素晴らしき将棋棋士の世界/退役棋士

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素晴らしき将棋棋士の世界 > 退役棋士

引退、物故者。

  • なお将棋界では現役を引退しても連盟を退会しない限り生涯「棋士」として扱われる。
  • 一応百科事典項目なので、ネタは遠慮してください。ただし既に広く知られているものについてはネタでも可。
  • 記載は氏名の50音順とします。

あ・か行[編集 | ソースを編集]

素晴らしき将棋棋士の世界/退役棋士/あ・か行

さ行[編集 | ソースを編集]

坂(阪)田三𠮷[編集 | ソースを編集]

  • さかたさんきち(1870年(明治3年)7月1日(旧暦6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)
  1. 伝説の棋士のひとり。
    • 戯曲「王将」にその名を遺している。
      • もっとも劇作にある破天荒な性格はほぼ創作で、普段は非常に礼儀正しい人物だった。
  2. 一時期大阪財界の支援を受け「名人」を自称していた。
    • なお、死後に名人と王将位を贈られている。
  3. 読み書きができず、書けた文字は「三吉」と「馬」だけとされている。
    • 将棋の封じ手に符号だけでなく盤面が記載されるのは、読み書きのできない坂田でも記載できるようにするためという俗説が存在するくらい知られていた。
    • ある日のこと…
      • 「サカタはん、サカタってどう書くんでっしゃろ?」
      • 「そりゃ簡単や。「オオサカ」の「サカ」ですわ」
        • よって「坂田」と「阪田」の両方の表記が存在することになった。
  4. 実は一門は令和の時代まで続いている。
    • 弟子の藤内金吾以下、神戸をはじめとする兵庫県内に将棋道場を構えるものが多いため、一門は「神戸組」と呼ばれる。
      • 通天閣のイメージが強い坂田三吉からするとちょっと意外な感じがする。
    • 孫弟子に内藤國雄・淡路仁茂、曾孫弟子に谷川浩司・久保利明、玄孫弟子に菅井達也・斎藤慎太郎らを擁する。

佐瀬勇次[編集 | ソースを編集]

  • させ ゆうじ (1919年(大正8年)3月17日 - 1994年(平成6年)3月25日)
  1. 昭和の名伯楽として、多数の弟子を輩出。
    • 米長邦雄、丸山忠久と二人の名人を弟子に持つ。
    • その他の著名な弟子として高橋道雄、木村一基、中井広恵らがいる。
  2. 家の雑用をした褒美として米長に指導対局を申し入れるも…
    • 米長は「対局したら師匠の癖がついて、師匠どまりの棋士になるから」と拒否。
    • その場で米長は拳骨を食らうも、しばらくして「考えたら、お前の言うとおりだ」と思い直した。
      • そこで破門にされず、佐瀬が思い直したことで米長から敬われる結果に。
  3. 米長のタイトル戦の控室で、米長の指した手に対し「なんでそんな手を指すんだ」と憤慨。
    • 周りの棋士から「指してるのは米長先生で、佐瀬先生ではありません」とたしなめられた。
  4. 将棋会館の特別対局室で木村一基に対し、説教をしていたところ…
    • 麻雀のメンツが足りないという連絡が入りイラつく佐瀬に対し木村が「僕がやります」と申し出た。
    • そして、そこで終わる予定だった説教がさらに2時間延長された。

芹沢博文[編集 | ソースを編集]

  • せりざわ ひろぶみ (1936年(昭和11年)10月23日 - 1987年(昭和62年)12月9日)
  1. 元祖マルチタレント棋士。文化人タレントのはしりでもある。
    • 肩書は、棋士以外にタレント、俳優、歌手、エッセイストなど。
    • 将棋では勝数既定で九段になったが、A級在籍は2期にとどまり、八大タイトルは最後まで獲れなかった。
      • 室内ゲームには全般にわたって強く、特に麻雀は、棋界内で愛好家が多いにもかかわらず、一・二を争う実力だった
  2. 将棋の普及にも尽力し、全国各地で今も開催される「将棋まつり」は芹沢の発案。
  3. 1982年、当時C級2組で全敗しても降格することがなかったため、猛烈に抗議した。
    • いわく「競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず、給料を貰えるのはおかしい」
      • 1986年にC級2組からの降級が復活。
    • なお今は縮小されているが、棋士には連盟から、活動やクラスに応じた給与が支給される。
      • タイトル料はもちろん、対局料、原稿料、取材、解説。対局指導などなど、およそ棋士の活動の全て。
        • 何もしていなくてももらえる「謎の給料」もあるらしい。というか以前はこれが多かった。
          • 芹沢の指摘は主にこれと思われる。
  4. 当時の第一人者の大山康晴を著書で度々批判。
    • 当の大山は、当然激怒したが「将棋界に役に立つ男」としては芹沢を認めていたという。
  5. クイズダービーに弟弟子の中原誠が出演した際、司会の大橋巨泉が「中原君」と呼んだ事に激怒。
    • 以後、大橋巨泉を著書で攻撃。
    • また「はらたいらに答えを教えている」と暴露して名誉棄損で訴訟になりかけた。
      • これは、後にはらたいらが、間違って次の問題の答えを書いたことで芹沢の主張が正しかった事が証明された。
  6. 姉弟子の蛸島彰子女流名人(当時)が時代劇「新・必殺仕置人」に出演したとき、殺されてコモ(むしろ)を被せられる役だったことにも猛反発。
    • 「女流とはいえ名人、それがコモかぶりでは将棋のタメにならない」と抗議し、結局このシーンはお蔵入りとなった。
  7. トラブルには事欠かなかったため、次第に周囲から敬遠されるように。
    • とどめは板谷四郎の「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」。
  8. 若い頃は将棋の自信にあふれていたが、中原誠や米長邦雄に抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない(※競馬用語:「1位にも2位にもなれない」の意味)」と自信を無くしていた。
    • 結果、朝から酒をあおる生活となり、1987年に肝不全で死去。享年51歳。現役のままこの世を去った。

た~は行[編集 | ソースを編集]

田中魁秀[編集 | ソースを編集]

  • たなか かいしゅう (1947年(昭和22年)3月2日 - )
  1. 名前の「魁秀」は本名ではなく、棋士になった後に改名したもの。
    • 占いに凝っていた師匠の本間爽悦が改名する際、道連れに改名させられた同時に改名した。
  2. 現役で九段に昇段しているが、タイトル挑戦、順位戦A級のいずれも経験したことがない。
    • 竜王戦も2組が最高だが、前身の十段戦で十段リーグ出場経験がある。
  3. 師匠に苦労させられたからか弟子には優しく接し、福崎文吾、佐藤康光をはじめとする個性豊かな棋士を輩出している。
    • 福崎とは順位戦で師弟対局を行い、勝利している。

田中寅彦[編集 | ソースを編集]

  1. 昭和後期から平成初期に数々の序盤戦術を考案した「序盤のエジソン」
    • 居飛車穴熊など、定跡となったものも少なくない。
    • 現在につながる序盤研究の先駆けとも言われている。
  2. その一方で、終盤力に非常に難があり、タイトル獲得は棋聖1期にとどまった。
    • このあたりは藤井猛と似ている。
  3. 大会に出場するたびに上位入賞を果たす現役のスイマーでもある。
    • ニコ生に解説で登場するときは、最近獲得したメダルを並べて登場するのが恒例。

内藤國雄[編集 | ソースを編集]

  • ないとう くにお (1939年(昭和14年)11月15日 - )
  1. 一般的には将棋棋士としてより歌手としての方が有名。
    • 若いころカラオケで歌っている声を聴いた流しのボスが歌手としてスカウトした。
    • 代表曲「おゆき」はミリオンを達成している。
  2. 年間記録4部門(勝率一位、最多勝利、最多対局、連勝)独占を初めて達成した棋士でもある。
    • ただし、当時は表彰の対象ではなかったため、藤井聡太が4冠独占した際に知られるようになった。

永作芳也[編集 | ソースを編集]

  • ながさく よしなり(1955年9月27日 - )
  1. 現在(2018年6月)のところ、自ら日本将棋協会を退会した唯一の棋士。
    • このため、棋士番号139は欠番になっている。
      • 念のために書いておくと、棋士番号はその棋士が亡くなっても消えたり、無くなったり、使いまわされたりしない。
        • 棋士番号制度は1977年制定。その際に存命で、最もプロ入りが早かった金易二郎(当時86歳)が記念すべき1番。引退後30年での授与だった。
  2. 退会した理由は「自分の実力では名人になれないとわかったから」。
    • でも名人になれなくて引退したり、逝去する棋士の方がよっぽど多いと思う。
    • ちなみに理由は他にもあるらしいが、↑だけが有名になっている。
  3. 奨励会時代は「モグラは空を飛べない」と陰口を叩かれた。
    • 意味は「才能のないものがいくら努力してもプロ棋士にはなれない」という意味。
    • 永作は人並み外れた努力で奨励会を勝ち上がり、24歳でプロ入りしている。
      • 将棋会館に置いてあった、永作が棋譜の研究に使った将棋盤は、擦り切れていたという。
      • その事を指す「耕す」という言葉もあった(もちろん皮肉)が、文字通り永作は将棋盤を耕しながら才能の芽をそだてていた。
  4. 奨励会初段の時、東大将棋部で、学生王将の谷川俊昭(谷川浩司の兄)を破っている。
  5. 長らく行方不明とされたが、故郷(茨城県行方市麻生)に帰って保険代理業を営む傍ら、子供向けの将棋教室を開いている。
    • 将棋教室を開いた理由は「元々70歳位でやろうと思っていたが、藤井聡太の活躍を見て始めた」。
      • これも藤井効果である。
    • そして2018年に鹿島神宮で開催された竜王戦第4局会場へ来訪した[1]
  6. なお「永作」姓は、行方市の麻生あたりに多い姓で、女優の永作博美はご近所さんである。

橋本崇載[編集 | ソースを編集]

  • はしもと たかのり
  1. NHK杯の対局の際「金髪のパンチパーマに紫色のワイシャツ」という斬新なファッションで話題をさらった。
    • 奇抜な出で立ちは、ホストやヤンキーに喩えられることもあるが、人柄は見た目とは異なり、温和で礼儀正しく謙虚な時期もあった(過去形)。
    • 「カメラ目線」が多かった事でも話題をさらった。
    • 事前に何もやらなかった対局では、解説の渡辺明に「何か普通でしたね」と言われてしまう始末。
  2. 同じくNHK杯において、よせばいいのに羽生善治との対局前、佐藤紳哉のインタビューのパロディを完全コピーして披露。
    • 「羽生さん?強いよね。序盤、中盤、終盤、隙がないと思うよ。だけどオイラ負けないよ」
    • 「えー駒たっ・・・駒たちが躍動するオイラの将棋を皆さんに見せたいね」
      • さすがに羽生善治を呼び捨てにはできなかった模様。
  3. 同じくNHK杯において、二歩の反則で負けたことがある。
  4. 現役のプロ棋士であるにもかかわらず、芸能事務所と契約してバラエティ番組などにも出演している。
  5. しかし将棋界では、将棋の普及にも熱心で有望な若手株……らしい。
    • ただし自分が指さない手や流行の線型には無頓着で研究しない。
  6. 髪型をしょっちゅう変えることで知られており、髪型が変わる度にネット住民の間でネタにされている。
    • 奇抜な髪型等をするようになったきっかけは、デパートでの将棋大会を見た女子高生が「眼鏡をかけたおたく風出場者が多い」と述べたことに対して「マジやべぇ」と危機感を抱いたこと。
    • 2019年現在はツーブロックにしているが、将棋連盟プロフィールの写真が茶髪時代のままである。
      • 公式プロフィール写真を何年も更新していない棋士は多数いるが、この人はそういった変化が多いため特に目立つ。
      • 2019年10月ごろにひっそり変わってた。
  7. 将棋の普及に熱心なのは確からしく、SHOGI-BAR(将棋バー)という店を経営していたことがある(2017年5月28日閉店)。
  8. NHKの「将棋講座」に出演した際、「夏をイメージして」聞き手役の中村桃子が浴衣姿で出演したのに対し、橋本は浮き輪を持って出演。
    • NHKも寛大になったものだ。
  9. 竜王戦において5連続昇級を果たしたが、全て昇級決定戦(敗者復活戦)での達成だった(別名:裏街道)。
  10. コンピューターによる状況判断に対し断固拒否の姿勢を持っており、コンピューターによる評価値を使用するニコ生と一時期断絶状態だった。
  11. 生まれた場所は石川県となっているが、親が転勤族のため出身地はよくわからないらしい。
    • プロデビュー後にも一時関西に移籍したことがある。
  12. 2020年10月より「一身上の理由」で休場していたが、翌年4月に突如引退を発表。
    • その理由がなんとも悲惨…。
    • しかもそれが原因で最終的には逮捕されてしまった。名誉毀損で執行猶予中だったため実刑判決は不可避である。

花村元司[編集 | ソースを編集]

  • はなむら もとじ (1917(大正6)年11月18日 - 1985(昭和60)年5月25日)
  1. 東海の鬼と呼ばれた元真剣師。プロにならなかった方が儲かったかもと豪語していた。
  2. 戦時中、兵役に送られるもマラリアで帰国。編入試験によりいきなり五段に。
  3. 60歳でA級昇級を果たす。順位戦昇級自体の最年長記録。
  4. まともな将棋の勉強をしていないためか破天荒な棋風だった。
    • だが名人戦で大山に敗れた際に↑の言葉をかけられたように大山にはまったく勝てず、そのため弟子はかなり優等生タイプ。
      • ただし森下卓も深浦康市も引きが弱く、その点は師匠を受け継がなかったらしい……。

ま~わ行[編集 | ソースを編集]

升田幸三[編集 | ソースを編集]

  • ますだ こうぞう (1918年(大正7年)3月21日 - 1991年(平成3年)4月5日)
  1. 間違いなく伝説の棋士の一人。
  2. 将棋界の革命児で、「新手一生」をモットーとして次々と新手を編み出し「将棋と言う競技に寿命があるなら、その寿命を300年縮めた」と言われる。
    • 現在でも将棋の新戦術を編み出した棋士に「将棋世界」から送られる「升田幸三賞」にその名をとどめている。
  3. 将棋の実力はもちろん、その豪放磊落な性格と放言癖は、数々の伝説を残している。
    • 故郷を発つとき「この幸三、名人に香車を引いて…(勝つ)」と書きおいて、後に王将戦で大山康晴名人(当時)に対し、実際に香落ちで勝って現実のものとした。
  4. ヘビースモーカーで、一日に200本吸ったと言われる。酒豪でもあった。
    • 谷川浩司に対して「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」。
  5. ギャンブルは一通り験してみた結果「運に左右されるものは勝負じゃない」とその後はやらなかった。
  6. 戦後GHQが「将棋は捕虜(取った駒)を再び使うから捕虜虐待につながる」という理由で廃止しようとしていたところ。
    • 「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。」
    • 「キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」
      • これを延々と5時間に渡って話続け、将棋の廃止は免れた。
  7. 全日本選手権戦(竜王戦の前身)で木村義雄名人(当時)と対局した際
    • 升田「名人など所詮はゴミのようなもの」
    • 木村「じゃあ君は一体なんだ?」
    • 升田「ゴミにたかるハエだな」
    • 木村「では名人に挑戦くらいしてはどうかね?」
      • 升田は後に実際に名人のタイトルを獲得している。
  8. 塚田正夫とは仲がよかったが、あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、塚田も頭にきて反論、太陽だ、月だ、と言いあった。
  9. 名人獲得は2期で永世名人資格を持っていないが、将棋界における貢献から「第4代実力制名人」の称号が贈られている。
    • 永世名人(含・有資格者)以外でこの称号を持つのは、升田以外では塚田正夫(第2代実力制名人)のみ。
    • 升田と塚田は親友同士で、実力制名人の称号も升田と塚田同時に贈られている。
  10. 羽生善治が「将棋を指したい相手は?」と聞かれて「升田幸三」と回答。
    • 羽生善治がデビューしたとき、升田は存命中であったが、囲碁は指したが将棋は指さなかった。
      • どうして棋士同士でわざわざ囲碁を指すのか?

村山聖[編集 | ソースを編集]

  • むらやま さとし(1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)
  1. 29歳でこの世を去った、悲劇の天才棋士。
    • 5歳で腎臓の難病(ネフローゼ症候群)を患っている事が判明、いったん普通の小学校に進むも、その後は病院内学級と養護学校で過ごす。
    • 当時から「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
      • 院内学級では、亡くなっていく子もおり、かなりつらい思いをしたという。
    • 将棋を覚える前は、子供ながら自暴自棄になり、両親や兄弟を困らせていた。
      • 厳しい食事制限に加え、運動も禁止されていた。
    • 毎年、元旦には「来年の元旦も生きていられますように」と願ったという。
  2. 将棋を覚えたのも病院内で、それに没頭するように。
    • 小学2年生の時に父親から駒の動かし方を教わり、それから看護士がとめるのも聞かず、将棋に没頭するようになる。
    • 10歳でアマ四段認定。
    • 中国こども名人戦に初出場で3位。以降は4連覇を達成(同大会は年2回実施)。
    • 12歳で小学生将棋名人戦に初出場、3回戦で佐藤康光に敗れて全国レベルの高さを知る。
      • この大会では、ベスト32に残った子供の中から、後に女流も含めて9人がプロになっている。
      • 村山に勝った佐藤康光は準決勝敗退、羽生善治も準々決勝で敗れた。
      • 羽生は翌年、六年生の時に優勝している(羽生の学年は村山の一個下)。
        • この大会は当時ベスト4以上がテレビで放映され、決勝の総評に大山康晴、解説を谷川浩司が務めていた。
          • この翌年に谷川浩司は21歳で名人位を獲得、村山の目標となる。
            • この時、大山・谷川・羽生の3名人が、時空の壁を越えて居合わせた。
    • 中一の時に中学生将棋名人戦でベスト8。この時の優勝者は中川大輔。
  3. 1981年、中学一年で「大阪に行って奨励会に入らせてくれ。谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」と言ってプロ棋士を目指すようになる。
    • 両親は猛反対したが、あまりにも情熱的に語る聖に負け、また病気の事もあって村山の希望を聞き入れた。
    • 両親が師匠探しに苦心した挙句、森信雄に弟子入り。
  4. 1982年、奨励会に合格するが、師匠がバッティングしており、もう一方の師匠の反対で入会取り消しに。
    • 1983年再受験して5級で入会。
      • 1986年11月5日、17歳の時に四段に昇格してプロデビュー。奨励会在籍2年11か月は、現在(2018年5月)に至るまで最速通過記録。
        • しかも入院しながら、月2回の外出許可の中での記録であった。
  5. ライバル・羽生との関係
    • 羽生善治と同時にC級1組に昇級、五段となる。
    • 「東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいる」と騒がれた。
    • 村山は羽生を認め、年齢が1つ下にも関わらず「羽生さん」と呼んで周囲の失笑を買った。
      • 当時は年上=偉いという概念が根強く、特に勝負師の世界である棋界では、村山の態度は「敵前逃亡」と映ったのである。
    • 村山が最後に会った棋士は、羽生善治。
      • 最期の頃、村山が入院していた広島に羽生が仕事で来ていることを聞きつけた村山が父親に頼み、会場まで自動車で連れて行ってもらった。
      • 村山は、もうすでに危険な状態であったが、病気の事は周囲には隠しており、羽生も知らなかった。
  6. 度重なる体調悪化に悩まされる。
    • 村山自身が「(体温が)40度になったら死にます」と言い、実際には40度を超えていても師匠の森は「まだ40度は超えてない。大丈夫や。」といって励ました。
    • 少女漫画が好きだったが、体調のために自分では買いに行けず、師匠が買いに走っていた。
      • 師匠はどこに売っているかもわからない少女漫画を探してあちこちの書店を巡ったという。
      • 蔵書は少女漫画3000冊。同じ本を「読む分、書棚に飾る分、保存する分」3冊買った。
        • 死亡時は蔵書7000冊。それでも処分しているという。
        • なお、インタビューでは3冊買うことについて否定している。
    • 体調が思わしくない時は身体が鉛のように重くなり、移動するのもままならなかったという。
      • 夜中、トイレ(小)の際は、トイレまでの移動ができず、ペットボトルで済ませること多数。
    • 奨励会員になって初の対局は、1日に3局指し、そのまま昏倒して2ヶ月入院。
    • 千駄ヶ谷駅から将棋会館まで徒歩5分ほどだが、体調の悪い時は歩けない事もあり、その場合はタクシーを使っていた。
      • その後も入院はしょっちゅうで、病院から対局に通う事もしばしばであった。
      • そもそもその状態でプロ棋士と将棋を指し、しかも勝つことは、健常者でも並大抵の事ではない。
  7. ニックネームは「怪童丸」
    • 村山は「爪や髪の毛にも命がある」として切らず、ひげもそらず、病気と薬の副作用のための浮腫(むくみ)もあって独特の風貌になっていた。
    • 身体の負担になるため、風呂にはたまにしか入らず。
      • 理由は不明だが、歯も磨かなかったようで周囲からは「不潔」と言われた。
        • 当然本人は悩んでいたが、師匠の森は「強くなったら誰も何も言わなくなる」と励ました。
  8. 終盤に抜群に強く「終盤は村山に聞け」と言われた。
    • A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で観戦していたところ、詰め将棋作家としても有名な内藤國雄が「これは詰んどるぞ」と言ったので、一同で詰みを探したが……。
      • 村山は「詰まない」と主張、自ら詰まない筋を示した。ちなみに当時奨励会員。
  9. 20歳前に「名人になって早く将棋を辞めたい」と発言。
    • 自分の命が限られている事がわかっていた事と、病気で苦しみながら将棋を指していたがゆえんの発言。
    • 文字通り「命を懸けて将棋を指して」いたため、将棋は滅法強かった。
      • しかも村山は体調の関係で対局に行けない事もしばしばであった。
    • 1995年4月、A級八段。悲願の名人位が射程圏内に。
  10. 羽生善治とは実力伯仲だった。
    • 最初の対戦で、羽生は村山の指し手と病状に関し「こんなのが最初の作戦で大丈夫?」と二重の意味で思ったが
      • 「そんな状態で、指す将棋がとんでもない冴えと切れ味。その二面性に、棋士の中でも異質なタイプなんだなとしみじみと思っていました」
    • 村山は羽生に初戦から3連敗を喫する。
      • がその後は4勝1敗と盛り返して4勝4敗のタイに。
    • 1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦して勝ち、通算対戦成績を6勝6敗のタイに。
    • しかしこの頃から体調がますます悪化し始める。
  11. 晩年はがんと闘病生活に。
    • 1997年頃に膀胱がんが見つかり、8時間半の手術を受けて復帰。
    • ただし放射線治療と抗がん剤治療は「対局に影響がでる」と拒否した。
      • また「がんに効く薬は飲むが、鎮痛剤や苦痛を和らげる薬は拒否する」とし、医師がこっそり点滴に鎮痛剤を混ぜると察して激怒したという。
    • 同年のNHK杯の決勝で羽生と対戦するが、優勢に進めていたにも関わらず、自らのポカで負けて対戦成績を6勝7敗とした(厳密にはこの後不戦敗が1つあるので6勝8敗)。
      • 結果的にこれが対羽生善治の生涯対戦成績となった。ただしこの後は羽生以外の棋士を相手に公式戦で5連勝を挙げるなど、神がかり的な強さを見せる。
    • 1997年末頃から血尿に悩まされるが、対局を優先して精密検査を受けず。
  12. 1998年4月、広島で検査を受けた結果、癌の再発・転移(肝臓がん)が見つかり「1年間休戦し療養に専念」する。
    • ただし身内以外には病気を隠し、病室にも名札を付けなかった
      • 現在は個人情報保護の観点から付けていない病院・病室も多いが、当時はつけるのが当たり前。
    • 1998年8月8日逝去。享年29歳。翌日九段追贈。
      • 訃報が将棋連盟に伝えられたのは二日後の8月10日。その報を東京将棋会館の対局中に知った羽生善治は、翌日午前中に村山の実家に弔問に訪れた。
        • それから、毎年村山の実家には羽生から村山聖に宛てた年賀状が届けられているという。
  13. 目指した名人はおろか、八大タイトルの獲得はついにかなわず、一般タイトルの獲得も2つにとどまった。
    • タイトル挑戦も王将戦1回のみだった。
  14. 生涯成績は356勝201敗(うち不戦敗12) 勝率0.639。
  15. その生涯は「聖の青春」として本になり、映画化もされた。

森信雄[編集 | ソースを編集]

  • もり のぶお (1952年(昭和27年)2月10日 - )
  1. 棋士としてよりも師匠として有名。
    • この人もある意味、将棋の神に愛された人生を送っている。
    • なお、棋士としても新人王戦優勝という実績を持っている。
  2. 19歳で棋士を目指し奨励会の門をたたいた。
    • 当時の奨励会規定では3級以上での受験となるが、森には4級での入会が認められた。
      • 当時は関西所属の奨励会員が少なく、記録係要員としての入会だったという。
      • 奨励会に入って間もなく、関西本部塾生として将棋会館に住み込みで将棋の修業に明け暮れた。
  3. 21歳で初段になれなかったが、退会宣告されず、そのまま奨励会にとどまることが許された。
    • 当時有力棋士の子息が年齢制限を超えて奨励会員にいたこと、塾生としての態度を他の棋士から評価されての猶予処置だった。
    • そして1年後に初段へ昇段した。
  4. 村山聖の師匠として有名だが、他にも多数の弟子を持つ名伯楽。
    • 2019年現在、棋士12人、女流棋士3人は佐瀬勇次(棋士11人、女流棋士6人)に次ぐ。
    • 山﨑隆之、糸谷哲郎、千田翔太、女流では谷口由紀、山口絵美菜、石本さくらなど個性派棋士が多いのが特徴。
      • 当初は「弟子は取らない・結婚もしない」という方針だったが、村山を一目見て気に入り、弟子入りを許可した。
      • なお後に結婚もしたが、そのことは一番弟子の村山にも知らされておらず、村山は新聞で師匠の結婚を知った。
    • 「毎日詰将棋を解くこと」というのが一番の教え。
  5. 初めて棋士になった弟子でもある村山聖との関係は「聖の青春」などに書かれている。
    • 村山のために少女漫画を探す森の姿を見て「どちらが師匠でどちらが弟子か」などと言われたこともあるとか。
      • 子弟というより親子の関係だったともいえる。
        • 森が村山と通っていた定食屋の女将からは、ずっと「嫁に逃げられた父子」と思われていた。
  6. 飼っているヨウムを溺愛し、最初の数分はヨウムの話が続く。

米長邦雄[編集 | ソースを編集]

  • よねなが くにお (1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日)
  1. 69歳で亡くなったのが惜しまれるエピソード満載の棋士。
    • この没年齢の数字すら、氏ならではのギャグに見えてしまう。
  2. 本人はプロ志望ではなかったが、師匠の方からスカウトされた。
    • この時、師匠が両親に言ったセリフ。
    • 「息子さんは名人にはなれないかもしれないが、八段にはなれます。」
    • なお米長は九段になって名人位も獲得している。
  3. 女子小学生の内弟子(林葉直子)を取った事があり、そのまま「りゅうおうのおしごと!」の設定のネタにされた。
  4. 升田幸三に可愛がられたが、升田には「麦長くん」と呼ばれていた。
  5. 兄が3人いるが、3人とも東大に進んでいる。
    • 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と発言した(と言われている)。
      • このエピソードは、同じく兄が東大に進んだ谷川浩司の発言として語られることもある。
      • 元々は芹沢博文のネタ話とされている。
  6. 「あなたのストレス解消法は」と質問されて「口に出すわけにはいかない」。
    • 「可能ならばやってみたいスポーツは」と訊かれて「段違い平行棒」。
  7. 42歳の時にヌード写真を雑誌で掲載。
    • 需要のほどは不明だが、確かに話題はさらった。
    • 撮影場所は鳥取砂丘
  8. 女性関係でもめ事があると、桐谷広人(上述)に解決させ、脅迫文の代筆までさせていた。
  9. 1996年、「コンピュータがプロを負かす日は? 来るとしたらいつ」というアンケートに「永遠になし」と回答。
    • それから16年後の2012年、米長はボンクラーズに敗れている。
  10. 十段戦(竜王戦の前身)で福崎文吾に敗れた際、その福崎に「おめでとう」と言って自ら花束贈呈。
  11. 政治的立場は保守派であるが、日本共産党が若手登竜門のタイトル(新人王戦)を主宰しているため「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」と発言。
  12. 囲碁がめっぽう強く、将棋棋士なのに「碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣」という本を書いている。
    • 囲碁は八段(追贈)
  13. 末期は前立腺がんにかかったが、その際には「癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~」という本を書いている。
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