FIFAワールドカップ
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サッカーの大会 > FIFAワールドカップ
ワールドカップの噂[編集 | ソースを編集]
- ワールドカップと言えば、この大会をさすようになった。
- 昔はバレーボールワールドカップ(兼・ジャニーズお披露目会)だった。
- オリンピックとならぶ国際スポーツ大会。
- それだけに、あれやこれやの利権が絡(から)む。
- 故に、汚職も当たり前に存在していた。
- 参加国から賄賂を要求するのは当たり前。
- 故に、汚職も当たり前に存在していた。
- 1968年にオリンピックを開催したメキシコは、「1970年サッカーワールドカップの予行演習が無事にできた」と正直にしゃべってしまい、IOCのお偉方を怒らせてしまったらしい。
- それだけに、あれやこれやの利権が絡(から)む。
- 特に若手選手の品評会でもある。ここでの活躍がスカウトやらの目に留まって海外移籍なんて事も多い。
- 選手もアピールの為なのか、大会の前後だけ突飛な髪型にしたり、派手な色に染めたりする人がいる。
- 中継カメラは試合よりも美女を追う。
- 日本製のホイッスルは常連と言ってもよい。
- 最近はボールも実質日本メーカー製になっている。
- 公式球は導入以来ずっとアディダスだが、最近のものはモルテンが技術を提供しモルテンの工場で生産されているらしい。
- 最近はボールも実質日本メーカー製になっている。
- 最も対戦回数の多いカードはブラジル対スウェーデン、ドイツ対セルビア(ユーゴスラビア含む)の計7回。
- 優勝国同士で最も対戦回数が多いカードはドイツ対アルゼンチンの計6回。
- 1982年のスペイン大会(1978年大会という説も)からは大会MVPが制定されているが、決勝戦の前に選ばれるため必ずしも優勝チームから受賞者が出るとは限らない。
- 1998年のフランス大会以降は全て準優勝チームから選出されている。
- 2022年はメッシが史上初めて2度目の選出で優勝チームからは7大会ぶり。
- 1998年のフランス大会以降は全て準優勝チームから選出されている。
大会別の噂[編集 | ソースを編集]
ウルグアイ(1930年)[編集 | ソースを編集]
- 実は日本にも招待状が来ていたが、遠すぎるので辞退した。
- 船での長旅だったため、有力な欧州各国が多数辞退した。
- 3位決定戦が行われなかった。
- FIFAはグループリーグや準決勝の成績を総合的に判断し、アメリカを3位・ユーゴスラビアを4位に認定している。
- 因みにアメリカの3位は欧州・南米以外では2例しかないベスト4のうちの一つ。
- FIFAはグループリーグや準決勝の成績を総合的に判断し、アメリカを3位・ユーゴスラビアを4位に認定している。
- 全18試合で引き分けが1試合も無かった。
- 得点王はアルゼンチンのスタービレ(8得点)。
イタリア(1934年)[編集 | ソースを編集]
- ムッソリーニによる圧力に多くのチームが屈することに。
- この大会より予選が導入。
- この大会と次の大会はトーナメントのみ。
- 得点王はチェコスロバキアのネイエドリー(5得点)。
フランス(1938年)[編集 | ソースを編集]
- 開催国の予選免除はこの回から導入。
- 2002年大会まで続いた、前回優勝国枠もこの回からの導入。
- 2大会続けてヨーロッパでの開催となったことにウルグアイとアルゼンチンが激怒し、出場を辞退。
- 初めてのアジア代表としてオランダ領東インドが参戦。
- 得点王はブラジルのレオニダス(7得点)。
ブラジル(1950年)[編集 | ソースを編集]
- ブラジルが地元で初優勝目前、引き分けでもおkの最終戦でウルグアイにまさかの逆転負け。リオのマラカナン・スタジアムは悲劇の舞台に。
- ブラジルがワールドカップで負けると死人が出る、という伝説はここから始まったらしい。
- 「カナリア軍団」誕生のきっかけになった試合でもある。
- 総当たり戦で優勝が決まったW杯は後にも先にもこの時だけ。
- 3か国の辞退が出て、グループリーグ突破を2チームだけで争ったグループもあった。
- サッカー発祥国・イングランドの初出場は実はこの大会。
- この大会から優勝杯が「ジュール・リメ杯」と呼ばれるようになった。
- 得点王はブラジルのアデミール(8得点)。
スイス(1954年)[編集 | ソースを編集]
- 日本代表が初めて予選参加。
- ホームでの2試合など、有利なレギュレーションだったが…。
- ニュース映像などでは「サッカー世界選手権」などと表現されていた。
- この大会で韓国代表が初出場したが、ハンガリーとトルコにボコボコにされてしまった。
- ちなみにこの時のハンガリーは、「マジック・マジャール」と呼ばれていた黄金時代。
- ハンガリーはその後決勝まで進んだが、西ドイツに2-3で敗れ惜しくも準優勝となった。
- ちなみにこの時のハンガリーは、「マジック・マジャール」と呼ばれていた黄金時代。
- 得点王はハンガリーのコチシュ(11得点)。
スウェーデン(1958年)[編集 | ソースを編集]
- 予選でイスラエルが対戦拒否をされ続け、一度は代表となるも、FIFAから問題視されてプレーオフを戦う羽目に。
- そのプレーオフでは、ウェールズに2試合合計で0-4と惨敗…
- イギリス4連盟が勢ぞろいした唯一の大会。
- 上記のウェールズはその後2022年まで出場できなかった。
- ブラジルが初優勝。当時17歳のペレは2ゴールを挙げ優勝に貢献。
- この優勝は欧州で開催されたワールドカップで、南米勢が優勝した唯一の例となっている。
- 得点王はフランスのフォンテーヌ(13得点)。
チリ(1962年)[編集 | ソースを編集]
- グループリーグで勝ち点が並んだ場合、それまでのプレーオフから得失点差比較へ移行した。
- イングランドとアルゼンチンが勝ち点3で並んだグループ4で初適用され、イングランドが決勝トーナメント進出。
- 優勝はブラジル。前回大会で大活躍したペレはグループリーグ第2戦を最後に欠場していたが、ガリンシャを含む他の選手がペレの穴を埋め切り連覇を達成。
- コロンビアとブルガリアが初出場。
- 得点王はガリンシャ、ババ、フローリアーン、イェルコヴィッチ、イワノフ、サンチェスの6選手(4得点)。
イングランド(1966年)[編集 | ソースを編集]
- 北朝鮮がベスト8というまさかのサプライズ。
- そのせいで、イタリアは帰国時に腐ったトマト攻撃を受けた。
- 当時はAFC/OFC/CAF合計で1つしか出場枠が無かったため、辞退国が多数出て北朝鮮は儲けもの同然だった(最終的に行われたのは北朝鮮VSオーストラリアのみ)
- なお日本は参加すると選手が2年後のメキシコ五輪に参加できなくなると言う理由でもともと不参加。当時のワールドカップの日本での地位が低かった故の出来事。
- 結果銅メダルなので温存する効果はあったらしい。
- 元々北朝鮮は1964年の東京五輪に向けて強化していた。なんやかんやで不参加になってしまったが。
- 開催国のイングランドが初優勝。
- 但し決勝戦のジェフ・ハーストが決めた3点目はノーゴールでは?という疑惑がある。
- イングランドのワールドカップ優勝がこの1回のみというのも不思議。
- 初出場のポルトガルが3位。9得点を記録したエウゼビオは得点王を獲得した。
- 準々決勝の北朝鮮戦では3点ビハインドからエウゼビオ1人で4得点を挙げ、5-3の大逆転勝利に貢献。
- ブラジルが史上唯一のグループリーグ敗退。
メキシコ(1970年)[編集 | ソースを編集]
- この大会の予選がきっかけで、戦争が勃発してしまった。
- ブラジルが3度目の優勝を果たしジュール・リメ杯の永久取得権を獲得したが、後に盗難事件に遭い行方不明に…。
- この大会からプレー中断時の水分補給・選手交代(2名まで)・レッドカードとイエローカードなどが導入された。
- 得点王は西ドイツのミュラー(10得点)。
西ドイツ(1974年)[編集 | ソースを編集]
- ワールドカップのみならず、国際Aマッチ史上唯一の東西ドイツ対決が行われた。
- ヨハン・クライフが一人だけ三本線ではなく二本線のユニフォームを着ていた。
- 個人でプーマと契約していたため、両社のメンツを潰さないためにとった苦肉の策だったらしい。
- 決勝はそのクライフを中心とした「トータルフットボール」を展開したオランダと開催国である西ドイツの対決となり、1-2で西ドイツが2回目の優勝を果たした。
- この大会から開幕戦には開催国ではなく、前回大会の優勝国が出場することになった(2002年まで)。
- また、1次リーグのあと2次リーグが開催された(1982年まで)。
- 東ドイツ・ハイチ・ザイール・オーストラリアが初出場。
- 得点王はポーランドのラトー(7得点)。
アルゼンチン(1978年)[編集 | ソースを編集]
- アルゼンチンがペルーに大勝したのは、軍事政権がペルーを買収したからという疑惑がある。
- そのため、南米では「ワールドカップ史上最も汚い大会」と非難されている。
- クライフは軍事政権の弾圧政策に反対する立場だったこともあり出場せず。
- しかし後にクライフ本人が「子供が誘拐未遂事件に遭っていた」と明らかにした。
- ジーコ(ブラジル)・ルンメニゲ(西ドイツ)・ロッシ(イタリア)・プラティニ(フランス)が期待の若手として本大会デビューを果たした。
- チュニジアとイランが初出場。
- 得点王はアルゼンチンのケンペス(6得点)。大会MVPとのダブル受賞だった。
スペイン(1982年)[編集 | ソースを編集]
- 誰も予想していなかったイタリアが、まさかの優勝。
- ダントツの優勝候補だったブラジルは、イタリアにカウンターから3失点をくらって敗退。
- 2次リーグが3チームによる総当たりだったことで、奇数チームによる総当たりは不公平だという意見が出て、2次リーグはこの年限りで中止された。
- 西ドイツとオーストリアの談合試合は有名。
- 開催地の地名から「ヒホンの恥」と呼ばれた。
- ここから出場国が24か国になる。
- 初出場もホンジュラス・カメルーン・アルジェリア・クウェート・ニュージーランドと多い。
- 開催国のスペインはチーム状態が悪く、1次リーグこそ地元贔屓のジャッジに助けられなんとか突破したが2次リーグで敗退。
- 1次リーグのフランスvsクウェート戦で「主審が認定した得点が取り消される」という事態が発生した。
- これは試合結果やグループの順位に直接の影響こそ与えなかったが、2000年代以降に問題となった「中東の笛」問題のきっかけとも言われている。
- 得点王はイタリアのロッシ(6得点)。
メキシコ(1986年)[編集 | ソースを編集]
- 『マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ!』
- ネタ的には「神の手」のほうが、おいしい。
- この時からアルゼンチンvsイングランドの因縁の対決が始まった。
- 日本代表の最終予選。『東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいているような気がします。』
- 国立での第1戦は木村和司のFKで1点を決めたが1-2で敗戦。ソウルでの第2戦も0-1で落とし、ワールドカップ初出場は1998年までお預けとなった。
- 韓国戦2連敗の後に森孝慈監督は「日本と韓国の差はプロリーグが有るか無いかに尽きる」「韓国に追い付くには日本にもプロリーグを作るしかない」と明言。
- 森監督のこの発言がJリーグ創設のきっかけになったといっても過言ではない(当時韓国には不完全ながらプロリーグが存在していた)。
- 韓国戦2連敗の後に森孝慈監督は「日本と韓国の差はプロリーグが有るか無いかに尽きる」「韓国に追い付くには日本にもプロリーグを作るしかない」と明言。
- 一方これで2度目の出場となった韓国はここから連続出場を重ねている。
- 尤もグループリーグではアルゼンチン・イタリアと同組だったのが痛く、1分2敗のGL最下位で大会を去ることになった。
- 国立での第1戦は木村和司のFKで1点を決めたが1-2で敗戦。ソウルでの第2戦も0-1で落とし、ワールドカップ初出場は1998年までお預けとなった。
- 当初はコロンビアで開催される予定だった。
- しかし、治安や景気の問題でやむなくメキシコに変更となった。
- そのメキシコも1985年に地震に見舞われて、開催が不安視されていましたが…
- 前回優勝国のイタリアは自慢の守備陣が今一つ。グループリーグは1勝2分けでなんとか突破したが、決勝トーナメント1回戦で優勝候補のフランスに0-2で敗れた。
- カナダ・デンマーク・イラクが初出場。
- 得点王はイングランドのリネカー(6得点)。後にグランパスでもプレーしたが…。
イタリア(1990年)[編集 | ソースを編集]
- 晩年、引退までジュビロで活躍したイタリア代表のスキラッチが得点王になったのがこの大会。
- 天才マルコ・ファン・バステン、前バルサ監督のフランク・ライカールト、フェイエ時代の小野の監督だった「黒いチューリップ」ことルート・フリットの「オランダトリオ」を擁したオランダが奮わなかったのは結構衝撃だった。
- 結果的にはそのオランダを下した西ドイツが優勝した。
- マラドーナの話はある意味禁句。
- いつの大会でもそうかもしれないけど、面白い良い選手がたくさんいた。
- 個人的には、若き日のバッジオ、変態キーパーのイギータ、カメルーンのロジェ・ミラなどなど。
- ドリブルで上がっていったGKイギータからミラがボールをかっさらって無人のゴールに蹴り込んだ場面がいちばん笑ってしまった。
- この人、GKのくせに度々PKがFKを自ら買って出ていた。もちろんゴールはほったらかし。そもそもGKでドリブルでハーフウェー突破ってあんた……。
- ちなみにそのイギータは「最近は面白いGKがいなくなってしまった」。あんたが面白過ぎるんだよ。
- 個人的には、若き日のバッジオ、変態キーパーのイギータ、カメルーンのロジェ・ミラなどなど。
- この大会のセレソンの約半数は数年後Jリーグでプレーした。(ジョルジーニョ、ドゥンガetc)
- 開催国イタリアは強かっただけにベスト4での敗退が悔やまれる。
- アルゼンチン代表にPK戦で敗れてしまいました。
- 決勝に行ってれば強いとはいえ、抜群に相性バッチリの西ドイツ。PK戦にさえ持ち込まれなければ地元優勝してただろうな。
- そしてほくそ笑んでいた西ドイツ。悪役マラドーナ率いるアルゼンチンのおかげでヤケクソとはいえ、イタリア人から正義の味方として決勝では大きな声援を受けることができた。
- 多くの問題が浮き彫りとなった大会でもあり、英国放送協会からは「守備的サッカーが横行したワールドカップ史上最悪の大会」と評されてしまった。
- 初出場はアイルランド・コスタリカ・アラブ首長国連邦。
- このうちアイルランドとコスタリカは決勝トーナメントまで進出している。
- 得点王はイタリアのスキラッチ(6得点)。後にジュビロ磐田でプレーした。
アメリカ(1994年)[編集 | ソースを編集]
- 「サッカー不毛の地」と呼ばれた国での開催だが、大会的には大成功。
- 何しろ「サッカー場」などないので、フットボール場などで試合を行った。
- 決勝はローズボウル(パサディナ)だった。
- サッカー日本代表にとっては「ドーハの悲劇」の時の大会。
- ちなみに次回大会の優勝国であるフランスも同じ様な境遇を辿って本大会出場を逃している。日本では「パリの悲劇」とか何とか。
- 一方、彼らにしてみれば「ドーハの奇跡」。何しろ自力突破がほぼ絶望的な状況だった訳ですから。
- その韓国は本大会では勝利を挙げられず、またもやグループリーグで敗退。
- GLでの成績は2分1敗の3位。スペインとボリビアに引き分け、ドイツには0-3の状況から2点を取って1点差まで追い上げたが…。
- 因みにもしベスト16に入ったら、選手1人当たりに1億ウォン(約1200万円)の勝利ボーナスを支給するつもりだったらしい。
- GLでの成績は2分1敗の3位。スペインとボリビアに引き分け、ドイツには0-3の状況から2点を取って1点差まで追い上げたが…。
- バッジオのPK失敗で幕を閉じた。
- この大会でオウンゴールを決めてしまったコロンビアのディフェンダーがその後に射殺されると言うショッキングな出来事が起こった。
- エスコバルの悲劇ね。
- ちなみにコロンビア代表は怖がって誰も国に帰ろうとしなかったが、エスコバルはキャプテンでもあったため、「説明しなければならない」と帰って被害に遭った。
- これ以来、日本では「自殺点」と言わないようになった。英語では最初から“Own Goal”。訳者のセンスの問題。
- エスコバルの悲劇ね。
- マラドーナ、ドーピングに引っかかって追放。本当に話題の尽きない人だなぁw
- ジュビロで活躍した現ブラジル代表監督のドゥンガや、ブルガリアの英雄ストイチコフ、悪童ロマーリオなんかが活躍した。
- この大会のブラジル代表は評価が低かった。理由は守備を重視していたことによるものらしい。
- 勝利時の勝ち点が3になったのはこの大会から。
- イギリス4協会がすべて予選敗退という珍事も。
- ロシアのサレンコが1次リーグ敗退ながら得点王。
- 既に敗退が決まっていたカメルーン戦で5ゴールの荒稼ぎが活きた形となった。
- 初出場はナイジェリア・サウジアラビア・ギリシャ。
- 4チーム全て1勝1分1敗で並び、得点差で順位が決まったグループがあった。
フランス(1998年)[編集 | ソースを編集]
- 出場枠が32に。
- そして日本初出場。
- いきなりアルゼンチン・クロアチアと言った強豪国と当たり、ジャマイカにも破れて3戦全敗。初めはそんなもんです。初めは。
- グループリーグの組み合わせ抽選結果により、多くの日本人は「ジャマイカには勝てるぞ!」と思ったが、じつはジャマイカ人も「日本にだけは勝てるぞ♪」と思っていたらしい。
- このグループはアルゼンチン以外すべて初出場国。このほか南アフリカが初出場。
- クロアチアもユーゴスラビアが崩壊して初の出場だった。
- 記念すべき初ゴールを決めたのはゴンこと中山隊長。ジャマイカ戦。
- ちなみに試合中に骨折していた事が後から分かったのは有名な話。気付かずにプレーを続けていた。
- この大会での活躍が認められて中田(英)はペルージャへ旅立った(確か)。
- あと確かまだ10代だった小野伸二が最後のジャマイカ戦で後半ちょっとだけ出て割と良い動きをしていた記憶がある。
- 岡ちゃんの「外れるのはカズ、三浦カズ(他2名)」が忘れられない。
- 日本は2002年のW杯開催が決まっていたが、開催国として初出場、ではかっこ悪いのでそれまでに自力出場する必要があった。そこで予選で韓国にわざと負けてもらったという説がある。
- その話の真偽はひとまずおいておくにしても、日韓戦の同節に2位を争っていたUAEが組最下位のカザフスタンに負けたことの方が(結果的に)大きかったとは思うけどね。
- で、当の韓国はまた未勝利でグループリーグ敗退。5回(当時)出てすべてグループリーグ敗退という悲運ぶり…
- GL初戦のメキシコ戦(リヨン)は先制弾を決めた河錫舟がその直後に一発退場、メキシコの猛反撃を喰らい1-3で逆転負け。
- 2戦目のオランダ戦(マルセイユ)は0-5の完敗。所謂「夢のスコア」。
- 3戦目のベルギー戦(パリ)は柳想鐵の同点ゴールで1-1の引き分けに持ち込んだが、結局初勝利を挙げることは出来なかった。
- いきなりアルゼンチン・クロアチアと言った強豪国と当たり、ジャマイカにも破れて3戦全敗。初めはそんなもんです。初めは。
- 優勝は自国開催のフランス。
- 決勝でのジダンの2ゴール(何れもヘディング)は鮮烈に残っている。いや深い意味はないけど。
- この試合、ロナウドが試合前に痙攣を起こしたとかで本調子を出せなかったと言うのも記憶に残っている。結果0-3の完敗。ロスタイムのプティのトドメが更に哀れを誘った。
- あの時はジダンの髪の毛がたくさんあった、とかいうのは禁句。
- フランスはジャケ監督の下「カントナ外し」を行ってジダンを中心とした若手主体のチームを作って大成功した。
- 決勝でのジダンの2ゴール(何れもヘディング)は鮮烈に残っている。いや深い意味はないけど。
- イングランドvsアルゼンチン戦で当時から注目の選手だったベッカムがシメオネに仕返しして1発退場と言うのも鮮烈な出来事だった。
- その試合で当時まだ18才だった元祖ワンダーボーイ、マイケル・オーウェンがハーフウェー付近から4~50mの距離をゴール前までスピードで一気に突破、そして決めると言った(vsアルゼンチンだけに)マラドーナも真っ青なスーパーゴールがあった。
- ベッカムは予選リーグで、元祖ボンバーヘッドのバルデラマ擁するコロンビア戦でもフリーキックを決めたりと活躍してたんだけど、悪い意味で若さが出た。
- スコットランドが1次リーグ敗退8度目という不名誉な最多記録を樹立してしまった。
21世紀[編集 | ソースを編集]
関連項目[編集 | ソースを編集]
- 世界各国の人々の反応