戦国武将/は~へ

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畠山義続[編集 | ソースを編集]

  1. 畠山氏が家臣から反発を招くことになった発端だ。
  2. 「武田信玄」の肖像画の正体らしい。
    • 義総がそうな可能性あり。

畠山義慶[編集 | ソースを編集]

  1. 「よしよし」と読む…、ワケあるか!こう書いて「よしのり」だ。
  2. 元服もせぬうちに君主になった…、というかさせられた。しかも傀儡君主として…。
  3. 1574年にいきなり急死。病死か家臣に暗殺されたか?

畠山義総[編集 | ソースを編集]

  1. いわゆる「偽信玄」だ。
    • 義続がそうな可能性あり。
  2. 能登畠山氏の全盛期を築いていた。

蜂須賀正勝[編集 | ソースを編集]

  1. 通称は蜂須賀小六。豊臣秀吉の家臣。
  2. もともとは尾張と美濃の境目あたりに蟠踞していた地侍集団「川並衆」の頭領。
    • 盗賊だったというのは中傷。でも盗賊なんか一切しなかったというのも美化し過ぎ。
      • 子孫がこのネタで明治天皇にからかわれている。
        • 明治天皇の煙草かなんかをついくすねたのがばれて「血は争えんな」と言われたんだっけか。
        • でも蜂須賀家は11代将軍徳川家斉の子を養子にしているので、明治の子孫と小六の血はつながっていない。なので結局は明治天皇の勘違い。
    • 要するに通常は水運などに従事し、時には傭兵となり、時には盗賊働きをするような集団だった。
      • 鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した「悪党」みたいなもんだな。
  3. 秀吉は最初、織田家と川並衆のつなぎ役だったと思われる。信長が美濃を制圧した頃から正式に秀吉の下についたのだろう。
  4. 小六自身には、そんなに目立った武功は無く、むしろ事務方の役割が多かったようだ。
    • いかつい荒武者というイメージは修正すべきかも。小さな運送会社の社長(自分も作業服を着て積みおろしなどやり、夜は帳簿とにらめっこして唸っているような)をイメージすれば近い気がする。
      • 秀吉の側近として、事務方で動く事もあれば、黒田官兵衛の指示の元に鳥取城下の兵糧を買い占める隊の隊長として現場で活躍したりと秀吉の陰になった人。
  5. 矢矧川の橋の上で、寝ていた藤吉郎少年を蹴飛ばしそうになったのが、後の天下人との出会いだった……というのは後世の創作。
    • そもそも当時の矢矧川に橋はかかっていない。夢も希望もあったもんじゃないな。
  6. 大河ドラマでは格闘家が演じることが多い。
    • だから「いかつい荒武者のイメージ」は修正すべきだとwww
      • 「おんな太閤記」の前田吟はいいキャスティングだったと思う。
        • 前田吟自身が気のいいおっさんキャラだから。
    • ドサまわりのような役割が多かったらしいので、頼りになりそうな恰幅がいい人が演じるのは、まあいいんじゃないかと。
  7. 娘の糸姫は黒田長政の正室。
    • しかし長政が徳川家康の養女を新たに娶ったため離縁。以後黒田家とは127年に渡り遺恨を残すこととなった。
      • それでも自身の孫にあたる蜂須賀至鎮(よししげ)もやはり家康の養女を娶っているのでおあいこと取れなくもないのだが。

服部正成[編集 | ソースを編集]

  1. いわゆる服部半蔵。
  2. 忍者衆を束ねる存在であったが、自身は忍者ではなかった。
    • 親の代から三河に出て家康に仕えていたので、正成は伊賀では生活していない。普通の武士である。
    • しかし「神君伊賀越え」の際は、人脈を活かして安全に伊賀地域を通過させ、家康の信任を得る。
  3. 何でこれで「はっとり」と読むんだろう?
    • 上代に紡績や被服をつかさどる部署として「はたおりべ(機織り部)」が置かれ、これに「服部」という字を宛てていた。そのうち「べ」が落ち、「はたおり」がなまって「はっとり」となった。
  4. 「神君伊賀越え」の際に先導者として活躍したらしい。一応自分の古巣だし。
  5. サッカーでFWのポジションが得意だったらしい。忍者ハットトリックんだけに。
  6. 実在の伊賀流忍者。徳川家康の側近。
  7. 講談や小説では徳川忍群の頭領として活躍。
    • 真田十勇士の宿敵ともなっているが、これは時期からして正成ではなく、半蔵の名を継いだ息子の正就だろう。親父と違ってかなり頼りない人だったらしい。
  8. (一応)忍者の名前が城の門にまでつけられているのは彼だけ。
    • いやそれはきっとが江戸城にやってきたときに体が半分しか入らなかったから(嘘)
  9. 「武勇に優れ『鬼の半蔵』とか『槍の半蔵』とも呼ばれた」という説明書きを時々見るが、それは本当は渡辺半蔵の事である。
    • 「家康の長男・信康が切腹するときの介錯役だったが、信康を不憫に思い斬れなかった」という話もあるがやっぱり渡辺半蔵の話である。
      • 服部半蔵はさすが忍者だけあって人の異称や逸話まで盗めるらしい。っつーか渡辺半蔵かわいそう(涙)。
  10. 松尾芭蕉になったという説もある。しかし時代考証が滅茶苦茶すぎではないのか。

馬場信春[編集 | ソースを編集]

  1. 「信房」ともいう。
    • 「信長の野望」とかでは、その方が定着している。
  2. 信虎の頃から武田に仕えていた老臣。
  3. やはり、勝頼のことは頼りにしていなかった。しかも、信玄の前でもどっちかと言ったらズケズケしていたらしい。
    • で、信虎に対しても、やはりワンマンぶりにむかついていた。

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日根野弘就[編集 | ソースを編集]

  1. 裏目を引き続ける人。
    1. 美濃・斉藤家で家老を務める。が、斉藤家が織田信長に負けて滅亡。
    2. 東へながれて落ち目の駿河・今川家に仕える。が、武田・徳川に挟撃され今川家も没落(程なく今川家滅亡)。
    3. 近江・浅井氏に仕える。が、同僚を殺傷し出奔(程なく浅井家も滅亡)。
    4. 伊勢長島の一向一揆に加わる。一向一揆も壊滅。
    5. 結局織田信長に仕える。…そのうち信長が本能寺の変で散る。
    6. その後、豊臣秀吉に仕えるが勘気をこうむったりで 浪人→復帰 × 3。
    7. そして関ヶ原の合戦で息子達は東軍について勝ち馬に乗れた。よかったよかった、と思いきや、2年後に実は西軍・石田三成に通じていたことがバレる。息子達に迷惑かかる前に切腹。
    • 何度も敵対されてるのに、信長は良く雇ったもんだ。
  2. 切腹の様がまたすごい。腹から臓物を引っ張り出し、庭木にかける。そこで、ふと石田方とやりとりしていた書類の処分を思い出す。書類を紐で厳重に縛り、たき火にくべる(※腹は切った状態です)。で、一晩普通に過ごす。「まだしねないなぁ」。翌晩、やっと苦しみだし、やっと自分で首を斬って果てる。
    • おい、誰か介錯してやれよ。ってか 庭木にかけたはらわたはそのままだったんだろうか?
    • なお、日本で始めて切腹した人は介錯がなくて三日三晩苦しんだとか言う話もあるので、あり得ん話ではない、、のか?
    • 但しこの話が本当にあったのかは定かではない。
  3. 鎧兜にこだわり、日根野頭形兜という形式を作った人。そっちでもちょっとは有名。
  4. 息子は諏訪高島城を造る。が、城の展示ではその後地元に復帰できた諏訪氏についての記述ばかりで城を造ったよそ者・日根野氏には触れられていない。

平手政秀[編集 | ソースを編集]

  1. 織田信秀の家臣で、信長の傅役(教育係)。
  2. 信長が家督を継いだ後も奇行が続くことに悩んで切腹した、と言われるが切腹の原因には諸説ある。
  3. ゲーム「HARAKIRI」では「恥」の値が高く、自分のターンが回る前に切腹することすらあるとか。

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福島正則[編集 | ソースを編集]

  1. 「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
    • 実際は九本槍。しかし二人が戦死した為七本槍と喧伝される。
  2. 加藤清正と仲良し。「オイ市松」「何だ虎之助」と互いを呼ぶ間柄。
  3. 気の荒い大名扱いされやすいが、なかなかの人情家でもある。
    • 関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家に酒贈る(実際は正則の飲む酒を運ぶ船が嵐を避ける為八丈島に避難した際に秀家に酒求められ、贈ったのがきっかけ)とか、少年時代に暑さで死にかけたところを救ってくれた尼僧には米を毎年贈る等、結構義理堅い。
      • 尾張から安芸に移るとき、代わって尾張に入る大名に尼僧の世話を頼み込んでいったという。
  4. 広島城修築を将軍家に無許可で行ったのが仇になり、信州へ追い出された。
    • 追い出された先の信州では結構善政敷いたとか。田の等級別に年貢定めた「福島の棹受帳」や松川堤防を千両の予算で改修したという「大夫の千両堤」が残っているという。
    • 改易時点でオワタ感が強いが、転封後も四万五千石で大藩とはいえないまでもそこそこの待遇をされている。
  5. 清正とは反対に、仕事は家臣に丸投げだった。
    • だがそのおかげで政務にも軍務にも人材がそろっており、これも加藤家とは反対に、改易後の再就職は引く手数多だったとか。
    • 江戸から改易伝える役人が来る時「主人直命書無くして城地明け渡しならざる」と家臣団が一致団結。直命書が届くや全員正装で整然と城地を明け渡した。
  6. 短気で凶暴おまけに酒乱という、三国志の張飛を思わせる人物。
    • 少年時代に些細ことから人を殺してしまったが、「人を殺すのがこんなに簡単なら、俺は出世できるに違いない!」と考えたのが武士になる第一歩。
    • 酔っ払って家臣に切腹を命じてしまい、酔いが醒めてから家臣の死を知って号泣した。
    • 名槍「日本号」を母里太兵衛に持ってかれたのも、酒席における失敗談の一つ。
    • 酒さえ飲まなければ・・・名将といえるのだが。酒さえ・・・
      • 酒の入っていないときの逸話にはいい話が多い。
    • 当然ながら三成との相性は最悪。朝鮮出兵までは同じ豊臣仲間でやってきたが、秀吉死後に決裂するのは時間の問題だったように思える。
  7. 実は朝鮮出兵にはほとんど参加してない。
    • ちょうど中間地点にある「京畿道」を統治。補給路の確保と義兵の駆逐に全力を注いでいたと思われる。苦労の割に手柄の少ないポジション。
  8. 名うての恐妻家。
    • 側妾がいることを知った正妻に薙刀で斬りつけられ、裸足で外に飛び出した。
    • 後に「戦で敵に後ろを見せたことは一度もないが、あのときは思わず逃げ出してしまった。まこと、女の嫉妬は恐ろしい……」と、笑いもせずに語ったという。
  9. 大坂の陣の際に自身の兵糧を豊臣側に譲り渡していた。
    • これも国替えの一因であったらしい。

古田重然[編集 | ソースを編集]

  1. ゲヒ殿。
    • 「へうげもの」ファンに付けられた織部の渾名。
    • 織部の菩提寺は、同じく最近人気が高まっている曾我蕭白の墓もある。
      • そのせいで、参拝客増加に伴いゴミも増えて、お寺の方が迷惑しているらしい。これから訪ねようと思っている方はご注意を。
  2. 茶道の大家で、「古田織部」の名で有名。
    • 茶碗は高値で取引される。
      • 歴史的意義を考えると、茶碗のような茶道具よりも、懐石で使う食器の方が重要。
        • 中世まで漆器やかわらけ(素焼きの粗末な土器)、貴族なら中国からの青磁や白磁といったレパートリーしかなかったが、志野焼や織部焼以降一気に食器の種類が増える。
          • 室町時代と江戸初期に描かれた全く同じ題材の絵巻物を比べると、後者は人物や建物の描写は全く室町時代のものと同一でありながら、膳上の食器の種類だけが明らかに増えている。
        • 食器に拘った北大路魯山人も織部焼のやきものをいくつも作っている。歴史的経緯を考えれば当然か。
    • ちなみに茶道の本を読んでも、殆ど載ってない。特に千家関係者が書いた本には。
      • 史料が少ないからしょうがないのだが、いくら何でも少なすぎ。
      • 古本屋や図書館を駈けずり回っても、古田織部の本はなかなかない。「へうげもの」の資料集めは本当に大変だと思う。
  3. 大坂の陣で、現職の大名としてはただひとり豊臣方についたらしい。
    • 旗幟を鮮明にしたわけではないので「らしい」という言い方にとどまる。
    • 配下の木村某が豊臣家と通じて京都に放火したりした。暗黙の了解は与えていたようだ。
      • 仮に事実だとしても、部下が勝手にやったことで織部は知らなかった、と桑田忠親先生は推論してた。
    • 秀頼の遺児・国松をかくまったという噂もある。
    • そんなこんなで京都所司代の板倉勝重に逮捕され、切腹を命じられるが、ひとことも抗弁しなかった。その理由はいろいろ想像できる。
    • はっきり言って謀反は濡れ衣だと思う。
      • 山崎の合戦や関ヶ原でもきっちり勝ち馬に乗ってのたのに、ここへ来てしかも前より遙かに先を読みやすい大阪の陣の勝敗を読み誤るなんてありえん。
        • 耄碌してた?大阪冬の陣で茶杓に手頃な竹を手に入れようとして、敵に狙撃されて軽傷を負うくらい元気ですよ?。
          • 茶杓「玉霰」はこの時に作ったと言われている。
      • 秀吉に恩があったという人もいるが、織部が本格的に活躍するのは秀吉死後、しかも秀吉は織部が敬慕した利休の仇に当たる。身を賭してまで豊臣家に尽くす動機は薄い。
      • 楠木誠一郎はその著書では濡れ衣を否定し、徳川への謀反を企てたことは確実だと断言した。もっとも楠木氏が書いた「日本史おもしろ推理―謎の殺人事件を追え」や「謎の迷宮入り事件を解け―歴史おもしろ推理」での数々の推論は飛躍しすぎてる点もあるので注意が必要。
    • 織部の死も利休の死の理由と同じように、茶の湯のもつ革新的な思想、特に「茶の湯では人間皆平等」と「道理にかなっていれば何をしてもよい」というのが幕府に危険視されたと思う。
      • 「安定」を最大のコンセプトにする幕府にとって、一向一揆を引き起こした平等思想は危険思想に他ならない。
        • 江戸時代以降も、茶の湯における平等は建前として残り、茶道は武士や町人が身分に分け隔て無く接する場として機能するけれども、もはや桃山時代のような激しい緊張感を伴った創作の場では無くなってしまう・・・。
      • 近世の法観念を表す言葉に、法は道理に勝るという「非理法権天」という言葉がある。法律を作って世を治めようとする幕府からすれば、道理に適ってさえすれば、大切な器物をぶっ壊すことも厭わない織部は、危険人物にしか見えないだろう。
        • 織部の死の直後に武家諸法度が出されているのは、なかなか象徴的だと思う。
  4. 織部とは「オリーブ」の意味という説もある。

関連項目[編集 | ソースを編集]

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/ま~わ