素晴らしき将棋棋士の世界/退役棋士/あ・か行
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引退、物故者。
- なお将棋界では現役を引退しても連盟を退会しない限り生涯「棋士」として扱われる。
- ちなみに、日本将棋連盟を退会した元棋士は2022年現在2名のみ。(女流棋士は除く)
- 退役・退会女流棋士は素晴らしき将棋棋士の世界/女流棋士へ。
- 一応百科事典項目なので、ネタは遠慮してください。ただし既に広く知られているものについてはネタでも可。
- 記載は氏名の50音順とします。
あ行[編集 | ソースを編集]
有吉道夫[編集 | ソースを編集]
- ありよし みちお (1935(昭和10年)年7月27日 - 2022(令和4年)年9月27日)
- 大山康晴の一番弟子。
- 師匠とは四度タイトル戦を戦ったが、一度も勝てず。ただし名人戦では3勝2敗まで持ち込んだ。
- 通算成績は大山の40勝29敗。
- 通称「火の玉流」。
- 還暦A級棋士の一人。
- 順位戦から降格しながらも、NHK杯戦や棋王戦などで勝利して引退を引き延ばした。
淡路仁茂[編集 | ソースを編集]
- あわじ ひとしげ (1950(昭和25年)年3月21日 - )
- 現代将棋の定跡を作った一人として有名。
- 将棋関係者(棋士・観戦記者など)が研究・検討用に使うデータベースの基本設計も行っている。
- それ以上に反則回数の多さで有名。
- 通算反則回数7回は断トツ一位。NHKの番組で米長邦雄より「永世反則王」の称号を与えられた。
- 神吉宏充が反則負けをしたとき、たまたま関西将棋会館にいた淡路はわざわざ神吉のところにやってきて「君もやったか!」と喜んだ。
- 手数が多いことから「三枚目の男」の異名を持つ。
- 由来は棋譜の記録用紙で、一枚あたり80手まで記録できるが、淡路は160手を超えて三枚目を使う(使わせる)事が多かったため。
- 研修会の対局で駒落ちの上手を持ち、一日4局全て入玉で勝ったことがある。
- 引退後も棋聖戦第一局の立会人をつとめている。
- 会場が「ホテルニューアワジ」だからだろうか。
- ニコ生で次の一手アンケート前に指し手が進んだ時などに使われる「間に淡路」と直接関係はない。
- 元来は囲碁棋士の淡路修三に由来し、「将棋棋士にも淡路先生がいるから」と豊川孝弘が輸入したもの。
- そのこともあり、当人はあまり気にいってないらしい。
石田和雄[編集 | ソースを編集]
- いしだ かずお (1947(昭和22年)年3月29日 - )
- 名前は「石田」であるが、将棋定跡の「石田流」とは無関係。
- 奨励会時代はその昇級スピードの速さから「岡崎の天才児」と言われた。
- いわゆるA級九段であるが、タイトル獲得はおろか挑戦者になったこともない。
- ある意味ひふみん以上に騒がしい。
- 扇子を鳴らしてテンポをとる棋士は少なくないが、その音が大きい。
- 時には自分の頭をたたくこともある。
- 考慮中に前傾姿勢になる棋士は少なくないが、常時盤上に頭を出してくるのはそんなにいないと思われる。
- 加藤一二三や藤井聡太など、対局中に相手側から盤面を見る棋士もいるが、離席している間に相手の座布団に座るのはたぶんこの方くらい。
- ご丁寧に相手の駒をそろえることもある。
- 棋士によっては「座る場所がない」と、対局室の前でウロウロしたとか。
- ご丁寧に相手の駒をそろえることもある。
- 感想戦ではとにかくボヤキまくる。
- NHK杯では対局相手の北浜健介そっちのけで解説のひふみん相手にボヤキまくった。
- 扇子を鳴らしてテンポをとる棋士は少なくないが、その音が大きい。
- 引退前から柏の将棋センター師範として、普及活動や後進指導にあたっている。
- 実際に弟子としている佐々木勇気や高見泰地だけではなく、柏将棋センターで育った三枚堂達也(師匠は内藤國雄)も一門扱いとしている。
- 「弟子の棋譜中継を見ながら一杯やる」のが楽しみ。
- 佐々木勇気が藤井聡太に勝利した際にはニコ生の中継に電話で登場。
- 解説の木村一基に佐々木勇気の勝利宣言をさせようと躍起になり、木村を投了寸前に追い込んだ。
- 高見泰地が叡王を獲得した際、報道陣と一緒に対局室へ入り、感想戦に同席。
- 当人は「周りから言われた」といっていたが、居ても立っても居られない姿が見てられなかったのであろう。
- 佐々木勇気が藤井聡太に勝利した際にはニコ生の中継に電話で登場。
- 令和になってまさかのYouTuberデビュー。
伊藤博文[編集 | ソースを編集]
- いとう ひろふみ(1960年(昭和35年)2月8日 - )
伊藤果[編集 | ソースを編集]
- いとう はたす (1950年(昭和25年)9月16日 - )
- ほとんど実戦経験がないまま奨励会試験を受け、6級で合格。
- 「記録要員」としての採用だったものの、急激な成長を見せ、プロ棋士となった。
- 「風車」と呼ぶ守備に特化した独自戦法で相手を翻弄させる将棋を得意としていた。
- 棋士としてより詰将棋作家としての方が有名。
- 棋士を引退した際には「やっと詰将棋創作に専念できる」と語った。
- その作品は、「終盤力を向上させる」というよりは「将棋の盤駒を使ったパズル」というのが正しいとされる。
- 弟子の竹部さゆり曰く「棋力を上げるためには役立たない」
- 竹部が解けるかどうかが、作品として発表する基準になるらしい。
- 同じく弟子の及川拓馬は最初詰将棋の弟子とする予定だった。
- 弟子の竹部さゆり曰く「棋力を上げるためには役立たない」
大山康晴[編集 | ソースを編集]
- おおやま やすはる (1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)
- 中原誠らと並んで羽生善治以前の世代の代表格。
- 大の麻雀好き。タイトル戦の対局中にも記者室に顔を出し「君たち、仕事(麻雀)しなさい」というのが常だった。
- 2日間の対局の場合は、将棋の勝負が終わってから自らも参加。
- 大変な負けず嫌いで、歩いている時、他人に抜かれると悔しがって抜き返したほど。
- 将棋4コマ漫画でギャグのネタに使われたが、その漫画の作者いわく「(実際の)大山は将棋しか考えない鉄人だった」と証言している。
- 棋士の間では「盤外戦の名人」としても有名で、既に自らの勝ちが見えた勝負でも、わざと遠回しに指して相手に精神的ダメージを与えた。
- 特に若手有望株に対して使い、自分の第一人者としての地位を守ろうとした。
- 羽生善治とも対戦し、大山はこの手を使おうとしたが、羽生は負けを見越して早々に投了して通じなかった。
- 最たるものは1972年の「福田家事件」(福田家は対局場となった旅館)。
- 内藤國雄棋聖に対し、大山は挑戦者であるにも関わらず、対局前日、内藤がまだ到着していなかった(※遅れることは事前連絡あり)のに「時間になったから宴会を始めよう」と言い出し、周りも大山の言う事に従わざるをず、宴会を行った。
- 内藤が到着したときには宴会は終わっており、それを見た内藤は激怒。そのまま銀座で大酒をあおり、内藤は翌日の対局でも負けた。
- さらにこれ以降実に10年にわたって内藤は順位戦で大山に勝てず、カモにされていた。なぜかと言えば、大山はその後も内藤との対戦では……
- 対局中に「内藤さん、テレビに出ると、いくらもらえるの?」「封じ手を2時過ぎにやって、すぐ麻雀にしよう」「福田家には、お手つきの仲居さんがいたしね」と内藤の神経を逆なでしていた。
- 内藤國雄の、対大山の対戦成績は18勝50敗(勝率.265)で終生苦手にしていた。
- 真剣師(賭け勝負師)出身の花村元司には、自分が勝った後に「あんたは所詮素人だもんね」。
- 対局中の雑談は、現在では当然のマナーとして行われないが、大山はこの雑談で相手を怒らせては正常な思考を奪っていた。
- いくら盤外戦でもここまで徹底するのは珍しく「どんな手を使っても勝つ」という大山の哲学が垣間見える。
- ちなみに盤外戦は、最近では流行らないらしい。
- 相手の側に回って将棋盤を眺めるのも元々は盤外戦術の一つだが加藤一二三の「ひふみんアイ」は盤外戦術とは考えられていない。
- コンピューター将棋がまだ使い物にならなかった頃から「コンピューターの方が強いに決まってるじゃないか」と未来を予期していた。
- 「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」とも発言。
- 現代将棋では羽生善治や渡辺明などの超一流棋士でもコンピューターで棋力を磨くのが常識だが、大山が今生きていたらどういうのだろうか?
- 師匠としても有吉道夫、行方尚史、中田功らを輩出。孫弟子の佐藤天彦は名人となった。
か行[編集 | ソースを編集]
加藤一二三[編集 | ソースを編集]
- かとう ひふみ (1940年(昭和15年)1月1日 - )
- ご存じ「ひふみん」。
- 同じ愛称を持つアニメキャラが同時期に話題になったのをTwitterでネタにされてたら、本人にも捕捉されてしまった。
- 藤井聡太のプロデビュー戦で対局、それに負けて引退したが、おかげで将棋を知らない人たちにも有名になった。
- そのため、藤井聡太に会うたびごとに「(有名にしてくれて)ありがとう」。
- 実は「藤井聡太に負けたから自ら引退」したのでなく、「誰に負けても強制的に引退(フリークラス降格+定年)」だった。
- 将棋の女神は、最後までひふみんに微笑み続けた。
- そのため、藤井聡太に会うたびごとに「(有名にしてくれて)ありがとう」。
- でもそこは勝負師。身内では「僕には藤井聡太でも破れない記録があるんだよ」と自慢している記録があるらしい。
- 残念ながらそれが何の記録だったかは失念。
- 順位戦A級昇格の最年少記録らしい。
- それは藤井聡太も可能性があるので最年少五段記録かも。これならもう結果が出てるので藤井は達成不可能。
- 下にもあるけど負け数とか降格回数かもしれない、藤井聡太なら負けない的な意味で。
- やはり「18歳3か月で順位戦A級昇級」の最年少記録。しかも藤井聡太との対談時にこれを加藤から教えられ、藤井はその場で「ひいふうみ…」と指を折って数えて頷いたとか。
- それは藤井聡太も可能性があるので最年少五段記録かも。これならもう結果が出てるので藤井は達成不可能。
- 順位戦A級昇格の最年少記録らしい。
- 残念ながらそれが何の記録だったかは失念。
- 大の猫好き。
- 外で猫を見かけると「ハロー」と手を上げて挨拶。続けて「君達も、将棋に興味があるのかい?」
- 野良猫にエサを与え続けた結果、猫が増えてご近所トラブルに。
- 現在のひふみんキャラからは想像もつかないが、デビュー当時は「神武以来の天才」と騒がれた。
- 加藤が11歳の時、関西将棋会館で板谷四郎に指導対局を受けていた際、たまた通りかかった升田幸三が一目で加藤の才能を見抜いた。
- 天才が天才を知る、ということらしい。
- 「以来」は「このかた」と読む。
- 加藤が11歳の時、関西将棋会館で板谷四郎に指導対局を受けていた際、たまた通りかかった升田幸三が一目で加藤の才能を見抜いた。
- 上記の大山康晴に匹敵する、盤外戦術の帝王。
- 「盤外であろうと、主張すべき事は決して譲らない」とか。
- 盤外戦術というよりこの人の場合、素でやってる事が相手に嫌がられているだけだと思う。
- 「盤外であろうと、主張すべき事は決して譲らない」とか。
- 南口繁一の元に入門したが、南口の死後師匠を変えている。
- 通常は師匠が亡くなっても、師匠を変えることはない。
- とにかく暑がり。
- 三浦弘行との対局は盤上だけではなく室温を巡る争いもあった。
- 互いに1手指すごとに室温を3℃単位で調整。
- それを見た塚田泰明いわく「1℃単位ならバレないのに」
- 互いに1手指すごとに室温を3℃単位で調整。
- 女流棋士戦で立会人をつとめた際、室温の低さに耐えかねた竹部さゆりが米長邦雄に抗議。
- 米長の答えは「加藤先生が立会人の時は一枚羽織るものを持ってくること」
- 三浦弘行との対局は盤上だけではなく室温を巡る争いもあった。
- 敬虔なクリスチャンであり、賞金の多くをキリスト教に寄付。
- 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
- ただしどの程度すごいのかはチャクウィキでは判断できない。
- 自戦記の1章をキリスト教の教理解説に費やすほど信仰している。
- なお、ガチで対抗できる棋士は哲学者の顔も持つ糸谷哲郎だけ。
- 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
- 引退後も2018年現在、公式戦における対局数(2,505)及び敗北数(1,180)で一位を保持している。
- 勝利数は三位(1,324)。
- 一位は大山康晴(1,433)、二位は羽生善治(1,400・更新中)
- 2019年、一位羽生善治(1,434+α)、二位大山康晴(1,433)になりました。
- 一位は大山康晴(1,433)、二位は羽生善治(1,400・更新中)
- 勝利数は三位(1,324)。
- サザエさんでその名前が出てきたことがある。
- 「大鵬を見ろ、将棋の加藤八段を見ろ!みんな若いのに頑張っておる」
- 何故かVTuberでびゅー。一応中の人は非公開だけど誰がどう見ても公然の秘密にしかなっていない。
- 一応現役当時のタイトルの内6つは制している、だが棋聖だけは取れなかった(竜王は十段戦の時に3期、王座は一般棋戦時に1期取っている)。
- 棒銀。
- 自ら引退or現役中に没するではなく、規定により強制引退を喰らった初の名人でもある。
神吉宏充[編集 | ソースを編集]
- かんき ひろみつ (1959年(昭和34年)3月1日 - )
- 師匠の内藤國雄とともにタレント棋士のはしり。
- 関西では「将棋の強いお笑い芸人」と思われている。
- NHKに将棋番組の企画を持ち込み、「大逆転将棋」という特番の司会を(引退後も)つとめている。
- 一時期中断されていたが、昨今の将棋ブームで2018年正月特番として復活。
- 奨励会に入る前は普通の会社員だったという棋士としては異色の経歴を持つ。
- YouTubeに「神吉宏充の最高!エンタメ将棋」というチャンネルを持つユーチューバーでもある[1]。
- でもチャンネル登録者が147人(執筆時点)というのは何かのギャグか?
- あとゲストが偏りすぎ。北浜健介とか北浜健介とか北浜健介とか。
- 瀬川晶司のプロ編入試験で試験官を務め…
- 対局場に上下ピンクのスーツで登場。
- 対局中に大盤解説会場へおもむき、解説を行った。
桐谷広人[編集 | ソースを編集]
- きりたに ひろと (1949年(昭和24年)10月15日 - )
- 財テク棋士。
- 証券会社に対局指導に行き、株式投資を覚えた。
- 正確に言うと証券会社職員の同業者懇親団体的なところに行っていたらしい。
- 証券会社に対局指導に行き、株式投資を覚えた。
- 衣服や靴、日用品などもすべて株主優待品。現金を使うのはマンションの家賃と光熱費くらい。
- 元々は普通にお金を払って生活していたが、リーマンショックで株式が暴落したため、配当なども減り、お金をつかえなくなった。
- そのため、自動販売機は使えない。
- 食事を賭けて対局して負けるとレストラン関係の株主優待券が出てくるので対局者はポカーン。
- 元々は普通にお金を払って生活していたが、リーマンショックで株式が暴落したため、配当なども減り、お金をつかえなくなった。
- 年間140本もの新作映画を観るという映画通。
- テレビ番組で映画の試写会に訪れた際、ジョニー・デップに映画の感想を直接伝えるという離れ業を演じた。
- 映画鑑賞も、もちろん株主優待。
- 実は升田幸三の弟子で唯一棋士になった人物である。
- コンピュータを活用した序盤研究を最初にやった棋士の一人なのだが、評価されたのは引退後だった。
- 移動は雨でも自転車。
- 63歳の時、自転車(しかもママチャリ)で48.3km/hを出したことがある。これは女子競輪選手並らしい。
- バリュー株投資ばっかりやっているイメージを持たれている。
- 実際には、2017年頃に、粉飾決算でボラが高くなった東芝株をガンガン商いしたりと、結構勇ましい。
- 婚約までした彼女を米長邦雄に寝取られた。それも2人も。
- 多分、桐谷氏のコミュ障チックな所は、このあたりも災いしているんだろうなと思う。
- 米長が会長だった時代はよく週刊誌の取材で米長の悪口を言っていた。
- 弟子に大平武洋、今泉健司がいる。
- 今泉は三段リーグ編入試験以降桐谷門下。
桐山清澄[編集 | ソースを編集]
- きりやま きよずみ(1947年(昭和22年)10月7日 -
- 加藤一二三引退後の最高齢棋士。
- この年代の棋士には珍しく飲む打つ買うをほとんどしなかったことが長続きの秘訣とも言われている。
- 70歳を超えた現在も最新系の研究を進め、週2回ジムに通って体力の維持をはかる生活を送っている。
- 吉野へ旅行に来ていた升田幸三に実力を認められ、当時東京在住だった升田の内弟子となったもののホームシックになり、程なくして実家に戻った。
- あいさつに来た親を送ると言って、最寄り駅ではなく東京駅まで一緒についていった。
- 実家に戻ってから奨励会に入会したため、師匠は升田ではない。ただし読みは「ますだ」。
- 2018年度は前年度から引き続き26連敗を喫し、わずか1勝しか挙げることができなかった。
- 2019年度限りで順位戦を陥落したものの、竜王戦は5組に残留。竜王戦限定で現役を続行することになった。
- しかし2022年、フリークラス規定の「5組で現役を続行できるのは2年間」に引っ掛かり引退。1000勝に一歩及ばなかった。
- 2019年度限りで順位戦を陥落したものの、竜王戦は5組に残留。竜王戦限定で現役を続行することになった。
- 「きよすみ」ではなく「きよずみ」。
- タイトルは棋聖3回棋王1回だが、共に米長から奪っている。
- 通称はカラス天狗。
- 豊島将之の師匠。
熊坂学[編集 | ソースを編集]
- くまさか まなぶ(1977年(昭和52年)5月17日 -
- 理論上最速の三段リーグ突破から13年1ヶ月で強制引退を喰らった。
- 27歳でのフリークラス陥落も最年少記録。他にも順位戦の最低勝ち数などの珍記録を持つ。
- フリークラス在籍の最終年度はギリギリまで昇格しそうだったのだが、最後の1勝ができずに引退。
- ただ引退後も将棋普及活動に励んでいて、将棋が嫌になったわけではなさそう。
小林健二[編集 | ソースを編集]
- こばやし けんじ(1957年(昭和32年)3月31日 -
- 記録係に関するエピソードが多い。
- 初めて記録係をつとめた対局で千日手になったが、千日手局の棋譜は不要と判断し、書いた棋譜を捨ててしまった。
- 棋譜は再現できたが、時間は再現できず偽造した。
- 初めて二日制の対局の記録係をつとめた時、封じ手の後「そのままの局面にすれば手間が省ける」と駒の片づけを行わず、翌朝立会人に大目玉を食らった。
- そのためかどうかは不明だが、現在はタイトル保持者が一日目終了後に駒を片付けることになっている。
- 初めて記録係をつとめた対局で千日手になったが、千日手局の棋譜は不要と判断し、書いた棋譜を捨ててしまった。
- 対局で長考していたところ、記録係に秒読みをしてもらうのを忘れ「時間切れです」と言われたことがある。
- 対局者との合意の上、その時点から1分将棋ということで事なきを得た。
- なお、NHK杯では本当に時間切れで負けたことがある。
- 師匠の板谷進と順位戦A級昇級を争い、師匠を頭ハネしたことがある。
- 板谷進の死後、当時奨励会員だった弟弟子の杉本昌隆を預かり弟子としていた。
- そのため、藤井聡太の大師匠としてTVに出演することも多い。
- 特技は美川憲一のモノマネ。
- オーケストラをバックに披露したこともある。
- 若手棋士の選抜戦だった若獅子戦の決勝に進んだ際、白スーツで対局に臨み勝利した。
- 王位戦の挑戦者決定戦に進出した際、前日に師匠の板谷進から「負けたら記録係になってもらう」と告げられる。
- そして挑戦者決定戦で米長邦雄に負け、予告どおり第1局の記録係をつとめることになった。
- 後に弟子の池永天志が同じく王位戦の挑戦者決定戦で豊島将之に負け…
- 小林「(自分の時みたいに)記録係やるか?」
- 池永「やってもいいです」
- 小林「冗談だからいいよ(汗)」
- 池永「やってもいいです」
- その話を聞いた豊島いわく「こっちが緊張して困ります」
- 小林「(自分の時みたいに)記録係やるか?」
- 通算700勝まであと1勝に迫っていたが及ばなかった。
- 「○○以外にも存在したモノ/人物」にも書いたが、同姓同名の囲碁棋士がいる。
将棋 |
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ファン | 棋戦|もしこんな展開があったら 棋士個別(現役:あ~こ/さ~そ/た~の/は~ほ/ま~わ・退役(あ・か)・女流) |