東ローマ帝国
東ローマ帝国全般の噂[編集 | ソースを編集]
- 東西に分裂したローマ帝国のうち、東側は15世紀までしぶとく残った。
- 分裂直後の経済力は東が西を圧倒していて、東で一年働くと西での六年分の稼ぎが得られた。そのため、多くの人が東へと向かった。
- おおよそ五ヶ月後に百年戦争終結
- 何気にひとつの国家体制が1000年以上続いた稀有な例。1000年帝国。
- 首都はコンスタンティノポリス(旧称はビザンティウム)。今のイスタンブール。
- そのためビザンツ帝国ともよばれる。
- ビザンティン帝国とも呼ばれる。ビザンツ・ビザンティンは分野で使われる言葉が違う。
- ビュザンティオンをビザンティウムとするのを見るたびに絶望する
- ビザンティン帝国とも呼ばれる。ビザンツ・ビザンティンは分野で使われる言葉が違う。
- そのためビザンツ帝国ともよばれる。
- 公用語はギリシア語。また、ギリシア文字の小文字(αとかβとか)が生まれたのもこの時代になってから。
- それまではすべて大文字で記していた。
- はじめの200年ぐらいはラテン語も通用していたが、住民のほとんどがギリシア語しか話せずしだいにラテン語は使われなくなった。
- 政権は常に不安定。皇帝のうち1/3はロクな死に方をしていない。
- 帝都の城門を閉め忘れて滅んだ。
- 国としては東は自称してない。『ローマ帝国 ギリシア語:Βασιλεία των Ρωμαίων (Basileia tōn Rōmaiōn)』
- 476年に当時の西ローマ帝国皇帝が東ローマ皇帝に帝位を返上して東西の帝国が「再統一」されたということになっているとも言えなくもない。
- キリスト教国なのに十字軍に攻め込まれる。
主な皇帝ごとの噂[編集 | ソースを編集]
ユスティニアヌス朝[編集 | ソースを編集]
ユスティニアヌス1世[編集 | ソースを編集]
(在位 527~565)
- 領地を増やした代わりに赤字と税金も増やした、典型的な大事業型君主。
- ほぼ1世紀の平和で温存されていた国力を、惜しげもなく大放出して国を疲弊させたが、イタリアや北アフリカは征服した。
- 本人は普通のワーカホリック型統治者だったが、周囲がとっても優秀だった。
- 例えば、皇帝の乱発する命令で西へ東へ転戦したドM&恐妻家系名将・ベリサリウス、宦官なのに戦争も得意な軍官僚ナルセス、溜まりに溜まった法体系を整理し直したトリボニアヌスなどなど。
- 嫁は水商売系の仕事をしていた20歳年下のテオドラ。反乱にビビって逃げだそうとした時は、この嫁に尻を叩かれて気を取り直した。
ヘラクレイオス朝[編集 | ソースを編集]
ヘラクレイオス1世[編集 | ソースを編集]
(在位 610~641)
- ササン朝ペルシアに勝利して奪われていたシリアやエジプトを取り返したと思ったら、イスラム教徒に漁夫の利で総取りされた気の毒な皇帝。
- 最初の妻と死別した後、実の姪と再婚して子供まで作った。それ何てエロゲ……
- この人以降、皇帝の名前の語尾が「~ウス」から「~オス」に変わるのは、公用語がラテン語からギリシア語に変わったため。
イサウリア朝[編集 | ソースを編集]
コンスタンティノス5世[編集 | ソースを編集]
(在位 741~775)
- 聖像破壊運動を強く推進して反対派を弾圧したため、後世の評判が凄く悪い。
- どれだけ悪いかというと、後世のあだ名はコプロニュモス(ギリシア語でウ○コの意)。
- こんな彼だが、西ではブルガリア・東ではイスラム相手に勝利を重ねた名軍人皇帝。
マケドニア朝[編集 | ソースを編集]
バシレイオス2世[編集 | ソースを編集]
(在位 976~1025)
- 東ローマ帝国でも屈指の名軍人皇帝。領地も増えたが国庫も豊かになったというチート君主。
- 同時代の西欧カトリック圏と違って人道的でもあった。ブルガリアとの戦争で1万人以上の捕虜を得た時も、100人に1人ずつ片眼を潰し、残り全員の両目を潰すだけで解放して故郷に帰してあげた。西欧だったら売り飛ばすか37564のどちらかであろう。
- ただし、帰還兵を出迎えたブルガリア王はショックで死んだ。おかげでブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)という物騒なあだ名がついた。
- 960年には即位してるが、976年まではお飾りの共同統治者に過ぎなかった。
- まだ子供だったので当然ではある。
- 共同皇帝時代も含めると在位65年、これは歴代ローマ皇帝で最長。
コムネノス朝[編集 | ソースを編集]
アレクシオス1世[編集 | ソースを編集]
(在位 1081~1118)
- セルジューク朝の侵略で崩壊寸前の帝国を建て直すため、西欧に援軍を頼んだ。
- が、西欧からやって来たのは無秩序な大軍、略奪上等、非戦闘員多数な十字軍という斜め上な代物だったため、その扱いに四苦八苦した。
- 結局、うまくアジアに送り込んで上前をはねる事で領土の一部回復を達成した。おかげで十字軍側からは評判悪い。
- が、西欧からやって来たのは無秩序な大軍、略奪上等、非戦闘員多数な十字軍という斜め上な代物だったため、その扱いに四苦八苦した。
ヨハネス2世[編集 | ソースを編集]
(在位 1118~1143)
- 帝位簒奪を企んだ姉夫婦に寛大だった事から、カロヨハネス(心美しきヨハネス)と呼ばれた。
- 狩猟用の毒矢をうっかり自分に刺してしまうという情けない理由で死亡。
マヌエル1世[編集 | ソースを編集]
(在位 1143~1180)
- 三代目のご多分に漏れず、派手な大事業好きのユスティニアヌス系。
- 国威は増したが要所で敗北したため、前2代の貯金を使い果たしてしまった、
- 彼の隠し子がサラディンの部将として第3次十字軍相手に大活躍……という設定の歴史小説がある。
アンゲロス朝[編集 | ソースを編集]
イサキオス2世[編集 | ソースを編集]
(在位 1185~1195,1203)
- 俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ!の兄の方。
- 弟に目を潰されて廃位され、その弟を蹴落とすために第4次十字軍を呼び寄せた息子に担ぎ出され、復位したら十字軍への報酬のために重税を課して反乱を起こされ死亡。
アレクシオス3世[編集 | ソースを編集]
(在位 1195~1203)
- 俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ!の弟の方。兄に輪をかけた無能。
- 兄の息子に帝位を追われ、セルジューク朝に亡命するなど悪あがきを続けたがそのうち死亡。
パレオロゴス朝[編集 | ソースを編集]
ミカエル8世[編集 | ソースを編集]
(在位 1261~1282)
- 東ローマの亡命政権であるニケーア帝国の副帝だったが、たまたまがら空きだったコンスタンティノポリスを占領して帝国を復興した。
- 帝国復興のついでに皇帝の目を潰して廃位した。
- “最も狡猾なギリシア人”と呼ばれた屈指の策略家。即位のいきさつといい、あまりお友達にしたくないタイプ。
コンスタンティノス11世[編集 | ソースを編集]
(在位 1448~1453)
- オスマン朝との帝都攻防戦に敗れて戦死した、ローマ帝国のラストエンペラー。
- 判官贔屓気質の強い日本人の間では、総じて格好良いイメージが強い。知名度が低いとか言うな。