明
明の噂(一般)[編集 | ソースを編集]
- 時代は「漢から明(かんからみん)」へ
- 日本から海賊が襲来。
- 後半はほとんどが明の国民。
- 後期倭寇はほとんどが日本人を装った中国人。
- 後期倭寇は10人中8人近くが明人か朝鮮人であったと言われる。明人を処刑すると色々とやばいので朝鮮は対処に苦労したと言われる。
- 後期倭寇はほとんどが日本人を装った中国人。
- そして今度は日本から軍隊が襲来。
- 後半はほとんどが明の国民。
- ワコー船舶(株)の不祥事が問題になる。
- その後ワコー船舶を乗っ取り朝鮮半島を荒らしまくる
- その行為を「ワコーる」と言い習わしたらしい(風説)
- ヨーロッパの商人以上に活躍した冒険家がいた。
- 誰だよ。
- 鄭和さんだよ。キンタマがないのに冒険しまくった漢だい。
- 誰だよ。
- たらこ唇の皇太子の威徳が近隣諸国に恐怖とともに伝わり、一部の国の海産加工品の名称にその影響を残す。
- 逆、逆!>海産加工品の名称
- 日本で金色の寺を作った坊主将軍が「ワイの国と貿易してちょーだいな」と擦り寄ってくる。仕方なく貿易する。
- 日本側はなぜか看護婦を連れてきたらしい。
- 看護婦萌えわその頃から?!
- でぃ~ぶぃ~でぃ~!!。ソニィ!!等の名言を残している。
- 佐世保のたかた帝国ですね。
- 明時再生法適用。
- 後漢に負けず劣らず、幼帝で即位し、短命だった皇帝が多い。
- 平均即位年齢 後漢 約12歳 明 約24歳 平均即位年齢は明の方が倍も上です・・・。
- なぜか漢民族の国というだけで清より高評価する人が多い。実際は陶磁器以外はろくでもない。
- モンゴルも後金も金(実際は銀)持ってる明相手に儲けたいからあえて滅ぼさずにいた。滅ぼしたのは漢民族の李自成。
- 次の清と同様に王朝名が黒澤姓の映画監督の名前になっている。
明の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 明から一世一元の法が施行され、ひとりの皇帝の治世中は改元をしなくなったので、通称として宗廟名の他、元号を冠した名前でも呼ばれるようになった。
- 明の英宗だけ例外。2回即位したので、2つの元号を持つため。
- 「北京」「南京」「東京」といった「方角名+京」の地名も一世一元の法とともに始まった。
- 皇族である朱一族の法則。
- 洪武帝の子供の世代は名前に木が付く。その子は火。その子は土。その子は金。その子は水。その子は木……と名前で五行思想をやっている。
- 南宋の思想家朱熹の一族のパクリと言ってはいけない。
- この一族だけでなく、五行説にもとづいて命名するのは中国で一般におこなわれていること。陳舜臣さんの家系もそうしていたらしい。
- 明朝は276年続いたが、3分の1近くの期間、皇帝が朝廷に現れなかった。
- 11代武宗(正徳帝)は16年の治世中ほとんど朝廷に顔を見せず、
- 12代世宗(嘉靖帝)は大礼の議以降の24年間ほとんど朝廷に顔を見せず、
- 14代神宗(万暦帝)は後半の25年間ほとんど朝廷に顔を見せなかった。
- これだけで65年。それに幼少で即位した6&8代英宗などのケースを加えると、皇帝不在が90年近くなる。
- 「君臨すれども統治せず」を地で行っていた感じ。
- 秘書である内閣大学士が実際の政治をトップとして運営するようになった。後世の内閣制度の語源である。
- 後宮に25年間引きこもったり、魔法使いになろうとしたり、宗教にハマったり、モンゴルに捕えられたり他の中国の王朝と比較しても奇人変人無能皇帝だらけである。ぶっちゃけた話まともな人を数えた方が早い。
- まともな皇帝の治世が短く、ろくでもない皇帝の治世が長い。
太祖・洪武帝[編集 | ソースを編集]
- 乞食坊主から成り上がったチャイニーズ・ドリームの体現者。
- 劉邦に萌え萌え。功臣粛清だって、だってお気に入り。
- 劉邦以外の正統な皇帝はほとんどボンボンとして生まれているので似たような境遇であった劉邦を参考にすればいいと言われた結果。ただし劉邦は庶民の中でも普通の家の出身なので、下克上具合では中華一と言われる。
- 後を継がせる予定の長男が優しい性格で心配だったらしい。だから自分が生きてるうちに何とかしようとしたらその長男が早死。結局は孫に継がせる羽目に。
- ちなみにこの進言をした張良ポジの李善長まで最後には粛清されている。
- 劉邦以外の正統な皇帝はほとんどボンボンとして生まれているので似たような境遇であった劉邦を参考にすればいいと言われた結果。ただし劉邦は庶民の中でも普通の家の出身なので、下克上具合では中華一と言われる。
- 劉邦に萌え萌え。功臣粛清だって、だってお気に入り。
- 人から坊主上がりだと言われると激怒した。
- 自分の前で「僧」とか「ハゲ」とか「光」とか言う者がいるとすぐ殺した。
- だんだんエスカレートして、「僧」とか「ハゲ」とか「光」とかと発音が似ている言葉を言う者も殺した。ダジャレであてこすっていると思ったらしい。
- 魯迅の「阿Q正伝」の主人公が、ランプという言葉に異常反応したのだが、元ネタはこの皇帝か?
- だんだんエスカレートして、「僧」とか「ハゲ」とか「光」とかと発音が似ている言葉を言う者も殺した。ダジャレであてこすっていると思ったらしい。
- 自分の前で「僧」とか「ハゲ」とか「光」とか言う者がいるとすぐ殺した。
- 2種類の肖像画が残っているが、同じ人とは思えない。
- 高校世界史の資料集には、実際の顔はブサイクな方の肖像画に近いと書かれていたが・・・
- やたらめったら功臣を粛正したが、庶民には意外と人気があった。
- 明代は官僚が一番冷遇されていた王朝といわれる。現代の日本も見習うべきかとうわなにをするおまえやめr
- 役人を冷遇すると、生活が苦しいものだから汚職を始めますよ。
- 政治家と官僚が高給なのはむしろ汚職と賄賂横行による腐敗の防止。現状で満足させとこうという性悪説の考えだな。
- それもあるし、儲からない職業に優秀な人間は来ない。
- 役人を冷遇すると、生活が苦しいものだから汚職を始めますよ。
- 側近を殺しまくった件に関してはスターリンレベルだと思う
- 文人や功臣を大量に殺す一方で肉刑を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては優しかったから。
- 若い頃に飢え死にしかけた経験があったせいか農業を重視。逆に知識人や金持ちは信用しておらず弾圧。なんだかポル・ポトみたいである。
- 明代は官僚が一番冷遇されていた王朝といわれる。現代の日本も見習うべきかとうわなにをするおまえやめr
- 後の毛沢東に通じるものがある。
建文帝[編集 | ソースを編集]
- 太祖の孫。彼の父(太祖の長男)は太祖より先に死んでしまった。
- 祖父さんが辺境の守りにと残してくれた叔父たちの軍勢を恐れ、取りつぶそうとしたが、逆に攻められてやられてしまったかわいそうな皇帝。
- しかし死体が見つからなかったので、生存伝説が絶えなかった。
- 減税を実施したのでやはり庶民からは人気があった。
- しかも美形の好青年だ。
- 拷問の廃止、宦官の重用禁止もやった。
- しかも美形の好青年だ。
- 永楽帝の陰謀により、清代になるまで存在自体が歴史から抹消されていた。
成祖・永楽帝[編集 | ソースを編集]
- 甥の建文帝を亡ぼして即位。
- しかし、建文帝が生きているのではないかと生涯びくびくし続けた人。
- お気に入りの宦官・鄭和に、大艦隊を率いさせて南アジアやアラビアまで行かせ、大いに威武をふるったが、実は建文帝を探すためという裏の目的があったらしい。
- 鄭和の貿易活動で大いに儲け、貨幣を大量に鋳造。
- モンゴルに5回も親政し、ベトナムを占領し、国威を大いにとどろかせた。おかげで現在、中国でもっとも人気のある皇帝の一人である。
- どう考えても前半期の皇帝のうち一番共産主義者に受けが悪そうなキャラなのだが……。
- 共産主義というより民族主義の文脈から、現中国は対外戦争に活躍した人が大好きだからかと。統一期のマイナーな人でも民族英雄に列せられてたりするし。
- どう考えても前半期の皇帝のうち一番共産主義者に受けが悪そうなキャラなのだが……。
- 彼の母は諸説ある。洪武帝の正妻である馬皇后でない可能性が高いのは確かだが、高麗人とか、モンゴル人とか。また、父も洪武帝ではなく大元のハーントゴンティムールだったいう俗説もある。
- 残念ながらあの国の法則に絡まなかったわけではないようだ。
- 父の洪武帝に負けず劣らず功臣の粛清に熱心だった人。熱心な余り父よりも残虐な処刑方法とかを色々開発した
- せっかく洪武帝が、宦官が政務に携われない決まりを作っておいたのに、台無しにしてしまい、明一代を後漢・唐と共に宦官悪がはびこった時代にしてしまった。
- 建文帝を討つ時に、南京城内で冷遇されていた宦官たちの内応に助けられた面があったため。
- また、大学者の方孝孺にいきなり簒奪者呼ばわりされたため、筋目にうるさい士大夫を遠ざけ、自分の意のままになる宦官を重用したという事情もあった。
- 宦官による秘密警察「東廠」まで設立して、自分をそしる者を取り締まった。また密告を奨励し、誣告であっても罰せられないようにした。かなりイヤな時代となった。
- 中華人民共和国でいうと鄧小平あたりか。
仁宗・洪煕帝[編集 | ソースを編集]
- 皇帝としての治世が短すぎて、あんまり面白い話がない。
- 歩行困難なほどの肥満体で、不摂生な生活がたたり寿命を縮めたと言われる。
- 温和で堅実な人物だったようで、父がモンゴルに遠征に行っている間は常に首都の留守番を任されていた。
- 外征を繰り返した永楽帝の政策が破たんしなかったのは、だいたいこの名君な息子のおかげ。
宣宗・宣徳帝[編集 | ソースを編集]
- 肖像画が残っているが、某宗教の尊師にクリソツとは絶対に口にしてはならない。
- 守成の名君と呼ぶにふさわしい人物。どんな国でも、こういう君主が出る出ないでその後の命運が分かれる。
- 子供がいないという理由で皇后を廃したことと、死んだ時何人もの妃を殉死させたことはマイナスポイントか。
- 宦官の学校を作っていたり。後の宦官跋扈の遠因かも…
英宗[編集 | ソースを編集]
- 宦官・王振に乗せられて、モンゴル征伐のために親征するがボロ負けし、捕虜になってしまった。野戦で捕虜になった皇帝は中国史上この人くらい。
- なんとか帰ってみると、弟の景泰帝が帝位に就いており、幽閉されてしまった。踏んだり蹴ったり。
- 景泰帝が病気になったので、ようやく英宗派の廷臣たちの力で皇帝に返り咲いた。同じ王朝で2回即位したのは中国史上この人くらい。
- 上記の理由で為政者としての評価は散々だが、唯一殉死制度を廃止したことは賞賛されている。
代宗・景泰帝[編集 | ソースを編集]
- 兄貴がモンゴルに囚われている隙に即位したが、病気になってひきずり下ろされた。
- 一応兄貴がモンゴルにとらわれる原因となった最大の責任者、王振一族を粛清。そして新たに于謙を登用し、オイラトによる包囲から北京を防衛。
- 和睦成立後、兄貴が戻ってきたが幽閉。
- 死後贈られた名前が「戻王」・・・。悪意ありあり。
憲宗・成化帝[編集 | ソースを編集]
- 19歳年上の愛妾(萬貴妃=「お万の方」ってとこですな)に頭が上がらなかった。
- 他の女が成化帝のタネを身ごもると、嫉妬した萬貴妃が片っ端から堕胎させていたのを知らず、自分がタネ無しだと思いこんでいた。
- 儒教の価値観では、タネ無しはイ○ポと同様の不具扱いをされるのです。
孝宗・弘治帝[編集 | ソースを編集]
- 萬貴妃の魔の手を奇跡的に逃れて出生した幸運な人。
- 明朝の皇帝ではいちばんまともな人だったようで、中興の祖とも言われるが、惜しくも35歳で病没。
- 中国の皇帝としては珍しく、生涯皇后以外の女に手を出さず一夫一妻を貫いた。
武宗・正徳帝[編集 | ソースを編集]
- ラマ教にはまった。
- 16年の治世中、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
- 船遊びの最中に、湖に転落。それが元で肺結核になり、儀式の最中に喀血して亡くなった(享年31)。ある意味情けない死に際かもしれない。
世宗・嘉靖帝[編集 | ソースを編集]
- 正徳帝の従弟だが、自分の実父にどういう称号を与えるかということで廷臣たちと大喧嘩し、以後24年間、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
穆宗・隆慶帝[編集 | ソースを編集]
- 陳舜臣氏の本には景徳鎮に春画を描かせていたとある。ぜひ見たかったものだ。
神宗・万暦帝[編集 | ソースを編集]
- 48年間も在位していたが、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
- 治世の前半は、張居正という大物宰相のおかげで政情は安定。
- 張居正の死後、珍しく朝廷に出ていた万暦帝は、佞臣たちの中傷を信じて、張居正の遺族たちをひどい目に遭わせた。
- 家を完全に封印して出入りを禁じ、中に居た遺族が餓死してしまったほど。
- 張居正の死後、珍しく朝廷に出ていた万暦帝は、佞臣たちの中傷を信じて、張居正の遺族たちをひどい目に遭わせた。
- 豊臣秀吉の侵攻への対応で、財政は火の車に。
- 彼の墓「定陵」は北京の観光スポット。
- ただし、文化大革命でありとあらゆるものが破壊されてしまい、現在見ることのできる展示物はほとんどがレプリカ。
- 万暦帝の遺体も現物は残ってないらしい。
- ただし、文化大革命でありとあらゆるものが破壊されてしまい、現在見ることのできる展示物はほとんどがレプリカ。
- この皇帝の時代の焼き物は現在結構高値が付く。(大明万暦年製)
光宗・泰昌帝[編集 | ソースを編集]
- 即位一ヶ月で謎の死をとげた。
熹宗・天啓帝[編集 | ソースを編集]
- 宦官・魏忠賢がやりたい放題。
- 自分のことを「九千九百歳」と呼ばせるわ(万歳は皇帝だけの尊称だったので)、全国に自分を祀る祠を建てさせるわ、それは凄かった。
- 当の皇帝は明朝最低の暗君。日曜大工が趣味だったらしい。
毅宗・崇禎帝[編集 | ソースを編集]
- 意欲はあったが空回りばかりしていた人。ちょっと徳川慶喜に似ている。
- 李自成の大軍に包囲された北京城内で首を吊って自殺。宦官がひとり付き添っているだけだった(一説には、その宦官すら席を外していた)という、中国史上もっとも孤独な死をとげた皇帝。
- 皇子たちは脱出させたが、略奪を恐れたのか奥さんと姫君たちを殺して宮殿の北側にある景山で自殺。かわいそう・・・
- そもそも李自成の乱が起こったのは、崇禎帝の事業仕分けがきっかけ。
- 財政再建のために、運輸の要であった駅亭制度を大整理。しかしリストラされた従業員たちの受け皿を考えなかったので、失業者が巷にあふれて叛乱軍となった。
- これに限らず、良かれと思ってやった施策が全部裏目に出た。
- 大臣や高級官僚をほとんど信用せず、自分ひとりで政策を打ち出していたので、どうしても盲点が発生した。独裁体制の末期症状というのはたいていそんなもん。
- 李自成に宛てた勅書には、「卿が望むなら朝廷の百官を殺戮しても構わない。しかし民を犠牲にするのはやめてくれ」と書いてあった。愛民の心はあったのだが……
- 「朕は亡国の君にあらざれども、臣はことごとく亡国の臣なり」とも言っている。大臣たちに絶望していたのはわかるが、ここまで来ると責任逃れっぽい。
- 李自成も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが・・・」とある程度は認めていた。最後は崇禎帝を奥さんと一緒に合葬した事からも極悪非道な皇帝で無いことはわかっていたのだろう。
- 大臣や高級官僚をほとんど信用せず、自分ひとりで政策を打ち出していたので、どうしても盲点が発生した。独裁体制の末期症状というのはたいていそんなもん。
- 即位してすぐに宦官魏忠賢を誅殺。名臣で有名な徐光啓を登用するなど国政改革。
- 自ら質素倹約に勤め、政治にも熱心だったが猜疑心が強すぎた。満州族からの防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺したのは・・・。
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