判決を受けた後は「田中派の影響力を排除する」と宣言し、以降は中曽根が政権の主導権を握った。
- そして中曽根内閣は4年11か月にも及ぶ長期政権となった。
- 後に「(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちた角栄」「外側に落ちた中曽根」と言われた。
- しかし角栄がロッキード事件の裁判で実刑判決を受けた後は「田中派の影響力を排除する」と宣言し、以降は中曽根が政権の主導権を握った。
- 1995年に福田赳夫が亡くなってからは三角大福中で唯一の存命者となり、元老のような存在感を出した。
- 1997年に議員在職50年を迎えたことから、存命人物でありながら大勲位菊花大綬章を受章している。
- 2004年に鈴木善幸が亡くなってからは昭和時代に首相を務めた人物で最後の存命者となった。
- 1997年に議員在職50年を迎えたことから、存命人物でありながら大勲位菊花大綬章を受章している。
- 2019年、老衰により101歳で亡くなった。大往生である。
- 日本の首相経験者では102歳で亡くなった東久邇宮稔彦王に次いで2番目に長生きした人物である。
- 死後、日本の勲章で最高峰の大勲位菊花章頸飾を受章した。(戦後の首相としては吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目)
- 大正、昭和、平成、令和の4つの元号を生き抜いた人物でもある。
- 戦前は海軍軍人だったが経理職として採用されたため、本人は前線に出なくて済んだ。
- ただ友人や部下の中には戦死した者も決して少なくなかった。
- こうした事情もあり中曽根と言えばタカ派のイメージが強いが、実は反戦主義者でもある。
- ただ友人や部下の中には戦死した者も決して少なくなかった。
小渕恵三[編集 | ソースを編集]
- 1998年の参院選惨敗の責任を取って総辞職した橋本政権の後継として第84代の総理大臣に就任したが…。
- 当時はねじれ国会だったため、参議院では民主党代表の菅直人が指名され、衆議院では自民党総裁の小渕が指名。
- 日本国憲法第67条の衆議院の優越規定によりなんとか首班指名を受けるなど、当初の政権基盤は不安定だった。
- しかも橋本前首相と同派閥だったことによる新鮮味の無さからマスコミからも批判を浴び、アメリカのニューヨーク・タイムズからは「冷めたピザほどの魅力しかない」と形容された。
- 首相というより、竹下登内閣の官房長官(平成おじさん)のイメージの方が強かったかもしれない。
- 就任半年後の1999年1月、政権基盤の安定を図り野党の自由党・公明党とともに自自公連立政権が発足すると政権基盤は安定。
- その後は周辺事態法、憲法審査会の設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法などの重要法案を次々と成立。
- 積極財政の成果もあり、バブル崩壊後の不況の影響で就任当時は16000円台だった日経平均株価は2万円台まで回復した。
- 2000年に脳卒中のため62歳の若さで亡くなってしまったが、未だに平成時代に首相を務めた人物の中では小泉純一郎氏に次いで人気が高い。
- 政敵だった菅直人氏も小渕氏の功績は素直に認めていたそうだ。