後漢
後漢の噂(一般)[編集 | ソースを編集]
- 五感成立
- 強姦ではない
- 光武帝が博多の酋長を倭人の代表と承認し、「漢委奴国王」の金印を与えた。
- 仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
- 王は帝の下だし、漢の辺境国の王と認めてやるよん、で合っているだろう。
- 「カンのワのナの国王」「カンのイドの国王」の二通りの読み方が考えられる。
- 「ナ」は博多周辺にあったことが確実視されている国。「イド」は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」(糸島半島にあった?)と同じところと思われる。
- 仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
- 金印を送る。
- 『後漢書』の中には「郷に入っては郷に従え」を論破できる表現がある。
後漢の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 光武帝、明帝を除くと全員10代以下で即位、40歳以上まで生きた皇帝は献帝だけだった。
- 歴代皇帝は病弱という以前に、ほら、後宮って常に女ばかりだからさ(以下略)
- 女ばかりの後宮は別に後漢だけの話ではないぞ。
- どうやら、服用していた薬がいけなかったようです。水銀や砒素などが調合されていたので……
- 不老不死夢見て水銀飲んだ挙句、早死にした。
- 年若い皇帝が連続した為、子供皇帝の権力を意のままにしようとする母親の外戚一族と、皇帝の面倒見係の宦官との間で権力争いが常に繰り広げられていたという状態だった。
光武帝[編集 | ソースを編集]
- 前漢の宗室の出ではあるが、皇族というほど近い関係ではない。無数に居た子孫のひとり。
- 大丈夫!後の自称「中山靖王の子孫」よりは身元がしっかりしているから。
- 他の皇族たちは考えもなく挙兵→返り討ち。劉隆、劉嘉は主体性なくていつの間にか配下に。劉玄はアル中。劉子興は偽物。劉永は奮闘したものの、二十八将の中では有数の頭弱い蓋延に討ち取られる始末。まあ戦後の適任がいなかったからとも。
- だから別の国号を称しても良いくらいだったが、人心を安定させるため漢の継承をとなえた。
- これでわかる通り、王朝の創始者にしてはけっこう保守的な人。
- 奴隷解放令を度々出し、税金を3分の一にする大減税を行い、役所の大幅リストラをした人を保守的というのは違うかと。
- 雲台二十八将という中ニ病ネームくさい戦隊を結成。予言書(赤伏符)の運命に従って集まったらしいが、特に合体技とかは無い。
- ↑のメンツは。鄧禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、ヒトウ、劉植
- 光武帝の即位時に配下にいる、皇帝の親族は除外する、1人選ばれると同じ一族からは選出しない――というルールのため、明らかに二十八将より功を立てていながら選に漏れた者もいる。
- 後漢の名将馬援が含まれていないのも、光武帝の即位後に配下となったという経緯から。
- 光武帝の即位時に配下にいる、皇帝の親族は除外する、1人選ばれると同じ一族からは選出しない――というルールのため、明らかに二十八将より功を立てていながら選に漏れた者もいる。
- 二十八将を選んだのは息子の明帝。選出されたのも光武帝の死後。
- 光武帝本人がチートすぎて全く目立たないが、二十八将もヤバいのばっか。常勝不敗がゴロゴロいるトンデモ集団。某アニメ風に言うと、ビッグ・ファイア様と十傑集みたいな関係の連中である。
- ↑のメンツは。鄧禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、ヒトウ、劉植
- 若い頃の口癖「官に就くなら執金吾、妻をめとらば隠麗華」
- 「陰麗華は俺の嫁!」発言が歴史に残ってしまった。
- 望み通り隠麗華と結婚でき、地位は執金吾(警視総監)を遙かに超えて皇帝になってしまった。
- 想い人のあの子は10歳年下。嫁発言は劉秀20歳ごろ、陰麗華10歳。重度のロリコン趣味であった。
- 名士のお嬢様(陰麗華)と結婚して1年足らずで、王族のお姫様(郭聖通)まで嫁にもらう。
- 性格は、温和で質素。挙兵した時に馬を買う金が無いので牛に乗って戦場に行った。
- 姉と姪っ子を殺した岑彭を許して配下に加え。兄を殺した敵将・朱鮪を許し。敵はジェノサイド主義の呉漢が大司馬。これを温和とみるか、薄情と見るかで印象変わる。裏表の顔の使い分けはご先祖さん(劉邦)並にパネェ。
- 将軍の失敗や降伏してくる敵には寛大だが、反逆者には容赦無し。皇后の親族であってもキッチリ殺します。
- 姉と姪っ子を殺した岑彭を許して配下に加え。兄を殺した敵将・朱鮪を許し。敵はジェノサイド主義の呉漢が大司馬。これを温和とみるか、薄情と見るかで印象変わる。裏表の顔の使い分けはご先祖さん(劉邦)並にパネェ。
- よく冗談を言って家臣を笑わせていたが、嫁の陰麗華にはウケがよくなかったらしい。オヤジギャグ?
- 夜遊びしていて城門が閉まってしまい、朝まで城の外で過ごしたことがある。門番に皇帝であることを告げて顔を見せても開けてもらえず。
- 頻繁に夜遊びして諌めても聞かないので怒った家臣がわざと閉め出したらしい。しかも複数回。本当に偉大な皇帝なのか・・・。
- 車に乗って出掛けようとしたところを家臣に見つかる。怒った家臣は車の前に寝そべって進路を塞ぎ、「どうしてもというなら私を轢き殺して行って下さい!」と一喝。すごすご引き返しましたとさ。
- 美人の姿を描いたお気に入りの屏風を会議中にチラ見して、家臣に「ちゃんと聞いてください」と怒られた。
- 宴会の席で美人画の屏風コレクションを並べて自慢していたら、家臣に叱られて慌てて撤収。
- おそらく中国の歴代皇帝ではピカ一。あまりに偉大で欠点がないため、却って小説のネタにならず、知名度が低くなってしまった。
- 匹敵できるのは唐王朝の太宗ぐらいしかいない。また、袁紹にせよ曹操にせよ、やっていることは彼の猿真似だったりする。
- 風見鶏のような諸豪族をまとめ上げたカリスマ性、生涯一度も功臣を粛清しなかったと言われる知己。ほぼ完璧に近い。
- 強力なライバルがいないことが小説にならない一因かと。王朗や公孫述など全くいないわけではないが、項羽や曹操と比べると明らかに小粒。直接の面識もないし。
- 恐ろしいことに嫁も超出来た人で、美人で性格がよく、贅沢もせず、親戚を政治に関わらすこともなく、別の后の子供でも実の子のように接した。
- 出自が極道上がりの劉邦・劉備と比べると育ちはよいが、若いころに長安で運送業を営んでいたりする。
- 県令の三男坊→漢朝あぼーんして没落貴族→執金吾になるため長安留学→学費足りなくて蜂蜜売り、運送業のバイト始める→留年するし。執金吾の審査に落第続きで傷心帰郷→劉嘉に使われて荘園経営&自分で売り子も兼ねる。アニキの劉伯升が「俺は劉邦になる」と抜かしてニートを止めない。将来に不安を覚える。→アニキの挙兵失敗に巻き込まれ、自分も反乱軍の仲間にされる。育ての叔父さん泣く。挙兵するまでかなり職を転々した皇帝。
- 「お爺さん、かくしゃくとしていますねえ」の「かくしゃく」は彼が考案した単語だったりする。
- 数十万を号する敵兵にわずか数千で挑み完勝した猛将でもある。でも本人は基本的に戦争の話題は嫌い。
- 統一までに。萌え萌え男の娘将軍、祭遵・有能なヒキコモリ将軍、馮異・仁将に転向してから呉漢の後始末任せてた、岑彭など、二十八将の大半と、親兄弟の死に目に会えば、ねえ……。生き残ったのは、ろくでもない連中が殆どなのは世の常。
- 即位後も剣を持って最前線に切り込んでいくものだから、将軍達は気が気じゃなかっただろう。実際何度も臣下にたしなめられてるし。
- 指揮をとって負けたのは生涯一度だけ。しかも原因は暴発した部下が危機に陥ったのを無理して助けに行ったため。勝った側も光武帝が負けたことが信じられず、「待てあわてるな。これは光武帝の罠だ」とうろたえた。
- 晩年は怪しげな占いに傾倒。でも政務は疎かにしていないので周囲は黙認。
- 自分や首脳陣が若かったので、権威付けに利用しただけ。戦後、光武帝の偉業で甘露が降ったと讃える群臣を「何でもかんでも俺のせいにすんな」と却下してる(^^;。
- 中華史上最高の名君とも言える人なので下々が「聖帝」やら「聖王」と称えていると、「うぜぇから『聖帝』とか『聖王』って朕を呼ぶの、禁止な」というウソのような命令を出したことがあるとか
- 勅を除けば「朕」という自称をほとんど使わなかったとか。唯一、賈復と寇恂を仲直りさせる際にのみ使ったらしい。皇帝の言葉であることを強調して「天下安寧の為に私憤を治めてくれ」という意図を明確にしたのかな?
- 中華史上最高の名君とも言える人なので下々が「聖帝」やら「聖王」と称えていると、「うぜぇから『聖帝』とか『聖王』って朕を呼ぶの、禁止な」というウソのような命令を出したことがあるとか
- 自分や首脳陣が若かったので、権威付けに利用しただけ。戦後、光武帝の偉業で甘露が降ったと讃える群臣を「何でもかんでも俺のせいにすんな」と却下してる(^^;。
- 一般的に皇族の出だから、劉邦と比較すると苦労していないように見られがちだが、劉伯升に巻き込まれての新王朝への叛乱では数千の兵で20万を号する新の討伐軍を撃退する任務を課せられたり、その劉伯升が更始帝と朱鮪により謀殺された時は、謀反人の実弟ということで処刑待った無しの状態だったので必至に命乞いした上で華北の賊軍討伐を名目に都を脱出するものの、ほぼ徒手空拳状態で賊軍討伐せざるを得ない状況に追い込まれるなど、当人の器量が抜きん出たものである証左と言える苦境を乗り越えている。
明帝[編集 | ソースを編集]
- 国境封鎖をゆるめ、西方への影響力を行使し始めた。
- その結果、「西域の鬼神」と呼ばれる班超将軍が台頭した。
- 皇后は馬氏。建国の元勲・伏波将軍馬援の娘。稀に見る賢夫人でした。
- 馬援は建国の最後の方の敵だった隗囂が元主君。公孫述が友人だったので、直接天下統一事業には参加してない(引き抜き外交のみ協力)。彼の活躍は、外国遠征。
- 歴戦とは言い難いですが、引き抜きに加え、屯田参加や隗囂戦で地図作成したことなどは建国の元勲として十分な功績といえるかと。
- そういう意味では雲台二十八将のメンツ入りに十分な資格があったが、皇帝の親族は除外のルールにひっかかってメンバー入りならず。
- 歴戦とは言い難いですが、引き抜きに加え、屯田参加や隗囂戦で地図作成したことなどは建国の元勲として十分な功績といえるかと。
- 馬氏を推薦したのは皇太后の陰麗華。晩年の馬援は、彼のバカ真面目さにムカついてた人の悪口で光武帝と仲たがいしたまま逝ったので、子供の代で仲を修復するよう、取り持ったもよう。
- 馬援は建国の最後の方の敵だった隗囂が元主君。公孫述が友人だったので、直接天下統一事業には参加してない(引き抜き外交のみ協力)。彼の活躍は、外国遠征。
- 灌漑事業を強力に推し進めた。
- 楚王英の叛乱を招いた。
- 実は一番仲が良かった兄弟の叛乱。話を聞いたとき取り乱しまくった。同母弟の劉荊の叛乱時は微塵も情をみせなかったのに。
- 罪に問われたメンツを見ると功臣や降将の2代目3代目が多いことから、父の代わりに粛清をおこなったとも言われる。
章帝[編集 | ソースを編集]
- 後漢がいちばん安定した時期の皇帝。
- ……と、優遇された儒者が過剰に持ち上げてるだけで。最悪なタイミングでの西域撤退命令や塩・鉄の専売開始。益・荊州の反乱を放置。外戚への金銭ばらまきなど、後漢滅亡の種を撒いた人。
- 悪政を『五噫歌』という歌に詠われた。西域と国政に興味なく、お祈りと観光旅行が仕事の暗君。
- 皇后は竇氏だが、しゅうとめの馬氏に較べると、権勢欲が強くて嫉妬深い女で、皇子を産んだ側室をふたりも殺害した。
- 次の和帝が幼少だったので、その時期も権勢をふるい、兄の竇憲を大将軍に取り立てて専横をきわめた。
- 元来の太子を廃立して幽閉。馬超の先祖など、他の外戚や忠臣達を次々粛清。強盗した金で人材募集。伝令を私物化などガンガンした。でも優遇された儒者が弁護してくれた。
- 父や祖父は前漢宣帝と同じく法家と儒家のハイブリッドだったが、ここからほぼ完全な儒学・礼教国家シフト。
- 交易を申し込んできた北匈奴を騙し討ちして、奴隷をゲット(光武帝の奴隷解放が、ここで崩壊)。実績が無くとも封禅の儀を決行したりと、礼教国家というより別モンになったような……。
- 孔子の家を破壊したDQNも聖人として祀る。資格もないのに封禅の儀を行うなど。ツッコミどころ満載であるが。
- 白虎観会議によって、儒学のテキストが現在に極めて近い形に編纂し直される。
- 勝った今文学派が、章帝の古文学派びいきで敗北扱いにされた。会議の意味ってなんだろう……。
和帝[編集 | ソースを編集]
- 宦官・鄭衆と図って竇一族を粛正。鄭衆自身は有能な人格者だったが、これ以後、宦官がのさばりはじめる。
- 鄭衆だけ特例で、政治顧問になっただけ。他の宦官は現状維持のまま。
- この時代、蔡倫が紙を現在ある形に改良。
- 「発明した」とまで言うのは言い過ぎ。似たような物はそれ以前からあって、蔡倫はそれを作りやすく使いやすいものに改良したのだった。
- 竇一族に加担して、宋貴人を罠にはめて処刑した所は妙に弁護されてる人。女嫌いの宦官。
- 西域ではまだ班超が大活躍。一方その兄・班固と妹・班昭により「漢書」完成。すごい兄妹である。
- 章帝時代の班超は、朝廷の方針が曖昧で兵力不足に泣かされてたのが、皇帝の代替わりでようやく解消。
- 章帝の負の遺産(通貨の鋳造停止、塩・鉄の専売、異民族との無駄な交戦)の解消に、文字通り燃え尽きた皇帝。
殤帝[編集 | ソースを編集]
- 生後百余日で即位、半年後に崩御。
- 和帝の皇后・鄧氏の差し金。もっと年上の息子も居たのに……
安帝[編集 | ソースを編集]
- 殤帝の従兄にあたる人で、やっぱり鄧氏の差し金で即位。
- 鄧氏は皇太后として、兄の鄧隲を大将軍に起用し政務を専断。
- とはいえ、他の外戚に較べると、節度ある態度だったらしい。
- それでも安帝は成長するに従って煙たく思い、皇太后が死ぬと皇后・閻氏および宦官・李閏と図って鄧一族を粛正。
- ついでに自分の祖母を殺した蔡倫も粛清。
- ようやく実権をつかんだかと思いきや、今度は閻一族に牛耳られてしまった気の毒な人。
少帝[編集 | ソースを編集]
- 殤帝・安帝の従弟にあたる人で、閻氏の差し金で即位。
- 閻氏は少帝を担いで、一族で政務を専断しようとしたが、宦官・孫程たちに阻止され、一網打尽。少帝も廃位・暗殺された。
順帝[編集 | ソースを編集]
- 宦官たちに擁立されたので、お礼に宦官を諸侯に封じ、養子をとって家産を相続できるようにした。
- この皇帝が居なければ、「宦官の孫」である曹操は出現し得なかったであろう。
- 皇后は梁氏。この兄が、跋扈将軍として専横の限りを尽くす梁冀。
- 孝廉制度改革によって科目によっては筆記試験が初めて明文化される。
- もっとも筆記試験自体は明帝の頃から既に記録に表れている。
冲帝[編集 | ソースを編集]
- 2歳で即位、半年後に崩御。
質帝[編集 | ソースを編集]
- 7歳で即位、8歳で崩御。
- 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、案外と利発で、扱いづらくなりそうだったので、あっさり毒殺された。
- 梁冀を見て「跋扈将軍」と言って怒らせたという。8歳の子供にしては言うことがませていた。
桓帝[編集 | ソースを編集]
- 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、こちらはあんまり利発そうでなかったので21年間の治世をまっとうした。
- とはいえだんだん梁冀がうっとうしくなり、梁皇太后が死ぬと、宦官・単超らと図って梁一族を粛正……って、何度おんなじパターンを繰り返せば気が済むんだ?
- お礼に宦官を諸侯に封じた。
- 宦官がわが物顔に官職を独占しているので、あぶれた知識人たちが「宦官追放」「俺たちにも官職よこせ」キャンペーンを張る。宦官も負けてはおらず、やかましい知識人たちを投獄する。世に言う党錮の禁。
- 自称ローマ帝国の使いが来たのはこの人の代。テストに出ますよ!
- 後漢をとどめを刺した皇帝とも言われる。
- 滅んだ理由のうち、内憂の最も大きなものは順帝が宦官に相続を許して宦官に利権体質を作り上げたことにあり、また外患の最も大きなものは鮮卑に冒頓単于に匹敵するクラスの英雄が現れたことによるため、彼ばかりの責任というのもやや酷というものではあるが……
霊帝[編集 | ソースを編集]
- 桓帝に子がなかったので、だいぶ遠い皇族の中から擁立された。
- 官職を売りに出す。
- 野にあった時だいぶ貧乏していたので、皇帝になったら贅沢ができるかと思って即位したところ、財政難で自由に使えるお金があんまりなかった。
- 失望した霊帝が思いついたのが官職の販売だった。けっこうアイディアマン。
- また、後宮内で模擬店を開き、みずから屋台のオヤジに扮して麺などを売り、小銭を稼いだ。一人前の麺を取り分けるのがものすごく上手だったらしい。
- 皇帝になるより、商人にでもなっていたほうが、本人にとっても後漢王朝にとっても幸せだったに違いない。
- もっとも、貨幣改鋳などを含んだ全体の経済政策については董卓(失敗例)・劉巴(成功例)の政策の嚆矢として評価する人もいる。
- 黄巾の乱がおこり世の中が乱れ始めた。
- 宮殿の望楼から市中を眺めようとして、宦官に止められたとか言う逸話がある。
- 皇帝直属の常備軍を初めて創設しようとした。西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたが本格的な運用までには至らず。ただしそれを曹操が後年実現した。
廃帝[編集 | ソースを編集]
- 言語不明瞭な人。
- 袁紹たちが宦官討伐のため宮廷に攻め込んだ時、弟の劉協(献帝)と共に宦官たちに付き添われて逃げ出す。董卓に拾われるが、ろくろく返事もできなかった。
- 結局董卓によって廃位、その後殺される。
- 字だけ見るとかなりひどい名前な気がする。廃帝・・・
- 「廃された皇帝」ってだけの意味ですから。
- 町の肉屋の妹が霊帝に愛されて産まれたのが彼で、その伯父の肉屋は大将軍となった何進。
- 意外と、霊帝の実子じゃないせいで廃されたのかも知れないそうな。
- 献帝の字が「伯和」。普通、「伯」というのは長男につける名前だから。
- 意外と、霊帝の実子じゃないせいで廃されたのかも知れないそうな。
- 一般的に弟より暗愚だとされているが、そもそも演義自体が勝者である後継の献帝や曹操、そして劉備の視点で描かれており、これらの正統性を維持するためことさら貶める評価をされている可能性もある。
献帝[編集 | ソースを編集]
- 兄の廃帝より賢そうだったので董卓に擁立される。田舎者の董卓は、バカ殿を担いだほうが何かと便利だということを知らなかったらしい。
- 賢そうだったから担いだんじゃなくて、本音は何進の血が流れる先帝を廃して何氏の影響力を一掃したかったから。
- そもそも兄より賢いと言ったって、たかだか8歳の子供に傀儡の君主としての役割以外で一体何ができるのであろうか?
- 賢そうだったから担いだんじゃなくて、本音は何進の血が流れる先帝を廃して何氏の影響力を一掃したかったから。
- 董卓やその部将たちの思惑のままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり転がされていたが、曹操に保護されて一安心。
- しかし、曹操が強くなりすぎたので、バランスをとろうと他の連中に肩入れし始めるが、失敗。
- 曹操の息子の曹丕に帝位を禅譲するが、その後破格の厚遇を受ける。献帝の側から要求したのかも。
- 山陽公に封じられ、「朕」の一人称も認められ、日々の生活で使うものなどもすべて皇帝並みでOKだったのだから大したもの。
- 帝位から下りてよほどのびのびしたのか、曹丕よりだいぶ長生きした。
- 後漢王朝は曹操ですら潰すのを嫌がったぐらいに威光の塊で、下ろすのに非常に気を使う必要があった。中国史といえば易姓革命でどんどん王朝が変わるけど、その中で日本の天皇家みたいな立場になり得たのが周朝と後漢朝。
- 諸葛亮と生まれた年と死んだ年が同じだったりする。
- 帝の地位を献上したので献帝と諡号された。
- 蜀では愍(びん)帝と呼ばれた。
- 「愍」は、天寿を全うできなかったような気の毒な皇帝に贈られる諡号。
- 実は蜀には献帝が曹丕に弑されたと誤伝され、劉備はその後継者として帝位に就いてしまった。あとで献帝が生きていることがわかったが、今さら劉備の即位を取り消すわけにはゆかず、蜀では献帝の生存は触れてはいけない話題となった。
- 蜀では愍(びん)帝と呼ばれた。
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