新幹線0系電車
0系の噂[編集 | ソースを編集]

- 2008年11月に完全引退。
- 東海道区間では1999年9月に引退。
- 無理なのは分かっていても、何とか動態保存してもらいたい。
- だめでもせめてどっかに展示してほしい。鉄道博物館とか。車両センターとか。
- 40代以上の人達は、今でも新幹線といえばこの車両が真っ先に思い浮かぶ。
- 今の子供に新幹線の絵を描かせると500系や700系っぽい車両を描くのでショックを受ける。
- ティーン以上はいまだに『こだま』だと思い込んでいる。
- 丸っこい顔だが、'64年頃の車両開発技術で空気抵抗をうまくしのぐには?というテーマで研究された結果。愛嬌ある顔してるよね~と言ってた奴、挙手!
- ノ
- 当時最新鋭の技術で開発されたのだが、参考にしたのは飛行機の前頭部分。スカートを外せば当時の飛行機そっくり。
- 90年代以前生まれが「こだま=0系」という方程式が定着した理由は最後まで東海道新幹線に生き残っていた0系がyk編成(こだま用)だったため。
- 丸っこい顔だが、'64年頃の車両開発技術で空気抵抗をうまくしのぐには?というテーマで研究された結果。愛嬌ある顔してるよね~と言ってた奴、挙手!
- ティーン以上はいまだに『こだま』だと思い込んでいる。
- 東京駅とかの新幹線の表示板が700系みたいなやつになってがっかり
- やっぱ0系だよな、あーいうとこはさ。
- 今の子供に新幹線の絵を描かせると500系や700系っぽい車両を描くのでショックを受ける。
- 日本の高度経済成長期を象徴するものの一つ。
- 昔は普通車の座席が転換クロスだった。
0系の座席 - 今では考えられない…。
- もっと昔は集団見合い式だった。
- 0系の初期車は製造時から転換クロスだよ。
- 初期車が固定だったのは200系。
- 0系は初期~中期タイプの0・1000番台が転換式で後期タイプの2000番台が集団離反式の簡易リクライニングシートだった。3人がけのみ座席の向きを変えることができなかった。
- 国鉄末期にリクライニングシートに取り替えられたが向きが固定されていて進行方向と逆側に座らせられたりして不評だったとか…
- 向きが固定されていたのは3列席だけで、2列席はリクライニング化後も向きを変えることはできた。3列席はシートピッチと座席幅の関係で座席を回転することができなかったのが理由。
- 東海の0系の指定席は2+2シートに、西日本の0系は全席2+2に改造されていた。
- 末期になると、西日本車が東海道こだまに大量導入。指定を取る列車が西日本車だとがっかりしたものだ。
- 西日本の2+2シート車は東海道区間には入らず、0系こだまの末期は2+3シートの西日本車ばかり。
- 廃車後のシートはここのキハ31に転用された。
- 国鉄末期のころになると特急から普通までいろいろな車両に使われた。
- 東海道新幹線開通当時から0系と呼ばれていた訳ではない。
- 東北・上越新幹線用の車両が登場した頃から、0系と呼ばれ出したらしい。
- それまでは「新幹線電車」と呼ばれていたらしい。
- 東北・上越新幹線開通前、新幹線といえば東海道・山陽新幹線しかなかったからなぁ。
- つまり東北新幹線が開通するまでは、新幹線の車両は個性がなかったってことか。
- 東北・上越新幹線開通前、新幹線といえば東海道・山陽新幹線しかなかったからなぁ。
- それまでは「新幹線電車」と呼ばれていたらしい。
- 東北・上越新幹線開業前の1970年代後半に発売された鉄道雑誌には既に「0系」の記述が見られたものもある。
- 東北・上越新幹線用の車両が登場した頃から、0系と呼ばれ出したらしい。
- イギリスに渡った車両がいる。
- 博物館の展示品として。
- 向こうでも「Shinkansen」の名で展示されている。
- 隣に展示しているのが最速の蒸気機関車ことマラード号なのは何かの皮肉なのか。
- イギリス流のジョークでねぇの?
- 隣に展示しているのが最速の蒸気機関車ことマラード号なのは何かの皮肉なのか。
- 台湾に渡った車両もいる。
- 建築限界測定車として、連結器カバーを外し、各センサーが搭載されている。
- 山陽新幹線に最後まで残った0系の方向幕は紺地。
- 「ウエストひかり」として走っていた時代があった。
- 側窓まわりの青塗り下部に白線1本入れられてた。
- 車体中央の窓下に非常口があった。
- 「火事の時に早く逃げられるから」と(自由席の)非常口前の席に座りたいと母に言った子供の頃の思ひ出。
- 機械遺産に認定された。
- 鉄ヲタだけでなく一般人にも「新幹線」を浸透させ、世界に高速鉄道の存在感を再認識させた名車。
- まさに日本の鉄道を代表する車両。
- ナンダカンダで親しみやすい顔である。
- 元祖高速鉄道の車両として、世界に高速鉄道を広めるきっかけになった国鉄の最高傑作。
- ナンダカンダで親しみやすい顔である。
- まさに日本の鉄道を代表する車両。
- 1964年の東海道新幹線開業時から1985年まで東海道・山陽新幹線には0系しかなかった。その後20数年の間に100・300・500・700・N700系と進化していったことを考えると改めてJR化後の技術進歩が速かったかがわかる。
- 某国労が新技術に抵抗感を示していた、とも聞いたとことがある。航空機の運賃が高止まりだったこともあり、東京−大阪は新幹線の独壇場だったから、3時間走行の枯れた技術で充分だったとの認識。
- あるいは、1964年当時の技術が極めて優れていたとも言える。(100系は0系のマイナーチェンジととらえる向きも)
- 更にいうと0系および100系と300系以降の形式ではまったく設計思想が違う。
- 300系とN700系で共通点を見いだせるのにわずか数年前の100系とではあまり共通点がない。
- 鼻がカユイ(・○・)。
- カユイからってかき過ぎると…血が…出ないw
- 今となってはカワユイ。
- 実はカラスの特攻食らって、小さいながら穴があいたことがある。
- 普通車・グリーン車・食堂車・ビュッフェ車と揃ってた。
- これをモデルにしたおもちゃは子供だまし的なデザインが多い。
- こだま号で乗ったときは、古い割にはなぜか乗り心地が良かった。
- 2008年のアイボリーと青のツートンカラーに戻されたときは、2003年半ばまで鳴らしていた「ひかりチャイム」が復活していた。その時は幸せに包まれた感じがした。
- 元は車体が白でスカートが赤になる予定だったらしい。
- 専売公社煙草の「ハイライト」を参考にこの色にしたとか。
- プラレールの新幹線は長らくそのイメージの色であった。
- 日本で初めて昼間点灯を始めた車両。
- 1964年10月1日のデビュー時から実施。ちなみに在来線が昼間点灯を始めたのはそれから約25年も後である。
- 営業開始当初は鼻が赤く光っていたらしい。
- 赤鼻のトナカイならぬ赤鼻の新幹線。
- 鼻が光ってたのは開業前にモデル線走ってた頃の1000形試作車。量産車の0系では廃止されたから、営業開始当初に鼻が光ってたことはない。
- 実は0系も最初の車両だけは鼻が光っていたらしい。鳥との衝突などに耐えるべく前頭部を強化したため営業開始後1年ほどで光らなくなった。
- 東海道新幹線開業時の1964年から、国鉄末期の1986年まで、22年間に渡って3,216両も製造された。
- 窓割りや内装とか、マイナーチェンジはされてきたが、基本構造は同じ。
- 1970年代後半からは、古い0系を置き換えるために新しい0系を造っていた。
- なので、製造された3,216両全てが同時に存在していたわけではない。
- 中高年層は新幹線、超特急と言われるとこの車両の顔を思い浮かべる。
- 90年代生まれの人々は「こだま」号と聞かれるとこの車両の顔を思い浮かべる。
- ひかり用編成はグリーン車を2両連結であるが、こだま用は16連化後も最後までグリーン車は1両のみの連結であった。
- こだま用編成も臨時で「ひかり」で使われていたこともあったし、ひかり用編成も主に問合いで「こだま」に使われていたこともあった。
- 新幹線開業当初は「鉄道唱歌」を流していたが「新幹線に鉄道唱歌は合わない」とィ声が寄せられ、黛敏郎氏が作曲したメロディに変わった。
- しかし黛氏の作曲したチャイムは全般的に暗めだったことからまた不評を呼び、5年で交換され4打音のチャイムを用いた後に「ひかりチャイム」に変わっている。
- 導入当初、鼻の部分は赤かったらしい。
- ただ、強度が足りないことから素材を変えた結果、白鼻になったそうな。
- 時刻表の表紙に最も使われた車両。
- 12か月連続で表紙を飾ったことがある。
- 実は新幹線初の併結運転は200系+400系ではなく、0系の重連である事はあまり知られていない。
- そのため200系K編成のような前面連結器を搭載していた編成がある。
- 四国や北海道や沖縄県にも保存車体が存在した。