鎌倉時代
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鎌倉時代の噂[編集 | ソースを編集]
- ハムができる。
- ツレヅレグサが刊行。
- ブログ書籍化ブームの始まり。
- 「ヘーケ物語〜諸行無常の響き〜」で琵琶法師が大ブレイクし、全国弾き語りツアー開催。
- あまりの人気っぷりにストリートでコピーをするものが続出。
- ジンギスカンの孫のフビライハンが日本に攻撃をしかける。
- 朝鮮も調子に乗ってモンゴルの尻馬に乗る。(マジモノ)
- つーか、朝鮮海軍が属国としてモンゴル力士を運んだけど揚陸艇がないのでDデイ敢行できずにカミカゼアタックにやられたんじゃなかったっけ。(うるうる覚え)
- ジンギスカンはヨシツネらしい。
- トンデモ学説。ジンギスカン(仁義好かん)の生没年も系図もハッキリしているし、第一、義経とジンギスカン(仁義好かん)では騎馬戦術に決定的な差異がある。マーだかモーだかいう雑誌しか唱えない珍説。
- 種本は末松謙澄(スエマツケンチョウ・後の逓信大臣、内務大臣)が1879年に英国人を装いつつ匿名で書いた論文。それを1885年に内田弥八が「義経再興記」と題し訳述・出版。さらに後の1924年、小谷部全一郎が「成吉思汗ハ源義経也」という題で発表し、大ベストセラーとなる。
- メーじゃなかったっけ?
- 「ワー」だよ
- いや「クー」だよ。
- 「メーワク」な話だ(苦笑)
- とりあえずジンギスカンは料理の名前だって言っておくよ。(本当はチンギス・ハーン)
- 歌手グループのジンギスカンもいた。
- そのグループの歌「ジンギスカン」も有名。
- モンゴルの皇帝ことハーンは現代での呼び方で、当時はカンだったらしい。
- 歌手グループのジンギスカンもいた。
- トンデモ学説。ジンギスカン(仁義好かん)の生没年も系図もハッキリしているし、第一、義経とジンギスカン(仁義好かん)では騎馬戦術に決定的な差異がある。マーだかモーだかいう雑誌しか唱えない珍説。
- フビライハンの好物エビフライ。
- 日本攻撃の結果、征服はできなかったものの鎌倉幕府を弱体化させ、日本を混乱に陥れることに成功。
- 全てはヨシツネの怨念が鎌倉への恨みを果たすべくモンゴル人を操った為らしい・・・
- 朝鮮も調子に乗ってモンゴルの尻馬に乗る。(マジモノ)
- ヨシツネが大陸に渡りヤブサメを伝える。
- ヨシツネは平安時代やぞ。
- 鎌倉時代の始まりは1185年という説もあります。もしくは1183年という説もあります。ヨシツネの没年は1189年なので、その説に従えばぎりぎり鎌倉時代に間に合います。まあ、もっとも活躍した時期の大半は平安末期でしたけど、ここはあまり固く考えずに。
- ヨシツネは平安時代やぞ。
- 「鎌」と「倉」が大流行する。
- 「いざ鎌倉」が当時の流行語大賞に。武士の間で一大ムーブメントを巻き起こした。
- 終わりごろは「いざなまくら」。
- 更に末期には「いざキャバクラ」。
- 北海道、大阪と高知だけじゃね?
- 更に末期には「いざキャバクラ」。
- 終わりごろは「いざなまくら」。
- 頼家の実子を名乗る謎の人物公暁が現れる。将軍職就任を狙っているという噂が流れる。
- 北条泰時、反対派に説得され式目原案の条文から執権公選制を削除。
- 功績のあった歌人100名に送られる小倉賞が実施された。審査員代表は冷泉流家元・藤原定家氏。作品集はベストセラーとなるも、定家氏独自の世界観による授賞に一部の読者からは「どこがいいのか分からない」との声も。
- ひょっとして、JR小倉駅の周りを100人で1周した話のことかな?
- それは「おぐら」ではなく「こくら」。
- 京都の「JR小倉」駅の事では。
- それは「おぐら」ではなく「こくら」。
- ひょっとして、JR小倉駅の周りを100人で1周した話のことかな?
- 百人もいるのに首が一つしかない物の怪(もののけ)が、マッドサイエンティストのテイカ・フジワラによって作られる。フランケンシュタインの元祖?
- ゴダイゴがデビュー。正中の変・元弘の乱・メンバーの大麻使用などにより島流しにされる。その後、正成、尊氏、義貞らとともに活動再開。代表作「モンキー・マジック」「ポートピア」「ガンダーラ」
- メンバーには狐っぽい宣教師もいたから、キリスト教がすでに伝来していたものと思われる。
- 盆栽を燃やすパフォーマンスが注目を集める。
- なお創始者の佐野源左衛門はその斬新さを称えられ領地を得る。
- 西岸良平「鎌倉ものがたり」連載開始。
- 仏教系の新興宗教多数勃興。
- 「ナムアミダブツ」「ナムミョーホーレンゲキョー」など。特に後者の総帥「ニチレン」はよく幕府に逮捕された。
- 「イッペン」率いるストリートダンサー集団「ジシュー」が注目をあびた。爺(じじい)衆ではない。爺臭でもない。自習?
- 「リンザイ」「ソートー」という座禅集団も。
- 鎌倉の大仏完成。
- ついでに奈良の大仏も再建された。
- 政治は雪の中に掘った穴の中で行われた。また、大仏には雪で作った大仏殿があったが、氷河期が終わった現代では仏像のみが現存している。
- いつの間にか出来てた謎の大仏。
- ヨシツネのいとこのナベツネが壇ノ浦の戦いから命からがら逃げてきて武蔵の国で言売売新聞のオーナーになる。
- 地球は温暖化していなかったので人々は雪で作った家で暮らしていた。
- お釈迦様(釈尊)が法華経などで予言されたとおりに、久遠元初の御本仏・日蓮大聖人様が御出現あそばされた。
- 平安時代から鎌倉時代にかけてが、末法時代の始まりの時期である。
- 北条氏が鎌倉幕府を買収。
- 壇ノ浦を追われた平家の一族は黄泉(きいずみと読む)の国に移住。これがいわゆる民族大移動である。
- その数があまりにも多かったので黄泉の国が混乱し、黄泉の領主閻魔犬王が部下の兵隊を引き連れて鎌倉に侵攻。でもそのときに手違いがおきて大変なことになる。
- 8代執権北条時宗は空中元彌チョップを駆使して元寇を撃退した。
- エネルギーは「源氏力発電」…(デーブ・スペクターさんの説)
- 鎌クーラー時代。
- 鳩サブレーが作られる。
- 日蓮が大予言をする。
- 皇紀2660年、天カラ恐怖ノ大魔王ガ降ッテ來ルデアロウ。
- 「約800年後、末法の世においておかしな宗教が日本を牛耳るようになる」という予言も。そして800年後、その予言が実現できなければ日蓮上人の権威が揺らぐと考えた頭がパーンな過激派信者たちが、その予言を実現すべく徒党を組んで国会占拠。
- これを天界から見た日蓮上人「そうかそうか」
- 神奈川にキャバクラ「幕府」という伝説のキャバクラがあった時代。そこの広告文句はどっちなのかで、後世の学者が揉める。
- 「いいク×ニならキャバクラ幕府」という広告を打っていたと言われていたが、本当は「イイねパコろうキャバクラ幕府」というものだったんじゃないかという説があり、学会が揉める。
- 地頭と呼ばれる地主が後家人と呼ばれた人妻たちと……
鎌倉幕府の将軍[編集 | ソースを編集]
源頼朝[編集 | ソースを編集]
- 弟二人、従弟とその息子など、身内を沢山殺して天下をとった人。
- ちょっとでも油断をすると、他の者を担がれて追い落とされてしまいかねないという状況だったので、やむを得ざるところもある。
- そうは言っても、義経はともかく範頼まで殺したのはなあ……
- 義経に比べれば小粒とはいえ、平家討伐の勲功2番手の功労者で、十分頼朝に取って代わるだけのポテンシャルを持っていたからしょうがない。
- 義経が官位をもらっている時に範頼は頼朝の真意を理解して断っているから、ある意味義経以上に危険な存在と思っていたのかも。
- 範頼の子供たちは助命されてるのが、せめてもの救い。
- それ、官位もらってももらわなくても警戒されるってことじゃねぇか…
- 義経が官位をもらっている時に範頼は頼朝の真意を理解して断っているから、ある意味義経以上に危険な存在と思っていたのかも。
- 義経に比べれば小粒とはいえ、平家討伐の勲功2番手の功労者で、十分頼朝に取って代わるだけのポテンシャルを持っていたからしょうがない。
- 源氏は内ゲバが常態だからしょうがない。まともに枕の上で死ねた人は殆どいないし。
- 武士としては正しい姿と言える。
- 内ゲバの戦死とか、暗殺じゃあなぁ・・・。
- 武士としては正しい姿と言える。
- 結局、人に蹴落とされることはなかったが、馬に落とされた…
- 娘の婚約者の扱いでやらかして、首を取った当事者に責任押し付けた件だけは擁護不能。この時の頼朝は家族思いの父親でもなければ冷徹な政治家でもない。ただの情けないおっさんである。
- 関東育ちの奥さんは一夫一婦制を主張。多妻多夫が常識の京都で育った頼朝はその概念も理解できず、夫婦の価値観の相違が深刻なものに。
- 死亡前後の記事が、どういうわけか公式記録「東鑑」からすっぽり抜け落ちている。大騒ぎで誰も記録をつけていなかったのか、何か外聞をはばかるヤバいことがあって抹消されたのか……
- 不名誉な死に方だったんで名将の恥を残してはいかんと家康が削除したとも。
- 馬で川を渡ってたら、落馬して死んだとか(その時のケガが元になって帰路で没とも)。まあ公式記録が無いので、あくまで一説ではあるが。
- 相模川の下流が馬入川と呼ばれるのは、この話を元にしてるとか。
- 晩年の頼朝は朝廷に接近しようとしたので暗殺された、とも。後に武士の要望を代表する北条家が政権を握る。
- 相模川の下流が馬入川と呼ばれるのは、この話を元にしてるとか。
- 死因で一番メジャーな説は壇ノ浦の戦いで戦死した後、「ぷれいや」なる異次元の者からの布施により復活した平家の亡霊、平景清(悪七兵衛景清)により草薙の剣で切り殺されたというものである。
- わらってよりとも。
- 後年、天下人になったHIDEYOSHIが頼朝の墓を訪れ、その際親近感を持つ旨の発言をしている(頼朝は捕囚から、秀吉は足軽からテンパ人になったから)。
- 武家の棟梁でありながら、戦はド下手。なんと言う矛盾…。
- 別に珍しいことじゃない。ライバル勢力の平宗盛もそんな感じだし。
- トップとしては戦より政治がうまい方が大事、って義経を見てると思う。
- 弟がやたら美化されているせいで創作では悪役にされがちのかわいそうな人。
- 後年は義父の時政までがビビるほどの厳しさだったらしい。
源頼家[編集 | ソースを編集]
- 妻の実家である比企氏を引き立て、北條氏を排除しようとしたため、修禅寺に押し込められて殺された。
- ……と言われているが、実際は逆。頼家の傅人(めのと)であった比企氏が、北條氏に取って代わろうとして頼家を担いだが、北條氏に逆襲されて亡ぼされた。頼家は比企氏の象徴として消されたのでした。
- 嫁姑の争いを仲裁できず、姑の一族に嫁と嫁との間の子供を殺され、最終的には自分も消された。
- 独裁的だったとも言われるけど、17歳で家督を継いで、22歳で死んでるわけですからねえ……どの程度の独裁ができたことやら。
- とある二つの寺が領地争いをしその裁定を頼家に求めたところ、「そんなの知るか」と言って、両寺の中間に線を引いて「これで満足しろ」といって追い払ったとかw
- 頼家がどうのこうのというより、将軍がトップで仕切るという体制自体に不満があって、創業者がいなくなったんだから取締役会に権限移譲しろ!という辺りが真相だろう。
- ……と言われているが、実際は逆。頼家の傅人(めのと)であった比企氏が、北條氏に取って代わろうとして頼家を担いだが、北條氏に逆襲されて亡ぼされた。頼家は比企氏の象徴として消されたのでした。
源実朝[編集 | ソースを編集]
- 頼家の弟。
- 実朝の傅人は北條氏だったので、比企氏との権勢争いに勝った北條氏により将軍位につけられたわけ。
- 同族争いがいやになって外国へ逃げ出そうと大船を造るが、失敗。
- 原因は大きすぎて進水できなかったから。
- やっぱり同族に殺された。
- 下手人は頼家の息子の公暁。親父を殺させたのは実朝だと誰かに吹き込まれたらしい。
- その「誰か」は北條義時だろうと思われていたが、最近では三浦義村説が有力。公暁の傅人は三浦氏だったので、公暁を担いで北條氏を追い落とそうとしたと思われる。
- しかし公暁が北條義時を殺りそこねたので、三浦義村は口封じに公暁を殺害。かくて源氏嫡流の血は絶えた。
- 本人は半ばそうなることを予想していた。
- 詩人としてはかなりのものだった。
- 百人一首にも採用されている。
- 甲斐善光寺にある、かなり写実的な実朝の木像を見ると、如何にもクラスに一人はいそうな、地味でややオタク臭い少年ぽい顔をしている。
- 自選の和歌集がある。
- 金槐和歌集。私撰集を編纂するあたり、かなりの貴族趣味だったと思われる。
- 政治家としても実は有能。
- 頼家の御家人の合議制だったが、彼は死ぬまで政務を執っている。朝廷よりの政治をしたと言われるが幕府自体が危うくなるような要求は、拒否している。ただ、彼の朝廷と幕府の平和共存の道を探るという政治理念は、次第に自らの力を自覚し更に勢力を伸ばそうとする鎌倉武士団とぶつかることになってしまった。
- 鎌倉右大臣として官位を受けたのも、共存策の一環。実際、実朝の死後対立は決定的となり、鎌倉幕府は承久の乱に勝利し覇権を確固たるものにしていく。
- 頼家の御家人の合議制だったが、彼は死ぬまで政務を執っている。朝廷よりの政治をしたと言われるが幕府自体が危うくなるような要求は、拒否している。ただ、彼の朝廷と幕府の平和共存の道を探るという政治理念は、次第に自らの力を自覚し更に勢力を伸ばそうとする鎌倉武士団とぶつかることになってしまった。
藤原頼経[編集 | ソースを編集]
- 頼朝の妹のひまご。
- 最初のうち北條氏の傀儡だったが、反対勢力に担がれそうになったので京都に追い返される。
- この人以降の将軍は影が薄い気がする。執権の方が重要な存在になるし。
- 征夷大将軍は源氏しかなれない、と言っている人たちはこの人から守邦親王までの摂関将軍、皇族将軍を失念している可能性が高い。
- まあ、一応この人にも源氏の血は流れてますけどね。
- 貴族から将軍に「下る」のは良いけど、武家から将軍に「上る」には源氏じゃないとダメってことだろう。まあ実際は関係ないんだろうけど。平氏系の信長とかいるし。
- 幼名は三寅。
藤原頼嗣[編集 | ソースを編集]
- 頼経の息子。
- 8歳で将軍位に就くが、17歳の時に謀反に連坐したとして京都に追い返される。
宗尊親王[編集 | ソースを編集]
- 後嵯峨天皇の皇子。母親の身分が低く、あまり出世しそうになかったので、鎌倉将軍にという話が来た時ホイホイと引き受けた。
- 将軍になってもすることがないので、歌会ばかり開いていた。
- しかしだんだん、不満分子の集まる会になってしまった。
- 危機感を持った北條氏により、京都に追い返される……ってまたかよ!
源惟康[編集 | ソースを編集]
- 宗尊親王の息子。3歳で将軍位に就く。
- 将軍位に就くと共に臣籍降下し、「源」姓を受ける。
- 別に謀反にも関わらず、不満分子を集めたりもしなかったが、京都に追い返される。もう何がなんだか。
- 追い返されてから親王宣下を受け、「惟康親王」となる。
久明親王[編集 | ソースを編集]
- 後深草天皇の皇子。何もエピソードを残さず、京都に追い返される。
- 調べても本当に何もない。冗談抜きで何もない。キング・オブ・何もない
- 持明院統から将軍が選ばれた事で持明院統=武家寄り⇒北朝という布石になったはずだし、もし将軍が大覚寺統やそれ以外から選ばれていたらということを考えると、歴史的に影響のある将軍就任(もちろん本人は何もしていないが)と思われるが。
守邦親王[編集 | ソースを編集]
- 久明親王の息子。8歳で将軍位に就く。
- もちろん何も実権は無かったが、鎌倉が新田義貞の攻撃で陥落すると律儀に出家し、間もなく死去。一応幕府のトップとしてのけじめをつけた形。
鎌倉幕府の執権[編集 | ソースを編集]
- 教科書からもわかるとおり、全体的に優秀な人が多かった。
- ただし代が変わる毎に小粒になっていく感が否めない。
- 30代で亡くなった人が多い。自刃した高時、戦死した守時を含めると半分は40以下で亡くなっている。
北條時政[編集 | ソースを編集]
- 娘が流人と駆け落ちしたばかりに天下の執権に成り上がった幸運な人。
- 学者の間でも優秀だったとする人と、実はあまり大した事してないと突っ込む人がいたりと差が激しい。
- 策士なのは間違いないだろうが、最期は策士策に溺れすぎな感じがする。
- 年取ってからめとった若い後妻との間に生まれた娘の婿を将軍にしようとして、息子(義時)や娘(政子)からひんしゅくを買い、無理矢理隠居させられた。
北條義時[編集 | ソースを編集]
- 北條家の支配を確立した人。父・時政生前も、実際に動いたのは義時だったようだ。
- そのせいで腹黒な陰謀家なイメージが付きまとう。
- 『吾妻鏡』には案外名前が出てこない。たまに一覧で名前が出てても後世の挿入の疑いが強く、実際には何をやってたかよくわからない。
- 義時自身も陰謀を練る事あっただろうが、アクの強い父と姉に挟まれて、彼らに振り回されているうちに、いつの間にか幕府のトップに踊りでてしまっただけのような気もする。
- 実朝が暗殺された時、同行することになっていたが、気分が悪いと言って人に代わって貰い、危ういところで一緒に殺されるのを免れた。
- 本当に気分が悪かったのか、何か察していたのかは微妙なところ。
- 得宗と号した。この後、北條氏の中でも義時の家系を「得宗家」と呼んだ。
- 姫の前という美貌の女房に恋をして悶々としたことがある。お前は男子中学生か!
- この時義時29歳、息子の泰時は9歳。いい年して何やってるんだか・・・。
- 姫の前は気位が高い女性で、義時は全く相手にされなかったらしい。
- 頼朝の命令でなんとか結婚。良かったね、と言いたいところだが、権力を使って恋を成就してもらうのはどうなんだろう、男として。
- 残念ながら、その後の比企能員の変の関係(姫の前の実家が比企)で別れざるを得なかったらしい。
- モーツァルトも似たようなことやってる。
- この時義時29歳、息子の泰時は9歳。いい年して何やってるんだか・・・。
- 承久の乱がらみとはいえ、皇族や公家でもないのに圧力をかけて当時の天皇を皇位から引きずり下ろした上に元天皇を厳罰に処し、承久の乱で京方へ与した公家を処刑した確かな記録のある唯一の一般人。
- 義兄の頼朝には頼りにされていた。
北條泰時[編集 | ソースを編集]
- 御成敗式目を発布。
- 書いてあることはわりと普通。その当時の常識を成文化しただけだったようだが、大事なことかもしれない。日本国憲法もかくありたい。
- 都の貴族と違って東国武士は教養がないので、そういう連中に分かるような法律を作った。
- 本人は、ただ道理と先例に基づいて決めた、と言っている。そのシンプルさと妥当さがこの法令の価値を高めたと言える。
- ただし近年の研究では、「幕府の都合に合わせた」道理や先例を選んで成文化したとする説が有力。
- 書いてあることはわりと普通。その当時の常識を成文化しただけだったようだが、大事なことかもしれない。日本国憲法もかくありたい。
- 承久の乱では総大将として出陣、見事勝利を収める。
- その後、父・義時、伯母・政子、有力な補佐役・大江広元など、助言してくれそうな人々が相次いで死んでしまい、けっこうびびったと思われる。
- 義時の弟・義房を補佐役に任命し、なんとか事無きを得る。
- 義房じゃなくて時房だね。そしてこの時房から連署の役職がスタート。
- 義時の弟・義房を補佐役に任命し、なんとか事無きを得る。
- 後世の評判がとても良い。承久の乱で天皇と戦ったのに天皇よりの人達からも評価される。
- 敵方についた上皇達をほぼ全員流罪にした結果。
- それと後鳥羽院が反面教師扱いなので。北畠親房ですら「徳がないとこうなるぞ」という見本で挙げているぐらい。
- 幕府の場所を2回も引っ越した。
- 頼朝が開いたのは大蔵幕府(現在の雪ノ下3丁目、清泉小学校付近)
- 1回目の引越先は宇津宮辻子幕府(現在の宇都宮稲荷神社の北、妙隆寺付近)
- 2回目の引越先(増改築という説もあり)は若宮大路幕府(宇津宮辻子幕府の北から鶴岡八幡宮の南まで)
北條経時[編集 | ソースを編集]
- 泰時の孫。
- 18歳の若さで執権になったので、北條一族の内部でもゴタゴタし、外部はそれに輪を掛けて動揺し、心労のあまり4年で死亡。
- どんな事をやったのか、パッと思いつかない。
北條時頼[編集 | ソースを編集]
- 経時の弟。
- 執権引退後に、諸国漫遊したという噂が流れる。水戸黄門の大先輩。
- その途上、「鉢の木」の話が登場。
- 熱心な禅宗信者で鎌倉に道元を呼ぶ一方で、法華経を強く唱えていた日蓮を猛烈批判したらしい。
北條(極楽寺)長時[編集 | ソースを編集]
- 経時・時頼兄弟の父の従弟。
- 時頼が息子の時宗に執権職を譲るまでの中継ぎとして指名される。
- 実権は時頼が握っていた。この頃から「得宗家」の専制が始まる。
北條政村[編集 | ソースを編集]
- 長時の伯父、経時・時頼兄弟の大叔父。
- 執権に就任した時にはすでに時頼が死んだ後だったので、自分の時代が来たと思って舞い上がっていたが、おりしも蒙古からの国書が届き、高齢だけにどうしてよいかわからず、執権職を投げ出してしまった。
- でも執権就任前に就いていたナンバー2である連署にちゃっかり返り咲いている
北條時宗[編集 | ソースを編集]
- 元寇を迎えて真っ向勝負。
- その為後世の人気も高いが、最近は偉かったのは側近の安達泰盛らで、時宗はそんなに重要な役割をしてないとする説もある。
- 逆に、元寇を口実に独裁権を確立、得宗専制を実現したという見方もある。
- ほとんど元寇対策だけに追われ、弘安の役の3年後に34歳の若さで病没。
- それが寿命を縮めたんだとおもう。
- 異母兄の時輔を内紛で攻め殺している。もっとも生きて逃げ延びたという説もある。
- でも時輔が大陸に渡ってクビライ・ハーンに仕えた後、赤マフラーを巻いて帰国したという話はあくまで大河ドラマだけの話ですからね。真に受けないように。
- 最初の元寇を撃退した後、元寇の拠点である高麗を逆に攻める計画を立てていた。
- 結局、半島に関わることを断念したのは好判断だったような……
- のちに元が衰退してきた時期ではあるが、高麗は自力で元を追い払っているので、結果的には良かった。
- 結局、半島に関わることを断念したのは好判断だったような……
- 父は北条時頼。
北條貞時[編集 | ソースを編集]
- 父・時宗の死により12歳で執権となる。
- しばらくは、側近・平頼綱の言いなり。10年近く経ってようやく頼綱を誅殺して実権を取り戻した。
- 29歳で従弟の師時に執権職を譲るが、その後も実権を握り続けた。
北條師時[編集 | ソースを編集]
- 貞時に執権職を譲られたが、ずっと貞時に実権を握られ、奪回する前に死んでしまった影の薄い人。
北條(大仏)宗宣[編集 | ソースを編集]
- 義時の弟のひまご。
- 執権のそのまた執事とも言うべき「内管領」長崎高綱に実権を握られ、自分ではなんにもできないのに失望して、執権職を放り出して出家。間もなく死亡。
北條煕時[編集 | ソースを編集]
- 政村のひまご。
- やっぱり長崎高綱のせいでなんにもできなかった。
- 執権になる前は、嘉元の乱で叛乱を起こした北條宗方らを亡ぼすなど、なかなか活躍していたのだが……
北條(極楽寺)基時[編集 | ソースを編集]
- 長崎高綱とその子・高資が勝手し放題。
- いやけがさしたらしく、1年ほどで辞任、出家。
- それでも鎌倉陥落時には高時と一緒に自害してけじめをつけた。
北條高時[編集 | ソースを編集]
- 「最後の執権」と勘違いする人が多いが誤り。「最後の得宗家当主」である。
- 田楽好きで、天狗にたぶらかされる。
- 暗愚な執権という評価が大体固まっているが、本当はどうだったのかよくわからない。
- 長崎父子に好き勝手やらせていたという点だけでも、名君とは言えまい。ただし、人としてバカだったかどうかは不明。
- ただし、長崎高資は当時調整型の政治家が多い幕閣の中で、積極的に政策を展開しようとした点を評価しようとする動きもある。
- ともあれ、鎌倉陥落後の自害の作法は見事なものだったらしい。
- 馬鹿ではないが、病弱で無気力な厭世家、というのが一番合ってる気がする。
- 二条河原の落書に「犬田楽は関東の滅ぶところ」と書かれたぐらいだから、当時すでにダメな行状として知れ渡っていたのは間違いない。病弱かつ長崎に実権取られてそれぐらいしかやることがなかったとしても。
- 長崎父子に好き勝手やらせていたという点だけでも、名君とは言えまい。ただし、人としてバカだったかどうかは不明。
- 歴史オタ、大河ドラマオタは、北條高時というと反射的に片岡鶴太郎の顔を思い浮かべる。
- 闘犬が趣味。
北條(金沢)貞顕[編集 | ソースを編集]
- 高時が出家してしまったあと、侃々諤々の末、とりあえずの中継ぎとして執権に就任。
- しかし反対派も多く、暗殺計画も耳に入ったりして針のムシロのようだったので、早々に引退、出家。
- 在任期間十日という、日本史上でもまれに見るレベルのお飾り内閣。それで事が済んでしまう辺り、この頃の執権職って・・・と思ってしまう。
北條(赤橋)守時[編集 | ソースを編集]
- 最後の執権。足利尊氏の義兄でもある。
- そのため、尊氏が後醍醐天皇側に寝返って六波羅探題を亡ぼすと立場が悪くなり、謹慎させられる。
- 汚名返上のため、鎌倉に襲来した新田義貞軍と力戦し、戦死。
- 日テレでやってた「まんが日本史」では存在がスルーされてる。
- 甥の足利義詮が鎌倉を脱出できたのは守時の手引という見方もあり、愚直な武将のイメージが強い。
関連項目[編集 | ソースを編集]
日本史 |
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